*徳川家康の所有刀剣であった「ソハヤノツルキウツスナリ(伝光世作)」について、これまでに集まった情報について記載及び検討をしてみる。基本情報→徳川家康の所有→徳川家康との逸話→家康以前の所有者→写しか否か?→三池か否か?の順で記す。
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*徳川家康の所有刀剣であった「ソハヤノツルキウツスナリ(伝光世作)」について、これまでに集まった情報について記載及び検討をしてみる。基本情報→徳川家康の所有→徳川家康との逸話→家康以前の所有者→写しか否か?→三池か否か?の順で記す。
1、基本情報
種類:太刀
銘:無銘
所持(切付)銘:佩表「妙純傳持ソハヤノツルキ」佩裏「ウツスナリ」
刃長:67.9cm(二尺三寸三分)←二尺三寸三分半と記す史料もある
反り:2.4cm
元幅:3.9cm(一寸二分半)
先幅:2.7cm
鋒長:2.1cm
元重:0.7cm
先重:0.4cm
茎長:16.8cm
彫物:表裏に幅広の棒樋と添樋を茎の中程まで掻き流す
造込:鎬造
鋒(きっさき):猪首鋒
肌目:板目肌
刃文:中直刃で喰違刃、湯走り状の二重刃交じり、小沸よくつき匂口冴える
帽子:直ぐ、先小丸に返る
茎(なかご):雉股形、先切、鑢(やすり)目切。生ぶと磨上げの両方の説あり
目釘穴:2個
文化財:重要文化財(明治44年4月17日(徳川家康の命日)指定。戦前は国宝)
↓
○太刀:刃の部分の長さが二尺(60cm)以上あり、刃を下にして腰に吊るす(=佩いた)ときに所持銘の「妙純傳持ソハヤノツルキ」が左側(表)にくるので、打刀ではなく「太刀」となる。
○無銘:茎(なかご)に刀工の名は刻まれておらず、製作者は不明である。刀身の特徴から「三池伝太(典太),三池光世,伝太光世」の作とされる。『徳川実紀』や久能山の史料でも「三池」もしくは「御池」と記され、徳川家康が作らせたと思われる「鍔」にも「三け=三池」と刻まれている。
○所持(切付)銘:「妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ」をそのまま読むと、「妙純が伝え持つ、ソハヤノツルキを写した」か「妙純より伝え持つ、ソハヤノツルキを写した」となるだろうか。妙純とは美濃(岐阜)の斎藤妙純(利国,1497年没)で、ソハヤノツルキは坂上田村麻呂が所持していたと伝わる「騒速(ソハヤ)」ではないかとされる。刀に所持者の名や伝来を刻むのはよくあるが、「所持」ではなく「傳(伝)持」を使うのは珍しい。
○刃長〜目釘穴:この刀の特徴は、「元幅3.9cm、先幅2.7cm」と身幅がかなり広いことと、「鋒長2.1cm」と鋒(切っ先)が短い猪首鋒にしても鋒自体が極端に短いことである。両方とも三池派、鎌倉時代の刀の特徴である。そのためか、ソハヤノツルキウツスナリ(伝光世作)は「鎌倉時代の刀」として重要文化財登録されている。
(*身幅・猪首鋒の長さ比較ー宗三左文字:元幅3.2cm/先幅2.2cm/鋒長3.2cm、日光助真:元幅3.2cm/先幅2.5cm/鋒長3.79cm←宗三、日光ともに身幅が広く、猪首鋒とされる刀である。ソハヤの身幅の広さと鋒の短さが分かると思う。大典太光世との比較は下の「三池か否か?」で行う)
2、徳川家康の所有
ソハヤノツルキウツスナリ(伝光世作)は、「徳川家康の刀といえば三池光世(ソハヤ)」として知られる。
写しや光世作は家康と比べると、さほど注目されない。
写しと三池は確証がないが、家康の所有だけは確実だからであろう。
また、下の「3」で述べる家康との逸話が有名なのもある。
ソハヤノツルキウツスナリは、家康の遺品分配リストである『駿府御分物帳』には載っていない。
日光東照宮に納められた「助真(すけさね)」は「日光へ 助真」と記載されている。
『駿府御分物帳』に載っていれば家康の所有は確かであるが、ソハヤノツルキウツスナリは名がない。
しかし、以下の条件から家康がソハヤノツルキウツスナリ(三池)を所有していたのは、確実であろう。
一、家康の遺品が数多く納められた久能山東照宮にある。
二、家康所有が確実な助真によく似た拵を持つ。
他にも『明良洪範』や『徳川実紀』などに三池(ソハヤ)の記述があるが、一次史料ではないため、除外し後述する。
一、二、を補強する材料としては、ソハヤが入っていた刀箱がある。
ソハヤと同じく重文指定されており、十振は刀を掛けられる刀掛けを箱状にして両脇に持ち手を付け、持ち運びができるようにした変わった刀箱だ。
漆地に「桐」と「葵」などの豪華な蒔絵がほどこされている。
「桐紋」といえば羽柴(豊臣)であるが、この桐は家康所用の甲冑や陣幕にも見られる形状(五七桐の五の桐の花が葉に半分隠れる形)で、家康は桐の使用を秀吉に認められていた。
大坂の陣後、徳川は桐を使用しなくなり、『徳川実紀』にも家康は桐紋の使用を断ったと記されているが、家康の遺品には桐が装飾された物が多くある。
この刀箱もその一例である。
桐がある時点で大坂の陣前の作成と、家康の遺品であるのはほぼ間違いない。
久能山の史料はこの刀箱にソハヤ(三池)、貞宗、行光の三振が入っていたと記す。
ソハヤ(三池)が「刀箱に入っていた」記述は、次の「3」で記す『徳川実紀』の内容と矛盾する。
矛盾するが故に逸話に合わせた「創作」がされておらず、それなりの信憑性があると言えるだろう。
刀箱は「一」「二」と比較すると副次的な要素ではあるが、明治44年にソハヤノツルキウツスナリと同日に旧国宝指定された宝物でもあるので、特に載せた。
3、徳川家康との逸話
ソハヤノツルキウツスナリ(三池)といえば、徳川家康との「逸話」が有名である。江戸幕府の公式記録である『徳川実紀』にも載っているため、ソハヤについて記す本には必ず引用される。引用されるのはこの2つのエピソードだ。
一「死を前にした徳川家康が三池(ソハヤ)で罪人の生胴を切らせた後、刀を二、三度振ってから鞘に納めて、枕刀と交換させた」
二「(西国の情勢は未だ不安定だから)家康は自分の遺体を西国に向けて立てて埋葬し、この三池も切っ先を西国へ向けて立てておけと遺言した」
「一」の逸話は『東照宮御実記附録(家康の徳川実紀)』巻十六に、家康が死亡する前日4月16日の出来事として記されている。
日付には移動があり、台徳院御実記(秀忠の徳川実紀)』巻四十二では4月15日のこととされ、『明良洪範』では4月1日の夜となっている。
徳川家康が病没するまでの過程は、以前、金地院崇伝の日記他を用いてまとめたことがある。→参照:https://togetter.com/li/1092080
1月22日に発病した家康は、2ヶ月にわたる食欲不振の後、4月11日から何も食べなくなった。
いくら晩年の徳川家康が太り気味だからといって、2ヶ月にわたり食事の量が減っていれば、体力は相当失われていたに違いない。
物を食べなくなった実年齢73歳の老人が、死ぬ直前に立ち上がって刀を振るうのは不可能だ。
恐らく、死ぬ寸前に刀を振るった方が将軍として格好がつくとの判断と、『明良洪範続編』が他界の日(4月17日)、『落穂集追加』が4月16日と記しているのを採用して、17日の前日や前々日に「一」のエピソードが置かれたのだろう。
崇伝の日記他にある容態からして、15日、16日あたりは、家康の意識があったのかどうかもあやしい。
「二」の家康の遺体を西国に向けて立てる逸話は家康・秀忠の『徳川実紀』にあるが、ソハヤ(三池)を西国に向けて立たせる部分は、家康の方の実記にしか書かれていない。
実際に徳川家康の遺体が立ったまま埋葬されたのかは不明である。
元和2年4月17日巳刻(午前10時頃)に死亡した家康の遺体は、翌18日寅刻(午前4時頃)に駿府城を出て久能山に埋葬された。
一周忌の際、日光東照宮に遺体が移されたとされているが、久能山にも遺体が残されているとの説もあり、どちらに遺体があるのかは分からない。
上の「3」の刀箱で指摘したように、ソハヤ(三池)を西国へ向けて立たせるよう遺言した、との逸話は、以下に載せた久能山の史料と合致しない。『 』で括った部分に、ソハヤ(三池)が他の2振の刀(貞宗,行光)とともにこの刀箱に入っていたと記してある。
黒塗箪笥御紋並桐蒔絵有
(此御箪笥は御刀箪笥にして、左右に御重箱やるのもの一つ宛ありて、いとおかしき作りざまなる物也、御重箱やうの物の内に、御柄はらい。打粉、寒酒の紙すべて御拭の料入なり。前に記す『御剣の類皆此内にて入て御内陣に秘置』といふ)
あの刀箱に入ったまま久能山に納められたのなら、ソハヤ(三池)は横向きになっており、立っていない。
ソハヤ(三池)を「此三池之御太刀御神体同意に奉尊崇御事に御座候」とする久能山の史料に、『徳川実紀』とは異なる記述があるのが興味深い。
恐らく、罪人の生胴を切った、死ぬ寸前の家康が振るった、切っ先を西向きにして立たせたなどの話は、ソハヤ(三池)が久能山に納められたが故に後からできた「逸話」で、実際は家康の遺品の1つとして他の刀剣類と一緒に蔵に入れられたに過ぎないのだろう。
(『東照宮御実記附録』巻二十三には「御遺言にて久能の御宮に納め置れしなり」とソハヤ(三池)が、家康の遺言により、久能山に納められたとある。『徳川実紀』で家康の愛刀とされ、遺品分配リストに名がない宗三左文字、本庄正宗、菖蒲正宗も遺品として分配されていることから、愛刀の行き先は家康が指示した可能性もある)
刀は一次史料がほどんどなく、逸話や伝承が「価値」を支えている側面がある。
他に類例がない「徳川家康との逸話」を持つソハヤノツルキウツスナリ(三池)は、後世(江戸時代)の人々が「初代将軍家康との特別な逸話を持つにふさわしい刀」と思ったからこそ、『徳川実紀』に「一」「二」の逸話があるのだろう。
ソハヤノツルキウツスナリ(三池)は、無銘故に三池との確証はなく、ソハヤノツルキウツスナリと刻まれていても写しかどうかは不明である。
江戸幕府初代将軍徳川家康の存在は、ソハヤノツルキウツスナリにこの上なく大きな付加価値を与えている。それだけはこの刀にとって確かなことなのだ。
4、家康以前の所有者:斎藤家?織田家?御宿家?
徳川家康以前にソハヤノツルキウツスナリ(三池)を所有していた候補としては、○美濃の斎藤家、○織田家、○御宿(みしゅく)家などが上げられる。
『明良洪範続編』に御宿家の所有が書かれているため、ソハヤノツルキウツスナリ(三池)は、御宿家が家康に進上したと説明されることが多い。
しかし、前のソハヤノツルキウツスナリに関する史料で指摘したように『明良洪範続編』の内容は誤りが多い上に、文章自体が御宿家をヨイショするために書かれている。
家や人に関してこういう意図が明らかな史料は、信用度が下がる。
また、御宿家が家康に進上したとしても、時期は書かれていない。
『日本刀大百科事典』で大坂の陣の後に進上したと書いてあるため、ネット上でもそれがまかり通っているが、史料には進上時期の記述はなく、あくまでも「推測」でしかない。
その他にも、『明良洪範』の信憑性の低さや、大坂の陣後の進上が否定できる材料があるため、以下に記す。
○斎藤家
ソハヤ(三池)の所持銘は「妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ」である。この「妙純」は斎藤妙純(利国)という実在の人物を示しているとされ、この所持銘を信用した場合、斎藤妙純のソハヤ(三池)所有は確実となる。
斎藤妙純は美濃の守護代斎藤家の人で、生年は不明、没年は1497年である。応仁の乱(1467~77年)では伊勢に出兵、異母兄と対立や周辺国(越前,尾張,近江)での多くの戦いや争いに参加・介入し、明応5年(1497年)に戦死した。
所持銘には「妙純傳(伝)持」とある。「妙純が伝え持つ」か「妙純から伝え持つ」では意味が異なるし、「伝持」には仏教用語で「法を受け伝え維持していくこと」という意味もある。
妙純は法名であるため、仏教的意味合いで解釈した方がいいかもしれない。
『明良洪範』はこの「妙純傳持」を「中屋妙傳所持」と記している。
著者の増誉が正確な所持銘を知らなかったのは明らかである。
「妙純」との所持銘を知らないまま、増誉は『明良洪範続編』を書いており、『〜続編』の方には「御池」「そばえの剣」とはあるが、所持銘の記載はない。
増誉の時代には「ソハヤノツルキウツスナリ」の部分はともかく、所持銘は知られてなかったのだろう。
「中屋妙傳」という名に該当する人物は、今のところ、見当たらない。
増誉が「妙純」という正確な所持銘を知っていたら、御宿家の所有を書いたかどうか、推測の域を出ない。
ソハヤノツルキウツスナリを作成させたのも斎藤妙純である、との説がある。
「ソハヤノツルキウツスナリ」はカタカナで刻まれていて、その表記から室町時代に刻まれたものとされている。
妙純と所持銘は時代が一致する。
作らせたかどうかは別としても、ソハヤノツルキウツスナリと斎藤妙純の関係を否定する材料はさほどないが、所持銘の妙純が斎藤妙純であるとの確証はない。
○織田家
久能山の『久能山御宮御寶物目録』には「元来徳川家相伝の御物にあらず、織田信雄公御援兵の為に勝利を得たる謝恩として贈り参らせし物という」と記されている。
明治21年に作成された史料であるため、『明良洪範』の方を取るべきであろうと久能山の図録にあるが、上記のように『明良洪範』も正確さを欠く。
斎藤家は美濃の守護代であり、尾張の織田家との接触は別系統の織田家であるが、妙純の時代にもある。
妙純の斎藤持是院家は斎藤道三の時代に断絶した。織田家は信長のときに美濃に進出している。
武田と同盟を組んだときに、妙純が武田氏にソハヤノツルキウツスナリを渡して、武田から御宿家へ移ったという「推測」もあるが、史料上で確認できない推測が成り立つなら、斎藤家と接触が多く、美濃を手に入れた織田家にソハヤノツルキウツスナリが渡っていてもおかしくない。
織田信雄(信長の三男)は小牧長久手の戦い前後、家康と何度も会っている。
その際に刀の贈答があるのはごく普通のことなので、信雄から家康にソハヤノツルキウツスナリ(三池)が贈られていても不自然ではない。
『明良洪範』と『久能山御宮御寶物目録』の記述の信憑性は、似たようなものだと個人的には思う。
また、『久能山御宮御寶物目録』は「元来徳川家相伝の御物にあらず」と記していて、敢えて、徳川相伝の付加価値を捨てている。
『徳川実紀』他に記述がないからであろうが、「妙純傳持」の所持銘を踏まえれば、織田信雄からの伝来も一説として記すべきではないだろうか。
この場合、家康は天正12年(1584年)頃にはソハヤノツルキウツスナリ(三池)を手に入れていたことになる。
○御宿家
「此名刀後年子細有て神君(家康)へ献奉る」と、御宿家がソハヤノツルキウツスナリを家康に進上したと記すのは、『明良洪範続編』である。『明良洪範』ではないので注意。(wikiには誤って『明良洪範』とある)
『明良洪範』『明良洪範続編』ともに、真田氏の増誉の本であるとされる。
成立は増誉没(1707年)以前の江戸中期であろう。
家康が4月1日にソハヤ(三池)で罪人を斬らせたと記すのは『明良洪範』で、家康が他界の日(4月17日)に生胴を試させて血を拭わないまま鞘に納めたと書くのが『明良洪範続編』である。
ほぼ同じことを書いていながら日付が違っていて、『明良洪範』は三池(ソハヤ)について記すところでは御宿家については一言も書いてない。
『明良洪範続編』は、御宿家について記す記事の途中で、三池(ソハヤ)について触れる。
『日本刀大百科事典』に、大坂の陣の後、大坂方であった御宿勘兵衛の猶子源左衛門貞友が大坂方についた罪を許してもらうため家康にソハヤノツルキウツスナリを進上したのであろう、との推測が載っている。
ネット上によくあるのが、この「推測」である。
『明良洪範続編』には「此名刀後年子細有て神君へ献奉る」と書いてあるだけで、いつ家康に進上したのかは書いてない。また、『〜続編』は御宿勘兵衛を源左衛門と記すが、これは猶子?の御宿源左衛門貞友のことで、ここも誤っている。
『大坂の陣豊臣方人名事典』によれば、御宿勘兵衛は「武田氏→後北条氏→徳川家康→蒲生氏→上杉景勝→結城秀康→羽柴秀頼」と仕える家をどんどん変えており、家康に仕えていた時期もあるとされる。
進上する時期はここでもよいと「推測」できる上に、御宿勘兵衛政友(綱秀)は父の友綱に「勘当」されていて、御宿家は次男の政綱が継いでいる。
勘当した子に『明良洪範続編』に「御宿越前守と号す此家に伝来せし名剣あり」とある刀を渡すだろうか。
また、大坂の陣後に説得力がないのは、家康がこの戦いの後に進上された刀を「受け取っていない事例」が2つあるからだ。
編纂物の『駿府記』出典ではあるが、家康は、真田信繁の妻を捕えた浅野長晟が進上した来国光の脇差を長晟に戻し、本阿弥光室が進上した骨喰藤四郎をそのまま本阿弥に返すなどしている。
他にも大坂の陣で破損した、大名物の茶入九十九髪茄子も修復したのを修復者に与えている。
家康にソハヤノツルキウツスナリ進上して「罪を許してもらう」のも難しい。
何故なら、大坂の陣後の処罰は家康の一存ではなく、秀忠との合議、もしくは秀忠によって決定しているからだ。
『徳川実紀』によれば、羽柴秀頼に自害を求めたのも秀忠である。
骨喰藤四郎を秀忠が褒美と引き換えに受け取ったように、罪の軽減を願うなら秀忠に進上すべきなのだ。
などと、『日本刀大百科事典』の「推測」を否定する材料は幾つか挙げられる。
最後にもう1つ付け加えるなら、大坂の陣が終わったのは元和元年5月で、家康が病没するのはその11ヶ月後だ。自分を葬り祀る場に、つい最近手に入れたばかりの刀を遺品として納める気になるかどうか。そのあたりも考えた方がよいと思う。
5、写しか否か?
ソハヤノツルキウツスナリ(三池)は、所持銘に「妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ」とあるため、「ソハヤノツルキ」を「写した」刀とされる。
ソハヤノツルキは、坂上田村麻呂が所持していた「騒速(そはや)の剣(そはや丸,楚葉矢など表記は複数ある)」を示す。
ソハヤノツルキウツスナリが「騒速」を写したかどうかについては、様々な疑問点がある。
以下に挙げる。
一、坂上田村麻呂の時代(平安時代前期)の刀は直刀であるが、ソハヤノツルキウツスナリは直刀ではない。(形状が明らかに違う)
二、刀匠が写すべき「騒速」を見ることができるか。
三、この刀は初代三池光世作(平安時代後期)とされる。その時代に模造刀を作るか?
四、この刀の特徴は幅広で猪首鋒。これは鎌倉時代中期の特徴とされ重文指定も「鎌倉時代」であるが、所持銘のカタカタは室町時代の書体とされる。(刀の特徴と「写し」を示す書体の時代が一致しない)
五、付加価値目的で後で所持銘が入れられた可能性はないか。
○「一」について問題視している本や記述を見たことがない。形状を模造しない「写し」など有り得るのだろうか?個人的にはおおいに疑問に思うところである。形状を写してない時点で、この刀は写しではないと言えないのだろうか。
○「二」の騒速については、播磨清水寺の大刀、鞍馬寺の黒漆太刀、大和子嶋寺の楚葉矢、熱田別宮八剣宮の鬼討取釼ノソハエ釼が見ることができる候補となる。
ただし、楚葉矢は形状が鉾であり、鬼討取釼ノソハエ釼は『熱田宮秘釈見聞』に記述があるが、存在自体が不明。
現在も存在が確認できるのは、播磨清水寺の大刀と鞍馬寺の黒漆太刀である。
『熱田宮秘釈見聞』(1333年頃成立)には「八釼者。叢雲釼。十拳釼。クサナギノ釼。討取給東夷釼。日柄豊前前々司云人母鬼取有時。熱田大明神祈請申タリシ。鬼討取釼ノソハエ釼名。合八釼也」と書かれている。
ソハエ釼は田村麻呂の記述がなく、「日柄豊前前々司の母が鬼に取られたときに熱田大明神に祈願して鬼を討ち取った剣」となっている。
ソハヤノツルキウツスナリはこの熱田別宮八剣宮のソハエ剣を写したともされることがあるが、付属する物語は坂上田村麻呂の「騒速(そはや)」とは違うものだ。(『熱田宮秘釈見聞』の内容は神の本地を仏とする本地垂迹)
一応、刀匠が見ることができる?「ソハヤ?」はあったとなるが、熱田別宮八剣宮の「ソハエ釼」は坂上田村麻呂の刀ではない。
○「三」については、ソハヤノツルキウツスナリ自体が初代三池光世作ではなく、世代の違う三池光世の作ともされており、問題ないとも言える。
ただ、三池派は九州の筑後の刀匠であり、上の「ソハヤ」がある場所とはかなり離れている。
室町時代に筑後国大村に移住した光世一派は安芸国小春住光世の門人、もしくは同人とも伝えられている。
安芸ならば播磨には多少近い。
他に「肥前」「肥後」の光世銘がの刀あるが、どちらも九州である。
三池派が「ソハヤ」を見て作るのは、位置的に難しい。
ソハヤノツルキウツスナリが光世作であった場合、「ソハヤ」の写しである可能性はかなり低くなるのではなるようだ。そのため、この刀には下のように「兼定作」という説がある。
○「四」の幅広・猪首鋒は元寇前の鎌倉時代の刀の特徴とされる。
これは三池派の特徴でもある。三池派が得意とする「樋」もあることから、ソハヤノツルキウツスナリは三池の刀とされ、鍔にも「三け」と刻まれ、『徳川実紀』や久能山の史料では一貫して「三池,御池」と記される。
しかし、三池作の「ソハヤ」の写しとするには「三」のように条件が厳しい。
また、鎌倉時代の特徴は所持銘の字体と時代が合わない。
そのために出て来たのが、斎藤妙純が美濃の刀匠で「似せ物」の名人と言われる初代和泉守兼定に「ソハヤノツルキウツスナリ」を作らせたのでは、という説である。
兼定作を唱える論文の要約がここにある。http://www.nbthk-gf.or.jp/ronbun08.htm
ただ、この要約を書いた方は「ソハヤノツルキウツスナリ」の刃文を兼定の特徴と同じとしながらも、「ソハヤノツルキウツスナリ」を見たことがないと記してもいる。
刃文情報は伝聞だ。
そしてこの説では模造したのは熱田八剣宮の「ソハエ釼」となり、「傳持」の部分は「重代」と同じで「代々受け継ぐ」という意味で解釈される。
しかし、代々受け継ぐという意味を持たせながら、妙純自身が武田氏に譲渡したとするのはどうだろうか。
「傳持」の意味と行動が矛盾している。それに八剣宮の「ソハエ釼」を写したのなら、この「ソハエ釼」は幅広で猪首鋒という鎌倉時代の特徴と「樋」があることになる。
その形状をしていた場合、確実に坂上田村麻呂の「ソハヤ」ではない。
また、「妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ」の文字が兼定にしては「上手過ぎる」との指摘もある。
○「五」の所持銘を後で刻んだ、はどうだろうか。
この場合、ソハヤノツルキウツスナリは三池作、鎌倉時代の刀であっても問題はない。
この刀を手に入れた室町時代の妙純が「妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ」と刻ませればよい。
ソハヤの写しとして作られたのではなく、後から「ソハヤノツルキウツスナリ」と刻まれてソハヤの写しにさせられた、とした方が話としてはすっきりする。
そのためか、坂上田村麻呂の「ソハヤ」の霊力だけを写したとの説すらある。
『徳川実紀』はこの刀を「三池,御池」と記し、坂上田村麻呂や騒速については一度も触れない。
征夷大将軍となった家康が「ソハヤ」の写しを所持しているのは、ちょうどよい物語になるであろうに、採用していないのだ。
『明良洪範続編』には「そばえの剣」とあり、編纂が19世紀の『徳川実紀』に使えないことはない。
ただし、『明良洪範』には「込ニ以莫耶之剣模之」とあり、「莫耶之剣」を模倣したと書いてある。
「莫耶之剣」は「ソハヤノツルギ」ではなく、「ばくやのつるぎ」であり、中国の伝説の剣である。
(干将莫耶(かんしょうばくや)という雌雄剣の片方のことで、莫耶は刀工の妻の名。妻の髪を炉に入れて作った名剣とされる)
『明良洪範』では「莫耶之剣」、『明良洪範続編』では「そばえの剣」と、写した刀が違っている。
この部分からも著者の増誉が正確な所持銘を知らなかったのが分かる。
騒速を写したと刻んであるのも大概だと思うが、「莫耶」を写したとするのは大風呂敷過ぎないか。
「莫耶」の物語は、『今昔物語』や『太平記』にもあるので、すごい刀を写したと強調しようとしてやり過ぎたのだろう。
久能山の史料もこの刀をあくまでも「三池」と記す。ソハヤの写しであることより、「三池」の方が重要であるかのような書き方だ。
坂上田村麻呂の時代の刀と形状が違うため、三池より「写し」の方に懐疑的だったのだろうか。
『日本刀大百科事典』では、茎(なかご)の始まりが目釘穴より下にあるのは、磨り上げであることを示すが、刃文の焼きだしは刃区の刃角から始まっているから、磨り上げではない、だから、ソハヤの写しとして作られた刀剣であると記す。
そのため、事典では上の兼定作であろうとされている。
ただし、八剣宮のソハエ釼が坂上田村麻呂のソハヤであるという前提ではある。
だいぶ、文章量が多くなったので最後にまとめておく。
☆1:三池作である場合、ソハヤの写しとして作られた可能性は低い?
☆2:ソハヤの写しとして作られた場合、三池ではなく兼定の作?
簡単過ぎるかもしれないが、こういうことであろうか。熱田別宮の八剣宮のソハエ釼とやらが表に出て来たら、また事情が変わるだろうが、そもそもこの剣が存在しているのかどうか…。「ソハヤノツルキウツスナリ」と刻まれていながら、「ソハヤ」の写しかどうかもあやふやな刀である。
6、三池か否か?
無銘の刀であるソハヤノツルキウツスナリが「三池」の作とされるのは、徳川家康がこの刀を「三池」だと思っていたから、だ。
神君の遺品であるこの刀の鍔に「三け」と刻ませることができるのは、家康だけである。
『駿府御分物刀剣元帳』記載の徳川家康の遺品刀剣は、1000本以上である。
大久保長安らからの没収品を除くと、所有刀剣数は777本。
そのなかの「被下物之御脇差」に「つは 三いけ」があり、「つは」は「三いけ」の右横に小さく書いてある。
『駿府御分物刀剣元帳』で右横に小さく書かれているのは、「号」や「進上者」「家康が手に入れた場所」「刀剣の特徴」など、様々である。
他にも「つは」と書かれている刀があるため、号ではないだろう。
ソハヤの鍔に「三け」と刻まれていることから、同じように鍔に「三いけ」とあるのかもしれない。
脇差ではあるが、家康はソハヤ以外にも「三池」の刀を所有していたのだ。
また、池田輝政の遺品分配リスト『池田分限帳』の六男輝興への分配品の中に「三池之刀 御所様より拝領」とある。
「御所様」は家康のことで、輝政が家康から「三池」の刀を貰っていたのが分かる。
(他にも家康・秀忠から拝領した刀が幾つかある)
この「三池之刀」に銘があったかどうかは不明だが、家康は自身の佩刀には無銘を好み、銘入りを手放す傾向がある。
輝政は慶長18年正月に病没しているため、家康→輝政の贈答はそれ以前。
刀剣愛好家?だったらしい輝政の遺品分配リストにある刀は133本と多い。
そんな輝政に真贋のあやしい「三池之刀」を渡すとは思えないから、この刀が三池であった確率はかなり高いだろう。
ともあれ、この輝政の遺品からも家康の手元に別の三池の刀があり、ソハヤノツルキウツスナリ(三池)と比較できた可能性があるのを指摘しておく。
ちなみに、今から比較対照とする大典太光世も秀吉→家康と移動した説がある。
大典太光世(大伝太光世)は前田家伝来の刀で、初代三池光世作の唯一の在銘刀「光世作」である。平安時代後期の他の刀と比較すると異様の体であり、「光世」銘がある南北朝時代の刀が存在するため、南北朝時代の作とする説もある。現存する三池は鎌倉中期ないし末期の大磨り上げ無銘が多いそうだ。(←ソハヤノツルキウツスナリの形状と無銘はこのあたりに合致する。故に、文化財登録は「鎌倉時代」なのだろう)
以下、大典太とソハヤノツルキウツスナリの数値と形状の比較である。(それぞれの数値は現在の所有団体発行の図録にあるものを使った)
大典太光世 ソハヤノツルキウツスナリ
刃長 65.1cm 67.9cm
反り 2.7cm 2.4cm
元幅 3.5cm 3.9cm
先幅 2.4cm 2.7cm
鋒 3.35cm 2.1cm
棟 丸棟 庵棟低い
重ね 薄い 元重:0.7cm 先重:0.4cm
彫り 表裏に鎺元で幅広い 表裏に幅広の棒樋と添樋を
樋を掻き流す 茎の中程まで掻き流す
表にのみ腰樋
茎 生ぶ、切り 雉股形
目釘穴 2つ 2つ
両刀とも三池の特徴である広い身幅と猪首鋒を備えているが、数値だけ見ると、ソハヤの方がその特徴がより強調された姿をしている。特にこの刃長で元幅3.9cmの広さと、猪首鋒にしても短い鋒2.1cmはほとんど類例がない。
次は刃文の形容である。
*追記:『新修刀剣美術』掲載の佐藤寒山氏「ソハヤノツルギと大典太についての一考察」が入手できたので、比較用に図録の説明に佐藤寒山氏の見解も引用・併記する。
大典太:大板目肌。鉦ががって白気ごころのある地鉄。小湾れ調の細直刃ホツレ金筋の入った焼刃。帽子は刃細く、丸く浅く返る。
○佐藤寒山氏:『鍛は板目が柾がかり、肌立ちごころに白けごころがある。刃文は小湾調の細直刃で、ほつれがかかり、所々に金筋がかかり、物打上は特に二重刃ごころとなり、総体に小沸がついています。帽子は細く一ぱいに小丸、彫物は表裏に幅の広い浅い棒樋を巧みに彫り、表の腰に添樋があって、ともに掻流しています。茎は生ぶで反がつき、先は浅い栗尻、鑢目は勝手下がりで、目釘孔は二つ、目釘孔の下中央に太鑿に光世作と三字銘があります。時代は平安末期のものと思います』
ソハヤ:板目肌。地斑細かに交じる。中直刃で喰違刃、湯走り状の二重刃交じり。帽子は直ぐ、先小丸に返る。
○佐藤寒山氏:『鍛は板目がねっとりとしてやや流れ肌が交わり、総体に白けごころがあり、刃文は匂口がやや締まりごころに、ところどころ小沸がからみ、二重刃のようにほつれた所があり、小足僅かに入ると云う至って淋しい出来であります。ここで見のがし得ないのは僅かに焼落があることであります。帽子は佩表殆ど直ぐに僅かに尖りごころに、裏は僅かに掃かけごころがあり、小丸に返っています。茎は生ぶで雉子股となり鑢目は浅い勝手下り、先は浅い栗尻、目釘孔二つ、表に「妙純伝持」同じく樋中に片仮名で「ソハヤノツルギ」とあり、裏に同じく樋中に「ウツスナリ」とあります』
刃文の形容も数値と同じく図録を参考にした。
実際に両刀を並べて見比べて、類似点と相違点を上げたのが、以下である。
佐藤寒山氏「ソハヤノツルギと大典太についての一考察」より抜粋
*( )内のかな、長さ、注は掲載者が付けた。
1、類似点
一、姿は身幅が広く、重ねが薄く、鋒が猪首となり、身幅に比して寸法の短い点。
二、鍛が板目やや柾がかって流れ、総体に白けごころのある点。
三、刃文が直刃調で、二重刃ごころのある点。
四、表裏に幅が広く浅い棒樋を掻流している点。
五、小鎬(こしのぎ)がなく、樋先が小鎬となっている点。
六、茎(なかご)がやや短く、僅かに反りがつき、先が浅い栗尻となり、鑢目(やすりめ)が勝手下りで、茎棟も刃方も小肉のついている点。
2、相違点
一、大典太は二尺一寸七分、他(*注:ソハヤノツルキウツスナリのこと)は二尺二寸四分と七分(約2.1cm)ばかりの差がある
二、大典太は丸棟で他は庵棟(いおりむね)である。
三、大典太は細直刃調にのたれ、ほつれて所々に金筋かかり、小沸がついて比較的に働きがあるが、他は中直刃仕立てで匂勝ちであり、所々に小沸がつき、僅かに焼落しがある。
四、大典太は帽子の焼が極めて細く、先が僅かに小丸に返っているが、他は直ぐに小丸のしっかりした帽子で、表は尖りごころ、裏は僅かに掃かけている。
五、大典太は表の腰に添樋を掻流しているが、他は表裏に勝手までの添樋がある。
六、大典太は普通の茎(なかご)仕立てであるが、他は中程下から大きく雉子股となっている。
七、大典太には目釘孔の下に、太鑿の光世作の三字銘があるが、他は無銘である。
佐藤寒山氏は両刀を比較した上で、同じ光世作としている。
しかし、無銘である以上、ソハヤノツルキウツスナリが三池かどうかは、分からない。
少なくとも「徳川家康は三池だと思っていた」のは確かで、佐藤寒山氏も同じ見解であるのを紹介しておく。
大典太のように銘があっても疑問符がつくように、刀の年代や真贋に「絶対」はない。
類例・史料を増やしてより精度を上げるしかないのだ。
そのため、今回、ソハヤノツルキウツスナリに関する手持ちの情報を全て出して検討してみた。
まだ見るべき史料や論文があるため、現段階でのものでしかない。
ソハヤノツルキウツスナリについては、家康所有だけはほぼ確実ではある。斎藤妙純の所有も確かだろう。ただ、御宿家、織田家はどちらも確証はない。
ソハヤの写しか否か?三池か否か?については、断定できるものではないとするしかないだろう。
以上、長々と書いてきたが、ソハヤノツルキウツスナリ(三池)は「徳川家康の刀」として扱われるのが妥当且つ適切で、現状はこの刀にとってふわさしいものだ、と最後に記しておく。