「あのねー、今の苗字に飽きたら、いつでも言ってねー?」
想楽君と同棲しているPさんが、想楽君の可愛らしさと突然のプロポーズに翻弄されるお話です。
@toasdm
想楽さんは、お風呂から上がってもすぐには髪の毛を乾かさない。なんでだろう、と思って聞いてみたけど、せっかく汗を流してさっぱりしたのに、ドライヤーで汗かいちゃうとなんか損した気分になるんだよねー、と笑って私を抱き寄せた。こうやってくっついてても汗かいちゃうと思います、って言ったら、そういう汗とは違うんだよー、っていう想楽さんだけの基準があるらしくて、お風呂上がりのいい匂いとしっとりとした瑞々しい感触に抱きしめられて、納得したのかしていないのかわからない私はそれを甘んじて受け入れる。不思議な、というよりは、独特な世界観を持っていて、人間的にも面白いと思う。想楽さんは。
季節はだんだん汗ばむ陽気をちらりと見せるようになってきて、夜が更ければさすがにちょっと肌寒いこともあるけれど、夕方くらいならお風呂上がりも少し涼みたくなるような、そんな気温になってきた。もうすぐ梅雨時かぁ、と憂鬱そうな声を上げた想楽さんが、ドライヤーで髪の毛を乾かし終わったさっぱり顔で、冷凍室を覗き込む。
「あー」
「えっ、な、どうしたんですか?!」
この世の終わりみたいな顔で私を振り返った想楽さんは、しょんぼりしたままアイスがないー、とその場にしゃがみこんでいる。お風呂上がりにアイスを食べるのが一番の楽しみ、なんてちょっと可愛いなぁって思っていたから切らさないようにしていた二人の部屋の冷蔵庫、今日に限って私はアイスを切らしてしまっていた。
「あ、ごめんなさい…買ってくるの忘れてましたね」
「大ダメージ…僕、アイスの為にがんばって髪の毛乾かしたのにー…」
膝を抱えて冷蔵庫の前で激しく落ち込む想楽さんは、可愛いだけでできた彫像のようになってそこから動いてくれない。一緒に暮らしはじめて結構経つけど、ここまで落ち込んだ想楽さんを見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。たかがアイスじゃないですか、と笑った私をキッ、と睨むと、想楽さんは立ち上がって主張する。
「たかがじゃないですーだってお風呂上がりのアイスだよー?」
「で、でも、ただのアイスですよ」
「ただのアイスじゃないのー!あっついの我慢して髪の毛乾かした後のご褒美アイス!」
僕のアイスー、とまたその場にしゃがみこんで、想楽さんは膝を抱えてそこに顎を乗せて、恨みがましい目でこっちを見ている。うわもう可愛い、ずるいと思う、そういうのずるい。だって可愛いしかないじゃない!どこに向けたらいいのかわからない気持ちが私のほっぺたにくっついて、私は思わず笑ってしまう。笑ってる場合じゃない!と鼻息も荒く、想楽さんは再び立ち上がって私の手を取る。
「ほら、行くよー」
「えっ、い、行くって」
手早く着替えた想楽さんはさも当然、と言わんばかりにアイス買いに行くのー!とほっぺたを膨らませている。早い時間にお風呂に入ったから湯冷めもしないでしょー、とお財布をデニムのポケットに詰め込んだ想楽さんに引きずられるかたちで、私は外へと連れ出された。
せっかくだから、の一言で決まったアイスを食べながらの帰宅デートは、終始満面の笑みを浮かべた想楽さんのご機嫌な足音をベースのリズムに、夕暮れの堤防を小さな限定ステージへと変えていた。食べ終わったアイスのゴミをコンビニの袋にまとめて入れて、それを右手にぶら下げたまま左手で私の手をぎゅ、っと握った想楽さんは、鼻歌交じりにお散歩を楽しんでいる。穏やかな風がサラサラとした想楽さんの髪を揺らして夕陽を透かして煌めいている。長く伸びた影を後ろにしながら歩く帰路は、なんだかとっても居心地がいい。それは想楽さんも同じみたいで、繋いだ手を離したと思ったら、よっ、と前にステップを踏み出して、いつもよりうんと楽しそうに笑っている。
「アイス食べたらご機嫌ですね」
「そうだねー、それだけじゃないけどねー」
後ろに手を組んだ想楽さんが、夕焼けを背景に私の方へと手を差し出している。その手を取ってまた歩き出そうとした私に、あのねー、と想楽さんが話しかけてくる。
「あのねー、今の苗字に飽きたら、いつでも言ってねー?」
隣並んで歩きながら、夕映えに染まる想楽さんの表情を伺ってみるけれど、真意はうまく、掴めない。飲み込めていない私に想楽さんは、さらに言葉を重ねてくる。
「北村姓にだったら、変えてあげられるからさー」
「え…?」
さらっと言ってるけど、それ、あの、所謂…プ、プロポーズ、では…?問題発言をした後は、また鼻歌を歌いながら想楽さんは上機嫌で歩いている。ドキドキしたままの私はなにも言えずにただついて歩くばかりで、言葉の意味を処理するだけで精一杯、返事もできずにいる。そんな私のことなどおかまいなしなのか、想楽さんはニコニコしながら、何かを思いついたような顔で私の顔を覗き込んだ。
「ねー」
見つめられて思わず止まった私の足、想楽さんはこの上なく幸せそうに笑って言った。
「そろそろ、飽きたー?」
今度こそ、私の頭はバンクする。もー、鈍いなー、とくすくす笑う想楽さんが、笑うだけ笑ってまた私の手を引いて歩く。夕焼け空に想いを映して、想楽さんの鼻歌を聴きながら歩く道はもうすっかりと、通り慣れたいつもの道になっている。私の日常には想楽さんがいて、想楽さんの毎日には私がいて、それがこんな風に当たり前になっている。一緒に暮らして、日々はこの夕暮れの道のように穏やかで、ほんのりと胸に幸せが灯っている。
「…飽きたら、言いますね」
その返事に満足したのか、そっかーと再びご機嫌な鼻歌を歌いながら、想楽さんは家へと向かう。
想楽さんと、同じ苗字で、こんな風に。思い描いた未来がいつか、くるのかもしれない。巡る季節の香りを肌で感じ取りながら、繋いだ手をぎゅっと握って、私も鼻歌を合わせた。笑い声の響く堤防を、夕陽は柔らかく照らしていた。