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炎のレユアン 5

全体公開 16144文字
2018-04-15 22:26:34

ちょっと長め

『私から、逃げないでくださいね』
スルザにそう言った男は、笑うことしか知らなかった。
スルザが見たことのないような顔で笑う。見たこともないような顔で歌をうたい、周りでは子供たちが甲高い声を上げている。
なんてところに来てしまったのかと、息苦しさが増した。
ここはスルザが来るような場所ではなかった。
リヒトールの隣は、そういう場所だった。
リヒトールはよく歌をうたった。
それは外壁にいたときに噂していた、太陽の君の歌だった。そしてその声も、スルザが雑用を買って出るほどに聞きたいと思った声だった。
だが、かつて聞きたいと願っていた声が、耳に届かない。子どもたちの甲高い声が、すべて掻き消してしまう。
だからもういいだろうと、何度もスルザは目を閉じた。
そうして静かに目を閉じようとするたびに、からりとした空気のなかで聞いた陽気なわけのわからない歌がスルザを起す。
そんなことを何度か繰り返したスルザは、ただ、ふー、と息を吐いた。
そもそも今回は、リヒトールという貴人の傍に侍っていればいい。だから、もう深く考えなくてよいはずだ、と。
かつてのように、ただ目的だけをこなして、敵が来たら殺したらいいのだ。
そう、改めて思った。
(うん、それでいい)
スルザなりに出した結論を持って、彼のそばにいることを決めた。
そもそもスルザの目的はこの男を守ることなのだ。
だというのに、『逃げるな』などとわけのわからない命令をされるし、スルザがこれまで経験したこともない場所に置かれるから混乱してしまったのだ。
まあ、スルザを混乱させる一因を作っているのは間違いなくこの男なのだが。
「スルザ~ねえ、スルザ~」
この男にとっての自分は完全に犬なので、暇があれば乞うような声を出して自分を呼ぶ。
食事はあの王が気をつかっているのか、人間と同じものを出されていた。だが、その食事でさえ、この男は自分で食べさせようとするようになってきているので、正直スルザはどうしたものかと思っている。
「返事をしてくださいよ~ねえ~」
うっとおしいことこの上ない。
スルザはぐるる、と喉を鳴らした。
それだけで寝床に腰掛けていた男はがばりと起き上り、そこからふらふらと歩き出す。
どうやらスルザの位置がわからずにいたから名前を呼んでいたらしかった。
しまった、と思ったがすでに遅い。リヒトールはスルザの目の前に来ると、しゃがみ込んで口元を曲げた。そして両手を伸ばして、スルザの毛むくじゃらの体を抱きしめる。
そうして触れられることも、だいぶ慣れてしまった。
「毛並みもずいぶんよくなりましたね」
首の周りをなでて毛触りを楽しむように顔を寄せる。
乾燥した空気の中ではただ暑そうなものだが、この男はこうしてスルザによく触れた。
毛並みが良くなったのはひとえにこの男がスルザをこまめに洗うからだ。そして洗った後、香油で体の毛を梳く。周りの使用人に止められながら、私がやります、と楽しそうにスルザの体毛を梳いていた。
甘い香りのする香油は、正直鼻が曲がりそうだった。それを塗られているせいか、スルザ自身も甘ったるいにおいがする。
おかげでうまく鼻が利かなくて困っていた。だがスルザにそれをやめてくれと主張する権利はない。
物だからどのように扱われていても仕方がないことだ。。
「お前はきちんと言いつけを守っておりますし、今日も豪華な食事にしてもらいましょう」
白い喉が、スルザのすぐ横にあった。
この喉に牙を立てれば、息の根は止まるのだろう。赤い血が大量にあふれて、かすかな空気を吐いて、この男は死ぬ。
「ねえ、スルザ」
大きな腕で逃がさないというように囲われる。
そうして抱きしめられるのは、怖かった。
奇妙な気持ち悪ささえ覚える。
スルザはこうして腕の中にいるたびに、その白い喉元に牙を立てたくなるのだ。深く、骨まで届くまで、かみついてしまいたくなる。
そうすればこのおぞましさに似た怖さも、気持ち悪さもなくなると思う自分がいた。それはきっと正しい。
スルザの命を引き換えにするならば。
そんなことをすれば、自分が生きていられないというのはわかっている。
だが。
それでも。
自分がいつかこの男さえ殺してしまうのではないかと。
そんな考えがよぎって仕方がない。
「そろそろ、フィリシュターの花が咲くころですねえ」
世間話を振られて、彷徨っていた思考が薄れた。
スルザは首を傾げて、わうう、と鳴いた。
そんな花は聞いたことがない。
そもそもスルザには食べ物以外に関心を持ったりすること自体が少ないのだが。
「きれいな花なんです。白いらしいんですけど、砂漠に咲く花で、すごく硬い葉があって」
ふうん、と声を出せないスルザは頷く代わりに、ふーと息を吐いた。
「私、その花がとても好きなんです」
その割には部屋に花がない。
どうしたのかと問うまでもなく、内緒ですよ、とリヒトールは小さく笑った。
「フィリシュターは神が愛した使いだと言われています。けれど、フィリシュターは神が与えた眼を見守りたいと申し出ました。なので、ひとと同じく、苦しい地を踏みしめていくために、砂漠に咲くのです」
わう、と鳴くと、ぎゅ、とリヒトールは腕に力を込めた。
「でも、王族はフィリシュターをとってはいけないのです。神の眼を持つものがその花の命を奪えば、神の怒りをかうので」
彼らの神は、様々なものを愛したり、いろんなものを嫌ったり、まるで人間のようだった。
公平さなど持ち合わせてはいない。圧倒的な力で何かを愛している。
言葉でしか知らないそれはひどくわかりにくかった。相変わらず実感できるものではない。少なくとも、スルザにはわからなかった。
それでも時に、愛とは害されれば怒りに発展するらしい。
彼のそばで、何かにつけ神の話を聞くにつれ、スルザは『愛』というものがどういうものかを聞くことになった。神は人のようだがひとでなく、違う生き物のはずなのに、よく人間に似ている。
その話を聞き続けていて、ふと思うことがあった。
もし、『愛』とは万物が抱くものならば、はたして。
(俺を、いかした)
ふと意識が遥か彼方へと飛びそうになった。
そのとき。
「リヒトール・・・」
名前を呼ばれた男が顔上げた。
スルザもつられて顔を動かせば、呆れたような顔をした王が、入り口に立っている。
スルザがそちらへ行こうと腕から逃げようとすると、ぎゅ、と力を込められた。
ぐるる・・・と脅すように唸ってみても、リヒトールはこちらを見ない。そして腕を外す気はないようだった。
ばたばたと暴れると、王はため息をついて、手を振った。動くなというような指示に、スルザは思わず鼻の頭にしわを寄せる。
「スルザに構うのは良い。余が世話をしろと言ったゆえ。しかしな、日がな一日、部屋にこもるのはいくら何でもやりすぎではないか」
ため息交じりの苦々しい言葉に、リヒトールは首を傾げた。
この王の言うとおりだった。
ひどいときは、一日をすべてスルザに費やしてしまう日もある。普通、ここまでするのだろうかとスルザは少し疑問だったのだ。スルザは犬として飼われることはこれが初めてなので、こんなものなのか、と納得しかかっていたが。
やはり『やりすぎ』は否めないらしい。
「だって兄上、これは私のでしょう?」
好きにしたっていいじゃないですか、とでもいいそうな口ぶりに、まあ、その通りだが、とスルザは遠い目をした。
これまで、こんなに構われたことはない。これまでの主人と違うのは、スルザもうっすらとわかっている。
それが何かは具体的にはわからない。ただ、それは多すぎて判別がつかないともいえる。
この男はわけのわからないことだらけで怖すぎるのだ。
「私のものなのですから、私が世話をしなければ」
にっこりと笑ってそういう男が恐ろしい。
「・・・ファーティクルスが呼んでいる」
王は音もなくため息をつき、そう伝えた。
「では、」
スルザから手を離して、立ち上がりかけたリヒトールに。
「スルザは置いてこいと言っていたぞ」
そう言った。
それが本当かどうかはさておき、そのことを聞いたリヒトールは肩を落とした。
そしてそのまま座り込むと、スルザと同じ位置に顔を合わせる。
「いい子で待っていてくださいね」
わうう、と低い声で応じれば、満足したように頬を緩めた。
行ってまいります、とリヒトールが出ていくと、残った王は、はあーと重たい息を吐いた。
「・・・余は育て方を間違えたのか・・・」
ひとりごちる王に何とも言えず、スルザは犬でいることを貫きとおした。
「食事までもお前といたいからと部屋でとるようになってしまったと聞いてな。これではリヒトールが悪魔にたぶらかされたと言われかねん」
どうしたものか、と肩を落とす王がにかける言葉が見つからない。スルザが悪いわけではないのかもしれないが、構われすぎているので思うところはある。
スルザは無言で人の姿へと戻ると、膝をついた。
「・・・口を開く無礼をお許しください」
「よい。許す」
許可を得てから、スルザはリヒトールの傍で過ごして気づいたことを思い返した。
「・・・リヒトール様を狙うものは確かに居ります。何度か食事に毒が混ぜられておりました」
な、と言葉を詰まらせた王に、その反応が正しいと思う。
スルザは毒を食べ慣れている。毒味も何度かしたことがあるからだ。そのため毒に慣らされる訓練をした。
だからあまり毒は効かない。そもそも、口にしたところで、匂いで毒かどうかがわかってしまう。
「な、何度も?それはまことか」
はい、とスルザは頷いた。
この国では貴人に対して毒見はしないようだった。だからスルザが気づいた毒を、おそらくリヒトールは何度もそのまま食べている。
スルザは自分のものにも混ぜられていると気づいたときはきれいに残していた。そのたびに気に入らないのですか、とリヒトールがやたら構ってくるのが欠点だが、毒入りのものなど食べられるはずもない。口に入れて気づいた瞬間には吐いている。何度かそれを繰り返しているので、食事に何かあるとリヒトールもうっすらと気づいたのかもしれない。だからこそ、食事は部屋に運んでくださいと言って、運ぶ人間も指定しているのかもしれなかった。
「だが、ならばなぜ、リヒトールは・・・」
なんともないのかと言いたいのだろう。
当然だ、スルザだって知りたい。
「おそらく、リヒトール殿下は毒が効かないのかと。かなり強力な毒も混ぜられていたこともありましたが、そのまま食べられてしまいました」
だが、あの通りピンピンしている。
毒のせいでああなっているのかと思いもしたが、即死性のある毒も平気で平らげてしまった。毒の効果は全く現れず、すやすやと眠ってきちんと起きた。
もはや怪物か何かのようだと思ってしまう。
「・・・神が愛した子は伊達ではないな・・・」
そう言ってまとめてしまっていいものか判断に迷うところである。スルザは気づいたが、気づかなくとも問題はなかった。
むしろ、ただ『狙われている』という事実が残っただけだ。
「それで、お前は犯人の目星はついているのか」
問われて、スルザは首を振った。
普段ならば、毒の匂いをつけた人間が判別できる。だが今は、使われている香油のせいでうまく鼻が利かない。
「・・・犯人はこちらで探そう。スルザ、お前に休暇を与える」
王はそう言った。
スルザは思わず目を見開いてしまった。
「・・・よいのですか、リヒトール様は、おそらく黙ってはいないと思われますが」
王はそのことに顔をしかめた。
あの男が黙っているとは思えない。そのことに、おそらくこの王も同じ感想を抱いているのだろう。
「今日、ここに来る前から、お前に休暇を与えることは決めていた。あれのお前に対する執着は目に余る。我らは執着をしてはならぬ身だというのに」
それはもうこの任務から外れてよいということだろうか。
スルザはもう終わりかと息を吐き。
「まあ、おそらく三日が限度ゆえ、はよう戻ってくるのだぞ」
かけた息を引っ込めた。
休みも三日だけである。
こういうところがリヒトールの教育に悪いのでは、と思わずにはいられないスルザだった。
「あのー、あっ父様」
入り口から子供の声がして、スルザは目だけあげた。すぐにひとの意識を薄れさせ、狼の姿となる。
王がいることに気づいたユージンは、静かに頭を下げた。
「リヒトールに用か」
はい、と小さな声で頷いたユージンに、しばらく戻らぬ、と告げると、ユージンは失礼しますと去っていった。
ぱたぱたとかけていく子供に付き従う人間は、いつも一人だけだ。異国の人間なのか、ユージンも緑の目をしているが、付き人も青と緑が混じったような眼の色をしている。
「あやつらも大変よな」
その言葉に、スルザはわずかに違和感も覚えた。
(なんだ?)
それが何なのか、はっきりとつかむ前にぱたぱたとかけてくる音がする。
足音でリヒトールだとわかった。おとなしく座り込んでいれば、走ってきたのだろう。息を切らせた男が部屋に転がり込んできた。
「わ、私はいやです!」
リヒトールの第一声にスルザは首を傾げる。すると、王は威圧感を持った声で、聴かぬ、と顔を背けた。
「なぜスルザを散歩に出すのです!それも三日も!帰ってこなかったらどうするのです!」
「帰ってくるであろう。この犬は頭が良い。それに今度ばかりは聞かぬぞ」
なぜですか!と言い募る弟に、なぜ?と兄は言葉を反芻した。
「ファーティクルスからも言われたであろう。お前は神官で、教育者ではないか。スルザに心を傾けていないとは言わせぬぞ。子どもが手放さない場合は取り上げる。それは、おまえとてしていることであろう?」
この一族は、そうして育てられたらしい。それは、その言葉をかみしめて受け止めるだけのリヒトールの姿を目にすればわかることだった。
子どもが手放さぬのなら、取り上げてしまえ、と。
泣いて喚いても、ほしいものはいずれそうしてなくなるものだと教え込んでいるのだろう。教育者たる彼は、それを教えられ、教えてきた。
だからこそだろう。リヒトールはその言葉を聞くと、黙り込んでしまった。
「帰ってこないならそれまでよ。お前は神の教えと己の心、どちらをとるのだ」
王の天秤のような言葉に、彼は黙って考え込んでしまう。
そのことに、スルザはまた出合い頭のようになってはたまらないと顔をしかめたくなった。人でないので大して表情は動かなかったが。
リヒトールと出会ったとき、スルザの目の前でこの男は不思議な力を見せた。彼の周りでは風と水が舞い、物さえ浮かせていた。
そんなものに逆らえるはずもない。そもそも奴隷は物なので、真実リヒトールが拒否するならば、スルザはここから出ることはないだろう。
そういうものだ。
例え出たとて、結局奴隷でしかないスルザは、ここに戻ってくる。
だというのにリヒトールは言葉を受けて俯いたままだった。
しばらくして、彼はがば、と勢いよく顔を上げた。
「・・・わかりました」
そして部屋を横切り、棚から何かを取り出すと、スルザ、と名前を呼んだ。
わう、と返事をすれば、そばに来て膝をつく。
「三日、三日ですよ。必ず戻ってきてくださいね。お前は良い子ですからできますよね」
かしゃ、と音がした。何かが首にかけられたというのだけは分かるが、スルザには見えない。
「スルザ、行け」
いっそ冷酷なほどに、王はそう命じた。
リヒトールが名残惜しそうに首周りに腕を回した。スルザはしばらくなでられたあと、する、と腕をすり抜けた。
飛び上がって窓枠に乗ると、見えないリヒトールには何をしているのかわからないようだった。ただ俯いているしかないのは、スルザがどこにいるかわからないからだろう。
わう、あう、と鳴くと、リヒトールは顔を上げてこちらを見た。それで十分だろうと、スルザは王に頭を下げて、窓から飛び降りた。
ひゅう、と落下するスルザの耳元を風が鳴く。
落下しながら人間の体を取り戻す。途中で屋根に二本の足をついて、速度を落とした。またそこからさらに地面に向かって落下していると、警備兵が見えた。
だああん、と地面を揺るがしてスルザが着地すると、背を向けていた彼らは何事かと一斉にこちらを向いた。
まず、ゴーランとブートが剣を抜いて反射のように迫ってきた。それがスルザだとわかった瞬間、彼らは目を丸くする。しかしこちらに向かってかけだした体を止めるには、判断が遅かった。
そのため、スルザはゴーランの腕をつかんで体を投げ飛ばした。体をくるりと回して、ブートも同様に、向かってくる力を利用して放り投げる。
そして後衛で続いたケッカも驚いた顔をし、彼は攻撃のために動かしかけた自分の体を止めようと力を込めた。
それはスルザには少々都合が悪かった。速度が落ちて、彼を投げ飛ばすのは叶わない。なので、スルザは上に飛び退いた。そして片足を伸ばしてけりを入れるように彼の上に落ちると、ケッカはぐえ、と声を上げる。
最後にやってくるシェカーとサファラを待っていれば、二人は動きを止めて目を丸くしていた。
「す、スルザ・・・」
シェカーの声に、なんだと顔を向けると、動くな!とサファラが声を上げた。
「サファラ、どうし・・・」
た、という前に、頭に何か布をかぶせられる。おい、と顔を上げると、顔を赤くしたサファラが、眼をつむって震えていた。
なんだと鼻の頭にしわを寄せると、顔をそらされた。
「服を着ろ!」
言われて、ようやく自分の体を見下ろした。
オオカミの時は体毛があるからいいが、人間だとそうもいかない。
「ああ・・・」
忘れていた、とつぶやくと、サファラにがしりと両肩をつかまれた。女のような顔をしているくせに、気の回し方は女よりも細かい男である。
「ああ、じゃない!お前ほんとさ、何度もだめって言ってるよね!」
シェカーもうんうんと頷いている。べつにスルザはあまり気にしないのだが、それを言うと長引くので、とりあえずすまんと謝った。
「・・・三日だが、休みをもらった。さっさと行かねばと思って・・・」
「三日!?」「服の着る間もなく!?」「つーか俺の上からどいてくれ・・・」
それぞれの反応が、なんだかずいぶんと久しぶりな気がした。
スルザは踏みつけていたケッカの上からどく。
サファラから渡されたマントを羽織ったまま、同僚たちがお疲れと肩を叩いてくる。ゴーランは頭をぐしゃぐしゃとなでた。
それらの手に、体が固くならなかった。
スルザはその事実に自分で目を丸くした。
自分を丸い声で、とがりもなく呼ぶ声にずいぶん慣れたせいだろう。目も見えぬリヒトールは拳など向けてこない。向けられることがないと絶対にわかる。そもそも眼が見えないのだ。彼は神殿内の構造を覚えているが、廊下に物でも置かれていようものなら、スルザがいないと盛大にこける羽目になる。
よく聞けば、同僚たちが自分を呼ぶ声も、そんなリヒトールのものに似ていた。
「まあ、ゆっくり休め。せっかくの休みだしな」
ゴーランの言葉に、そうだな、とみんなが同意した。
「スルザ、夜はいるのか?」「そうだよ。久しぶりに一緒にご飯食べようよ」「おーじゃあ、食堂のお姉さんに豪勢にしてもらおう」
楽し気な様子に、うるさいと久しぶりに思った。
だが、それが殺意に変わることがなく、スルザは首を傾げた。
「・・・ああ、そうだな」
夜は兵舎でとることが決まったので、スルザは兵の宿舎に戻ることにした。
また夜に、と言ってスルザはその場からマントを借りたまま歩き始める。狼になって戻ろうという提案は却下された。あとでサファラにマントを返さねばならない。
兵舎までの道を歩きながら、前とは何かが違っていると思う。
それが何かは分からない。変わることがあったとはスルザは思わない。
わずかな間、恐ろしい男の傍にいただけだった。
自分にいろんなことをし、手をかけられ、丸い声でとがりもなく名前を呼ばれていただけだ。
リヒトールのそばにいることは息がつまった。何もかもされたことがないことだらけだった。スルザがいなければ日常生活がより困難になる人間のそばにいることも初めてだ。
それらは何かを殺し続けて、勝ち続けていたスルザにはやりにくいことばかりだった。
この国に来ていたときからずっとそうだったように。
息は、つまる。
子どもの甲高い声が聞きなれなかった。それはとても耳障りだった。
不愉快だと、確かに思っていた。
でも、それらを殺すことはできなかった。そんなことをすれば、自分の首が吹き飛ぶ。スルザは、不愉快に思うならば、その元を断ってしまえばよいと知っている。だが、さすがに己のために命をかけるほどの愚かさは持ち合わせていない。
物なのだから、自分に沸き上がるものから目を背ければいいだけの話なのだ。
なのに、あの男は子どもを慣れさせようと幾度も近づけた。それが無理だとわかると子供からスルザを遠ざけた。
代わりに、リヒトールは寒いとスルザに腕を伸ばした。自分の寝床でスルザを抱えた。幾度も名前を呼んでいるかと問う。
スルザに何かを殺せとも命令しない。
ただ、そばにいることを強いる。
「よく、わからないな」
ぽつりとつぶやいた声は、人々のざわめきに吸い込まれていった。
休みをもらったその日の夜は、同僚たちと食堂で騒いだ。大量に飲んだシェカーに俺も陛下の傍に侍りたい、犬がいいなどと絡まれて、やっぱり殺したいとスルザは思った。
毒が盛られてもピンピンしている、という話は一応した。
だが、仲間も王と同じようにさすが神の愛した子、と受け止めていた。それで流していいレベルのなのか、とスルザは遠い目をしたが、これが国民性なのかもしれない。王が王なら民も民だ。王は国であるとはよく聞いたが、全くその通りのようだった。
騒いだ夜は、さすがに体が重たかったので、スルザは自分の部屋で寝ることにした。
いつものように床に敷いた獣の皮に丸まって寝ようとしたが、ふわりとした毛がちくちくとしている気がした。
思えばリヒトールとは布の敷かれた寝床で寝ていたのだった。そんなことすら短い間に習慣とされたことに重たい息を吐いた。
仕方なく、粘土で作られ、布の敷かれた寝床に寝ることにした。それでもなんだか寒かったので、上に獣の皮をかぶって寝た。
その日はひさしぶりにぐっすりと寝て、起きることができた。
休みの二日目、長らく顔を見せていなかった友人に会いに行くか、とスルザは久しぶりに王宮側に向かった。城下を歩き、どんどん海側に近づいていく。
グラーツ橋とロッサ橋のかかるカルポス川は、そのまま海に流れ込んでいる。海側に近づけば近づくほど、治安はあまりよくはない。
ぐるぐると口元を覆い、刀を下げたスルザを見る周囲の眼が、だんだん鋭くなっていく。
スルザになじみのある表情ばかりだ。そんな中を歩きながら、リヒトールの傍にて何かが変わったとスルザは思う。
「まあ、考えても・・・」
(しかたがない)
こういう時は、何かを殺すのが一番いい。
わけのわからないごちゃごちゃとしたときは、自分が戦っていればすべて忘れさせてくれる。いっそ誰か切りかかってくれればいいのに、と思いながらガラの悪い連中がたむろする中を歩く。
子どものようにひょろひょろとして、肉付きの悪いスルザが歩いていようものなら声でもかけてきそうだが、それをする人間は一人もいなかった。ただ、じろじろと視線だけがうかがうように向かってくる。
スルザは息を吐き、看板も出ていない豪邸の前で足を止めると、扉を叩いた。
「どちらさんかね」
そうしてドアから出てきたのは、柔和な顔をした男だった。顔こそ柔和だが、その腕は傷だらけで太い。
「狼眼だ。マリエラはいるか」
その言葉で、男は外を伺いながら体をどけた。視線を追って背後を確認すると、たしかに隠れるのがへたくそな男がひとり、壁際からこちらを窺っている。
なんのためだろうと思いながら暗い室内に入れば、身ぎれいにされた子供が、こちらです、と奥へ案内した。建物を上がっていくと、通りに面した部屋にたどり着く。
開いたままの部屋に入れば、窓際に体を預けるようにして肉付きのいい女がだらしなく座り込んでいた。朱色の髪は適当にまとめられ、露出の多い服をさらに着崩している。若さの衰えない張りのある肌と、少し幼く見える顔のせいで、年齢がわからない。
「あら、ずいぶんと久しぶりね、スルザ」
はやくこちらにおいでなさいよ、と手招かれ、口元の布を緩めて中へと入った。
ここは高級娼婦を抱える娼館だった。マリエラはその中でも売れっ子で、一晩ともにするだけで家二軒が吹っ飛ぶほどの金額がいる。
そして彼女は、スルザと同じ国の出身だ。
赤い色をした髪はこの国では珍しいらしく、彼女の人気はすごいらしい。彼女も市井ではちょっとした有名人である。
「ねえ、スルザ聞いたァ?今、月の神殿はすごいことになっているらしいじゃないの」
王宮から海寄りの位置にある娼館は、王宮付近では聞けない市井の噂が入り込んでくる。
来たばかりのころ、バカな男に襲われていたのを助けたのをきっかけに、スルザは時折この女のもとを尋ねるようになっていた。
「・・・すごいとは」
「リヒトール殿下、悪魔に魅入ってしまったんでしょう?」
王が言ったことはあながち間違いではないらしい。すでにそんな噂が出ているからこそ、スルザにこうして休みを出したのだろう。
はあ、と頭を抱えると、座り込んだスルザの近くまでマリエラが近寄ってくる。
「・・・リヒトール殿下なら、狼を飼い始めて、それに構い倒しているだけだぞ」
「あらそうなの。まあ、狼ってこの国ではいいものではないものね」
じっとスルザの頭を眺めていたマリエラは、いきなりぐしゃぐしゃとスルザの頭をなでた。
「おいなんだ!」
やめろ、と腕を上げれば、マリエラは眉を吊り上げていた。
「ちょっと!むかつくわ!あなた、誰に囲われているの!?」
「はあ!?」
囲われている、という言葉があながち的外れでないだけに、スルザは顔をゆがめた。
「髪、サラサラになってるし、これ流行りのオレンジの花の香油じゃないの!?高級品なのよ!それにちょっと肉がついたし、誰よ!私のかわいいスルザに手を出したのは!私が飼ってあげるって言ってるじゃない!!私に飼われてもくれないのに!!」
さすがに女という武器を存分に使って生きているだけはある。目ざとい上に目が利くものだと息を吐いた。マリエラの言葉にそうなのか、とスルザは納得して、仕事だと答える。
「リヒトール殿下に飼われている犬は俺だ」
「あら・・・」
それが侍ることでも仕えることでもなく、文字通り獣として飼われていると理解する女は、少し身を引いた。
「なあんだ、そうなのね。さすがの私も王には手が出せないわ。財政的に」
「張ろうとするな」
全く、と眉根を寄せると、女はくすくすと喉を鳴らして軽やかに笑った。
「あなたが悪魔だなんて、視る眼がないわね、みんな。私がこうしているのに」
にい、と口を裂いて笑う女は男を惑わせる。力を奪われているとさえ知らず、女の心地よいささやきと色ごとに男は我を忘れておぼれるのだ。
色ごとに長けた女は、男を堕落はさせない。一夜の甘露のような夢を見させるだけだ。
だから彼女に人気があるのはそういうところもあるのだろう。
今はだらけていて、色気もへったくれもないが、夜になるとがらりと変わる。けろりとした言い方はなりを潜め、甘くとかすような声で男を誘う。あらゆる手段を使って、これでもかというほど人を惑わすのをスルザは知っている。
「・・・また、変なのを引っ掛けたんじゃないか」
彼女は、男から精気を奪う妖魔だ。そんな彼女の性質には、男が女を求めてやってくるこの娼館という場所はとても都合が良い。売れっ子になってしまったのは計算外だと嘆いているが、この国で珍しい髪色と色ごとに長けていれば仕方のないことだろう。
彼女はスルザの国では子が産めぬ女がなった妖魔だと言われていた。子を求めて求めて、子を育てぬ女を呪い、子に無体を働く男を締めあげる。子どもの守護者のような妖魔だ。
スルザはそう聞いていたが、彼女曰く、もとから人ではないらしい。
ただ、言われている通り、彼女は子どもがとても好きだった。彼女は街中を歩いては、捨てられている子がいると拾って育てている。
「え?わたし?」
スルザが立ち上がって窓辺に見えぬように近づけば、やはり変わらずに隠れるのがへたくそな男がこちらを窺っている。
「うーん。心当たりが多すぎるのよねえ・・・」
だろうな、とスルザは同意して、男を眺めた。
こちらを窺ってくるあたり、高確率でマリエラが対象だ。
手練れの男ではないだろう。そういう荒事になれているとは思えない。壁に隠れているようで隠れ切れていないし、何より白いフードは汚れ一つなく、高級品だとわかる。変装し慣れていない証拠だ。
「ああ、でも最近、うちでおかしなことが起こって」
「おかしなこと?」
振り返ると、緑の目をした女は妖しく笑った。
「そう、男がね、一人だけ尋ねてくるの。でも、足音は二人分。私の客じゃないわよ、吾子がその妓女の童をしていたものだから」
スルザたちの国では、娼婦はただ情事に耽る存在ではない。色ごともするが、楽器を奏で、詩歌をうたい、踊りを売る。そういった教養は一通り身に着け、中には学者並に学問に詳しいものもおり、学問比べさえできる女もいる。文字通りあらゆる技を売る女のことを指していた。。
だからスルザたちの国では妓女と呼ばれている。妓女は後世の育成もしなければならず、子どもをそばに仕えさせているのが通常だ。
その習慣があるから、マリエラは子どもを拾っては色々なことを教えているらしい。男は娼館の護衛にさせているので、下手をすればそこらの貧民よりはきちんと教育をしている。
「吾子が言うの。一人しかいなのに、二人分の足音がするって。なんのことはないわ。人でないものを、入れられただけなのに」
本人も気づいてないからなのよ、ばかよね、と笑う女に、何かが引っかかった。
一人の人間に、二人の足音。それは人間にひとではないものを入れられた証。
それを、スルザはどこかで見た気がした。
(一体、どこで)
思い出せないまま、再び窓の外に視線を向ける。
すると、スルザもぼんやりしていたのだろう。体を窓から出しすぎてしまったらしい。ぱちり、とこちらを窺う男と眼があった。
異物が入り込んだような、金属のような眼だった。
その男に見覚えがあった。
男は目があった瞬間、慌てて体をひるがえした。逃げられると追いかけたくなってしまうのは、半分スルザの本能だ。
「・・・マリエラ、男が逃げた」
あらそう、と笑い交じりにマリエラは肘をついた。
「放っておきなさいよ」
「・・・すまん、俺は狼だから」
逃げられると追いかけたくなる、と座り込んだままの女を見下ろすと、仕方ないわね、と緑の目を細めた。
「スルザ」
ふ、と口元を緩めて力なく腕を伸ばされた。スルザは身をかがめて、呼ばれるまま顔を近づける。
「あなた、大変そうね」
「?何がだ」
首を傾げると、腕が回されて、マリエラに引き寄せられた。その腕に力はない。あくまでもたれるように、スルザが自主的に動くように添えられただけだ。
「あなたは狼ですらないわ。それになるまえに物にされてしまった。だからきっと、あなたのオオカミもあなたを愛した。きっともっと愛したかった」
それを言われても、スルザにはわからない。愛されていたということがわからなかった。最近はそれがどういうことなのか、与えるもので与えられるということを聞く機会が増えたが、それだけだ。
スルザは物である。
その事実に揺らぎはない。
ただ、マリエラの口からそれを聞くと、今日は少しだけ息苦しくなった。
「ねえ、だから困ったらいつでも逃げてきなさいね。私だってあなたが好きなのだから、いつでも助けてあげるし、逃がしてあげるわよ」
目を細めて、かすれたような声で囁かれる。
別れの間際にいつも言われる言葉を静かに見返した。丸いを通り越して、どろりと形をなくしたような声だ。あまく熟れたチュリトーのようで、スルザはいつも飲み込んでしまいたくなる。そう思わせることこそ、彼女の持ちうる手管の一つなのだろう。
妓女の技に唆されるように、それを言われるたび、スルザは反射のようにうなずいてしまう。
スルザが首を動かせば、ぱ、とマリエラは腕を離した。
「またね」
にこ、と子供のように笑うマリエラに、スルザは彼女に顔を寄せた。彼女はいつも甘い香りがするというのに、自分もそんな香りをさせているせいか、よくわからない。そのことにスルザは仕方がないと息を吐き、すぐに窓から身を乗り出した。
また来る、と彼女の部屋を飛び出す。屋根を伝って走り、先ほどの男を探した。
あたりを見回せば、すぐに見つけることができた。
男は、あまり運動するのは得意ではないらしい。細い路地を、白い布がのんびりと移動している。スルザからしたらずいぶんとゆっくりだが、もしかしたら走っているのかもしれない。
(・・・行くか)
半分は本能だ。
逃げられると追いかけたくなる。そしてかみついてしまいたい。
スルザは屋根を走った。そしてすぐに白い布を追い越すと、その男の前に着地する。
とん、と地面に落ちれば、男は動きを止めた。
振り返ってみれば、案の定、水晶に異物を挟んだような目をした男が目を丸くしている。いきなりの出現だったせいか、男はずるりと足を滑らせて尻もちをついた。
驚いたような顔でスルザを見上げる男を見返す。
「・・・きみ」
何を言うのかとスルザは少しだけ待った。だが、その先の言葉はなく黙り込んでしまったので、スルザは首を傾げる。
「マリエラに用か」
率直に尋ねれば、男に首を傾げられた。何かわからないことがあったのだろうかと、スルザは逃げられる可能性を考えて、腰に下げた剣に手をかけた。
「・・・お前、俺が館に入るときから、ずっと見ていただろう。あそこは娼館だ。妓女を狙っているに決まっている」
男の視線が一瞬、スルザの腰元に移動した。荒事に全く慣れていないわけではなさそうだったが、それでもスルザはこの男を殺せる気がした。
狼はあまり獲物に執着しない。時にあきらめることこそ、生存の確率をあげると知っているからだ。執着はときに危険を及ぼす。
それが理解できないのが、人間で、熊で、そして奴隷なのだ。
一度殺すと決めたからには、必ず殺すのがスルザのやり方だ。
この男が逃げるようならば殺すとスルザは殺意を滲ませた。
それに気づいたのか、ひ、と男が小さく悲鳴をあげて後ろへと体を逃がしかける。
「い、いや、まさか、ははは・・・いや、話そう、よく。私はあそこが娼館だなんて知らなくて・・・」
「嘘を言ったら腕を飛ばすぞ」
スルザは、さあ、と絹を断ち切るような音を立てて剣を抜いた。
その音は人のいない路地ではやけに響き、男はますます後ろに体を逃がす。
「いや、本当なんだ!あそこにおかしな気配のする人間じゃないものがいたから、よくないものなら困ると探っていただけで!・・・ん?君、首に何を下げているんだ?」
王に国の友と名付けられた宮廷の魔術師は、マリエラの正体に気づいたらしい。変に好意を寄せた男というわけではなかった。やたらと彼女が危害を加えられることはないだろう。
なんだ、と息を吐いて殺意を散らせば、そのことにも頓着せず、男は立ち上がった。
殺意に気圧されていたように振る舞っていただけで、実際は殺されることなどないと確信していたのだろうかとスルザは眉を寄せそうになった。
だが、立ち上がった男は何か遠いものでも見るように、スルザの胸元に目を凝らしている。
「・・・俺の胸を眺めるくらいだったら、そこ娼館の妓女を紹介するが?」
見られて恥じらうというよりも、傷だらけの肉のない体など見ても何もないだろうと思っての言葉だった。スルザなりに思いやりを見せてみたのだが、男は反射的に後ずさった。
「いや、そういうのじゃないから本当!違うから!君の首にかかっているものが何か、よく見えないけど、魔術的なものだったから!つい!」
そういえばリヒトールに何か首にかけられたのだと思い出す。スルザには見えないし、同僚も見えていなかった。シェカーだけは首元を見て、三日以内に絶対に帰れ、とは言ったが、その他にも管を巻いていたのでよく覚えていない。
「・・・何か、わかるか」
思わずスルザはそう問いかけていた。
本来ならば王宮に仕える人間はスルザより立場が上だ。平伏して話しかけるところから許しを請うべきだが、初動でそれをしていない時点で、スルザはあきらめていた。いざとなったら、国の友が国民を脅かすのはいいのかと言い返す予定である。
「いや、よく見えない。そうなるように何か魔法がかかっているみたいだ」
触ってもいいかな、と言われたので、どうぞ、とスルザは抜き出したままの剣を収めた。
腕を伸ばした男は、確かに何かに触れていた。首にかかっている感覚はあるのだが、スルザの眼では捕らえることができない。
ふ、と地面が暗くなった気がした。
観察する男をよそに、空を見上げる。この時期ではまず見ることのない雲が、ふわふわと空に浮かんでいた。すこし黒いその雲は、雨の雰囲気を漂わせている。
「ん?赤いな・・・宝石?」
ごろごろ、と空から音が鳴り始めた。雲の量はそんなに多くないが、なぜか雷の音がする。
「おい」
「いや、これはあの王の」
男が何か言いかけた。その瞬間、どがあん、と男の背後に雷が落ちた。
スルザは反射的に男の体を引く。そしてそのまま、自分の後ろに放り投げた。うわあ、と上がった声にかまけている場合ではなかった。
放り投げた際、自分の首元から何かが外れる感覚がした。
『ダメダヨ』『スルザダメ』『リヒトールガカナシイ』『カナシイ』『ダメ』『ユルサナイ』
雷が落ちた場所で、何かが光っている。それはふわふわとした声で、スルザに何かを言った。
ざわ、と自分の肌がざわめき、猛烈な恐怖に殺意がわいた。
『あれは、だめだ』
自分の中で囁く声がそう告げる。その言葉は、すとんとスルザの中に落ちこんだ。
半分本能的に理解した。この雷を起したのはリヒトールだと。
だから恐ろしさは殺意に変わる。
(そのとおりだ)
あの男は恐ろしいものだ。これは自分の敵うものではない。こんなものがそばにいたら、自分は殺されても生きながらえない。
いざとなったら、死んでしまう。
それはだめだ、と物としてのあり方を凌駕して、スルザは強く思った。それだけはどうしてもだめだった。殴られても蹴られても、スルザは生きねばならない。
『逃げろ』
だから、その声が、正しいことのように聞こえた。
「ねえ、君、これ・・・」
今しかない、とスルザは背後の男を振り返った。突然の雷に、ざわめく声が聞こえる。そろそろ人が集まってくるころだ、とスルザはその場から駆け出した。
「ちょっと!」
男の制止を振り切り、スルザは走りだした。
恐ろしいことからは、逃げてもいい。生きるために必要ならば、走ればよい。それが本能として埋め込まれているのが、狼なのだ。
スルザは飼われて餌を与えられるだけの犬ではなかった。かつてからそうであったように、相手をかみ殺して食らう狼だった。


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