@toasdm
「お前さん、今帰りかい?」
事務所を出た私の後ろ、割と高めの位置から低い声。お疲れ様です、と返事をしながら振り向けば、やっぱり雨彦さんの顔がある。よっ、と片手をあげた雨彦さんのほっとするその笑顔に、一日分の疲れがすっと半分くらいは消えていく。安上がりだな、とは思うけど、それでもやっぱり落ち着くものは落ち着くのだ。俺もちょうど今終わったところでな、と私に近づき歩み寄り、雨彦さんは私の頭に、その大きな手をぽんと乗せて笑う。
「お疲れさん、今日も一日頑張ったな」
偉い偉い、と撫でられて、人目を少し気にしたけれども夜の迫った事務所の前には人影もなく、私は遠慮なくその優しい甘やかしに甘えて頬を緩める。ありがとうございます、と言った私の唇に、雨彦さんはそっと人差し指を押し当ててから、意味ありげな微笑を浮かべた。
「…流石に、外じゃ無理だから、な」
分別ある大人で悪かったな、と茶化すように言った雨彦さんに、たまには大胆になってくれてもいいのにと思いながらも、気遣いは嬉しいです、と本当の気持ちの半分をそのまま伝える。そいつはよかった、とまた笑って、雨彦さんはポケットから鍵を取り出して、乗ってくだろう?と車を指差す。
「ふふ、じゃあお言葉に甘えて」
「任せな、安全運転で家まで送るさ」
もうすっかり乗りなれた雨彦さんの車の助手席に座ると、雨彦さんはダッシュボードから眼鏡を取り出してサッとかけてミラーを確認する。運転中にだけかけるといっていたセルフレームの眼鏡は結構、雨彦さんに似合っている。少し雰囲気が変わるから、見慣れているようで見慣れない。ぼんやりとその横顔を眺める私に気付いた雨彦さんは、ん?と笑いながらブリッジをあげて、ニヤニヤと笑っている。
「なんだ、まだ見慣れないのかお前さん」
「まぁ…珍しいですからね」
運転中だけじゃなく読書をするときもかけているとは聞いたことがあるけれど、私の前では雨彦さんは、あんまり本を読んではいない。単純に、見慣れないというのもあるにはあるけど、好みの問題というか、似合っているというか、似合いすぎているというか。
「かっこいいなぁ、って思いますよ。雰囲気も変わりますし」
「はは、そうかい。そいつはありがたいな」
またニヤリと笑った雨彦さんは運転席から身を乗り出して手を伸ばし、ガクン、と衝撃を受けた私の体は天井を向いている。あ、シート倒された、と気がついたのと同時に、雨彦さんの整った顔が目の前まで迫ってきて、一瞬のその出来事を理解できないまま私の唇は一気に雨彦さんに奪われる。
「……シートを倒せば、外からは見えないだろう?」
ウィンドウから差し込んでくる街灯の白が、雨彦さんの輪郭を照らして浮かび上がらせている。俺は分別のある大人だからな、と怪しく笑う唇がもう一度近づいてきて、今度はさっきよりも優しいキスが、唇に、頬に、額に目尻に耳たぶに、と次から次へと降ってくる。はぁ、と幸せそうなため息をついた雨彦さんの顔と体がゆっくりと、私の体から離れて運転席に戻るのを、まるでスロー再生でも見ているかのような気分で私は見つめる。ほら、起きな、と伸ばされた手をぎゅっと掴むと、力強く引き起こされた私の体は、またガクンとなったシートの背中にぴったりと収められていて、シートも雨彦さんも元通りになっている。真っ赤になってドキドキしたまま、硬直している私だけが、元に戻れないでいる。
「……今日は朝からずっと、お前さんとキスがしたい気分だったのさ」
待てなかった、と恥ずかしそうにぽつりと漏らした雨彦さんが、キーをまわしてエンジンをかける。まだバクバクとうるさい鼓動をかき消すような車の振動と音に揺さぶられて、私はなんとか声をかけようと思案する。
「雨彦さんでも、そんな風に思うことあるんですね」
「意外かい?」
……意外だけど、案外そうでもないのかな?と考え始めた私に、シートベルト締めとけよ、と声をかけてくれた雨彦さんはまた、ぽつりと小さく呟いた。
「俺はいつだって、お前さんのことしか考えてないんだがな」
満足そうな笑みを浮かべた雨彦さんはちらっとこっちを見てシートベルトを確認すると、ゆっくり車を走らせ始める。…私もです、と答えた私の小さな声は雨彦さんには聞こえていただろうか?すっかり走り慣れたようなハンドルさばきで、雨彦さんの車は私の家へと向かって走る。キスの余韻はまだ、私のあちこちに残ったままだった。