@toasdm
「ギンカガミ、という魚をご存知ですか?」
寝室のカーテンを開けたクリスさんが、こちらを振り向いて手招きしながら問いかける。初めて聞く名前、どんなお魚なのか想像もつかない。もしかしたら、知らずにあなたも食べているかもしれませんよ、と悪戯そうに笑うクリスさんの隣に立つと、そっと肩を抱き寄せられる。腕の中に閉じ込めるようにして私を背中から抱きしめて、クリスさんは話を続けた。
「チリメンモンスター、という言葉は?」
「あ、それなら聞いたことあります」
確か、スーパーとかで普通に売っているちりめんじゃこの中にたまに紛れているお魚のことを指すんだったと思う。クリスさんの話によれば、ギンカガミはチリメンモンスターとしてたまに見かけることがある魚だそうだ。
「ギンカガミ、スズキ目スズキ亜目ギンカガミ科ギンカガミ属の魚です。一科一属一種、ギンカガミと同じ分類に属する魚は他にはいないのです」
「それは…仲間がいなくて寂しい、ですね」
「ふふ…そうでしょうか?ヒト科ヒト亜科ヒト族ヒト亜族ヒト属、現存するのはホモサピエンス…我々、人間だけですよ?」
寂しいですか?と耳元で囁かれて、どきりと跳ねた鼓動。私は今、寂しくはない。抱きしめてくれるクリスさんの腕にそっと手を添えて目を閉じると、寂しさなんてどこにもない。寂しくないです、と瞼越しに満月の光を感じながら呟く私の頬にキスをしてから、クリスさんは続ける。
「私も、あなたがいれば寂しくないのです……」
「…ふふ、はい。私もです」
「ギンカガミは」
クリスさんの右手が、窓の外の満月を指差す。その指先で煌々と輝く満月の銀色は、明かりのついていない部屋に優しく光と影を落としている。
「別名、ムーンフィッシュとも言うのです」
「ムーンフィッシュ……?」
「ええ。丸くて平べったい、そうですね…マンボウのような、と言うと、わかりやすいでしょうか?」
「マンボウ…はい、わかります」
あなたは賢いですね、と頭を撫でる手の優しさが、私の鼓動をまた跳ねさせる。クリスさんの低く穏やかなゆったりとした声が響く。
「鱗はなく、まるで銀色の鏡のようにキラキラと光る様子から、その名がつけられました」
「ムーンフィッシュ…ギンカガミ」
そうです、と月を指すクリスさんの指が、私の頬を撫でる。くすぐったさと心地よさに笑った私をまた抱きしめて、クリスさんの解説は淀みなく続く。
「空にある月が海に焦がれて落ちたようだ、と、私は思ったことがありますよ」
「……なんだか、素敵な話ですね」
「意外とロマンチストなんです」
茶化すように笑って言うクリスさんが、こちらを見てください、と私の体をくるりと回す。見上げると、目の前には、月光が照らすクリスさんの整った顔。長い髪の毛に月光の破片がきらきらと、飾るように踊るように一筋一筋をきらめかせている。そんなに見つめないでください、と少し目を伏せたクリスさんの照れたような仕草に胸が締め付けられて、私は思わずクリスさんの頬に手を伸ばした。
「おや…?」
「あ、いえ、その……」
何してるんでしょう、と素っ頓狂なことを口走る私の様子に、クリスさんはくすくすと口元に手をやって笑いながら、じっと顔を覗き込んでくる。ドキドキする音が聞こえてしまいそうなほどに近づいた距離、クリスさんはにっこりと優しく微笑む。
「月明かりの中であなたとキスがしたい、と…そう思う程度には、ロマンチストなんですよ?」
ご存知でしたか?と目の前で、クリスさんの瞳に月の銀色が映りこむ。彫りの深い顔に落とされた月影すらも美しく、私は銀と濃紺のコントラストに心も視線も奪われる。近づいて重なる唇から伝わる優しい温もり、寝室の窓から差し込む月明かりだけが照らしている。
「あの月ももしかしたら、海が恋しくなるのかもしれませんね」
私があなたを恋しく思うように――…。そんな風に言うクリスさんは確かに、ロマンチストなのかもしれない。ゆったりと、海に漂う小船のように揺らされている私を、クリスさんはどんな表情で抱きしめているのか。月だけが見ているその顔を見たくて、私は顔を上げる。あまり見ないでください、と笑ったクリスさんが私の後頭部に手を添えて、肩口にそっと押し付ける。少しだけ見えたその表情は、凪の海のように穏やかで優しかったように感じた。