@toasdm
「お前さん、もしかして目が見えないのかい?」
高い位置から響く声は柔らかく低く優しい。肩に優しく添えられた手の主を振り返る彼女の視線は定まらない。白杖もなく、一人で出歩いているところを見ると視力に障害があるというほどではないのだろうが、だが彼は彼女の些細な仕草を見逃さなかった。
じっとその場から動かず、定まらない視線と時折目を閉じる仕草。動かないのではなく動けないのではないか…。人で賑わう店の中、彼女だけが彼の視界の中で浮いていたのだ。声を掛けられた彼女はそんな彼の気遣いを素直に受け取って、ありがとうございます、と微笑んでみせた。
「全く見えない、というわけではないんです。たまに、今日みたいに突然調子が悪くなるというか……」
「さっきまでは大丈夫だったってことかい?」
「ええ。家に帰って少し休めば、また普通に、戻りますし。街灯のない夜道を歩くようなものですから、大丈夫です、本当に。家も近いですから」
合わない目線を遮ってゆっくり閉じた彼女の目は、さほど困っているようには確かに見えない。しかし、だからといってそうかい、と引き下がってしまうのも何か違う、と彼は言葉を選んで彼女にそっと手渡す。断られるなら構わないが……。
「不安には変わりないんだろう?もし嫌じゃなければ家まで送らせてもらうが……」
彼の言葉を受けて、彼女は考える。感じたままの印象は、素直に言うなら『信頼できる人』だろう。温かい手、優しい声、穏やかな言葉遣いと漂う柔らかい香り。あまり視力の良くない彼女は、視力以外の感覚で人を判断する癖がついている。顔は相変わらず見ることはできないが、随分と高い位置にある頭は彼の背の高さを物語っているにも関わらず、威圧感や圧迫感は全く感じない。きっと、優しい顔をしているのだろう。見えないけれど、見える。きっと彼は優しい。いい人だ。不安感には慣れてはいるとはいえ、家に辿り着くまでの短い距離でも、彼女はうんと時間を掛けて慎重に帰らなければならない。お言葉に甘えて、と彼女は申し出を受け入れ、彼の腕に手を添えてつかまる。彼女の指示に従って辿り着いたアパートは、彼女の申告どおり店から僅か500mの距離にあった。道中聞いてみたが、もし出先で視力が安定しなくなってしまった場合は、この距離を20分以上かけて歩くのだという。サポートを申し出て本当によかった、と彼は彼女を部屋まで送り届けてほっと胸をなでおろした。
「あの、すみません本当に…助かりました」
「いや、大したことじゃない。差し出がましいようで、かえって申し訳ないくらいだ」
「お茶くらいなら出せますので」
「一人暮らしの女性の部屋にお招きされたとあっちゃ、緊張して茶の味もわからなくなっちまいそうだからな、お気持ちだけいただいていくさ」
あがってください、と勧める彼女の誘いをやんわりと断って、彼はアパートを後にした。颯爽と去っていった彼の残り香と優しい余韻を残す声が、彼女にとっては存在の全てだ。そういえばお名前も伺っていなかった、と気付いた彼女は、その日の夜の内に手紙をしたためた。視力の維持とリハビリにはじめたハンドクラフトのブレスレットと共に封筒に入れて、その日から彼女はそれを持ち歩いた。いつかまた再び出会うことができたなら、感謝の気持ちを伝えたい、という期待を込めて。
雑踏の中、彼女はあの優しい声をまた、頭上に聞いて振り返る。助けてもらったあの時よりもずっとずっと高い位置。ビルの壁面に大きく掲げられた街頭モニタの中で凛とした存在感を放つ美丈夫がそこにいた。…ああ、あんなお顔をしていたんだ。やっぱり優しそうな顔をしている、とくすりと笑いながら、モニタの中で朗々と歌いダイナミックに踊る彼をぼんやりと眺めた。格好いいな、と素直に思った。
やがて曲が終わり、三人の男性アイドルがカメラの前でこちらに向かって手を振っている。それだけで、街頭モニタの前にできている人だかりから、キャーキャーと黄色い歓声があがっている。どうやら、そこそこ人気のアイドルグループらしい。あまりそういうことには興味のなかった彼女はもちろん、彼らの存在は知らなかった。モニタの中の彼がステージ衣装を身に纏い、彼女の記憶の中にある優しさをそのまま残したあの声で話している。
『Legenders、葛之葉雨彦です』
その時彼女は初めて、彼の名前を知った。葛之葉雨彦――…雨彦、さん。
声と香りの記憶しかなかった彼女は今、あの日からずっと持ち歩いていた感謝の手紙を携えて、列に並んでいた。徐々に進む列、あの声がまた、彼女の耳にも届き始める。一歩進み出る。顔を上げて彼女は、微笑みと共に手紙を差し出した。
「またお会いできて嬉しいです」
一瞬目を見開いた雨彦は、手紙を受け取り手を握る。
「ありがとうな。俺も、お前さんとまた会えて嬉しいぜ」
記憶の中よりもずっと優しい雨彦の存在の全てを、彼女は今度こそその目にしっかりと焼き付けた。