@toasdm
夕闇が少しだけ遠慮して遅い時間に迫って来るようになった春の日のデートは、日没まで、の約束を今、破ろうとしている。繋いだ手と絡めた指、駅まで歩く道の薄暗さに比例して沈む気持ちは二人分。漏れたため息が同時な事に、吹き出した後にまた切なくなってため息、のループ。つまりはこういう事になる。
まだ、帰りたくない。
二人の思いが同じであることは、わかりきっている。クリスも彼女も言葉少なく歩くだけだ。夕焼けがオレンジ色に染め上げたアスファルト舗装の平坦な道に、長い長い影を落として黙って歩く。そこに言葉はなくても、思いが同じであることは容易に証明できるのだ。
歩く速度の緩慢さが、帰りたくないと言っている。背が高く、脚の長いクリスはいつも、彼女と隣歩く時には彼女の歩調に合わせてゆっくりと歩くようにはしているが、それとはまた違う意味でクリスは、歩調を落として歩いている。それは彼女も同じ事だ。いつもより少しだけ浮かれて歩いてきた道を今は、黙って俯いたまま歩いているのだ。二人とも、足はまだ、帰りたくない。
「……あの」
「はい…?」
絡め合った指を更に絡めて優しく握り、横断歩道の赤信号に止まった足でクリスは言う。この思いが同じであるならば、と沈みかけた太陽が斜めに差し込むその隙を狙って、意を決して。
「私は…きっと、あなたも同じだと思うのですが」
先ほどよりも少し強くなる指先の力に、彼女の方も彼を見上げて、彼の向こうにある夕陽の眩しさに目を細める。さらりと揺れた彼の艶やかな髪の毛が、夕映えにその色を縁取られて煌く。彼女も手を握り返して言葉の続きを期待する。
「……私は、まだあなたを帰したくありません」
力強いその言葉に、彼女はほぅ、と安堵の吐息を漏らして目を閉じる。よかった、私だけじゃなかったんだ。歩行者用信号が青になり、車の流れは左右から前後になる。人並みに任せてまた歩きながら、繰り返すようにクリスは言う。帰したくないのです、と。
「私も、帰りたくないな、って思ってました……」
「ふふ…では、思いは同じだったのですね」
言葉にして確かめ合った思いの一致に、クリスも彼女も目を合わせて笑い合う。ぐっ、と力の込められた手を口元に寄せ、駅前に着いたクリスはそっと、彼女の目を見つめながら手の甲に唇を押し当てる。人の行き来が激しい出入り口から、少し離れた花壇の前に移動して、クリスは電話を取り出した。よろしいですよね、と目線だけでもう一度確認すると、彼女もこくりと頷いて微笑み、それに応えた。
「あ、もしもし、僕だけど」
「っ?!」
普段から一人で海に出掛ける事の多いクリスは、家族への連絡を決して怠らない。心配をかけないように、遅くなったり泊まりになったりする時は必ず、家族に連絡を入れるようにしているのですよ、といつか話していたのを思い出しながら、彼女は待って、待って、と頭の中で慌てていた。聞いてはいたが、実際家族に連絡している彼を見るのは初めてだ。即ち――…。
「うん、うん…そう、彼女と。……大丈夫、うん。違うよ、僕の方………」
クリスの、家族の前での一人称を聞くのは、初めてだ。連絡を終えて電話をポケットにしまい込んだクリスは、そんな彼女の赤い顔を見て、不思議そうに首を捻る。
「…どうしたのですか?」
「うっ、あ、あの……」
この感情をどう表現するべきなのか、彼女は考えあぐねている。駅前ビルの隙間から差し込む光は弱くなり、灯り始めた街灯に、夜は少しずつ炙り出されて二人に迫る。下手に取り繕ったところで意味もないか、と半ば観念したように、彼女は宵闇に紛れてぽつりと漏らした。
「その……ご家族の前だと、僕、なんですね……」
ああ、恥ずかしい、何を言ってるんだろう、と視線を逸らして、彼女はいっそ、穴を掘って入りたいと耳まで真っ赤に染めている。たかが一人称じゃないか、とは思えど、ギャップというものは女心を簡単に狂わせる。なんでもないです、と誤魔化し始めた彼女の様子に、何か思いついたような顔のクリスが、くすくすと笑ってそっと彼女を抱き寄せる。
「ええ、あなたの前では、私は私です」
ですが、と腕の力を強くして、クリスは一段低い声を彼女の耳に注ぎ込む。
「僕は今夜、あなたを帰しません……いいですよね?」
「な、んんぅ……っ!」
その一人称はわざとでしょう、と抗議の声をあげかけた唇を塞がれて、彼女は思わず目を見開く。長い睫毛を伏せて閉じた目をうっすらとゆっくりと開いて、ふわりと香るような色気を纏ったクリスの視線は、彼女から全てを奪うように甘く痺れる淡い色彩で、夜の入り口へと彼女を誘う。
「……刺激的、でしたか?」
ふふ、と笑って顔を離して、クリスは彼女の手を取る。こくこくと頷くしかない彼女は大人しく手を引かれて、そうですか、と満足気に微笑むクリスと街を歩く。先ずは腹ごしらえですね、と店を探して、二人の夜が始まった。濃紺に染まりかけた空には、いくつかの星が瞬き始めていた。