@toasdm
朝の一分は日中の十分に匹敵するくらい忙しない。今日はオフの雨彦さんはのんびりしていていいけれど、私は普通にお仕事だ。忙しさに擦って手を抜くわけにはいかない朝食、雨彦さんの好みに合わせた和食をきちんと用意して、食卓に向かい合わせに座って「いただきます」をした後は、時計の針と睨めっこをしながら急いで食べる。今朝は三十分も寝坊してしまった。
「間に合いそうか?」
「間に合わせますっ」
「車出すかい?」
「それはダメです」
いくら事務所公認とはいえ、体裁が保てなくなるような事はできないし、させられない。それに、休みの日はしっかりと休んでいてほしい。担当アイドルの体調管理だって、私の大事な仕事のひとつだ。急いで食べ終えた私は「ごちそうさま」と同時に席を立って、ジャケットを羽織りながら慌てて玄関へと向かう。
「忙しないな」
「食べてていいのに、よっと」
靴を履きながらバッグを肩にかけて、腕時計を確認。いつもの時間より十二分遅い出発、走ればまだなんとかなりそうだ。食器の片付けをお願いしながらドアノブに手をかけて、出撃体制。
「いってきます、雨彦さん」
「ちょっと待った」
玄関先で呼び止められて反射的に振り返った私の目の前、雨彦さんは腰を軽く曲げて顔壁に肘をついて、自分のほっぺたをトントンと、人差し指で叩いている。
「お前さん、忘れもんだぜ?」
…朝の一分は日中の十分、なんだけどな。ニヤニヤしながらいってきますのキスを待つ雨彦さんは、急いでるんだろう?とさらに追い討ちをかけてくる。……こうなってしまったら、もう、観念するしかない。メイクが落ちないくらいに優しく、私は雨彦さんのほっぺたにそっと、いってきますのキスをする。よし、今度こそ、と離れようとした私の手首を掴んで引き寄せた雨彦さんは、満足げにニッと笑って言う。
「上出来だ」
「ん……っ!!」
そしてそのまま私の後頭部に手を添えて、雨彦さんは私の唇を塞いで奪う。ぷぁ、と離れた雨彦さんの唇は私のグロスで光っていて、見慣れているけど見慣れない。いってらっしゃいのキスも忘れるなよ?と言いながら親指で、ついたグロスを拭った雨彦さんは、その指をちゅ、っと吸い上げて、目を細めてニヤっと笑う。
「ああ、お前さんの味がする」
「恥ずかしい事を言わないでください!もう!いってきますっ!」
「気をつけろよ」
いってらっしゃい、と壁に肘をついたままで右手をひらひらと振る雨彦さんに見送られて、私は駅までダッシュする。腕時計を確認すると、いつもの時間より十四分も遅い出発になってしまった。まだ感触の残る唇に指で軽く触れてから、朝の二分を縮める為に私は全力疾走した。不思議と気持ちは、軽かった。