@toasdm
「ああ、わかった。……任せてくれていい、お安い御用さ」
仕事の電話だと言うわりには、随分とフランクだな、と思う。ビジネス敬語が使えない人ではないと思うけれど、そういえば、私は雨彦さんの普段の口調しか知らない。アイドル稼業の傍らで、たまにこうして掃除の仕事も請け負っているという雨彦さんは、最初から最後まで普段通りの話し方のまま仕事の電話を終えて通話を切った。スマホのスケジュールリストも使いこなせるようになってきたのか、いくつかタップして予定を入れて、雨彦さんはスマホをテーブルに置いた。
「すまないな、せっかくの逢瀬を邪魔されちまった」
「いえ、気にしてないです」
少しは気にしろよ、と私の肩を抱き寄せて、ソファの上で雨彦さんはふぅ、とため息をついている。
「雨彦さんって、敬語使えるんですか?」
「ん?」
「あ、いえ…変な意味でなく」
なんか、変な言い方になっちゃったかな。妙な事を言うじゃないか、と笑った雨彦さんは、咳払いをひとつしてからいつもと同じトーンで話し始めた。
「まあ、失礼のない程度の敬語は一通り使えるさ。これでも一応社会人なもんでな」
「はぁ…まあ、そうですよね」
「なんだ、お前さんそういう方が好きなのかい?」
「いえ、好きというかなんというか…想像、できないなぁ、って」
失礼な奴だな、とからから笑って、雨彦さんは立ち上がる。
「いいぜ、ちょっと待ってな」
私の頭を二、三度ぽんぽんと軽く叩いて、雨彦さんはウォークインクローゼットに消えていく。最近になって私が借りた二人の部屋、アイドルとプロデューサーともなれば忍ばなければならないことなんてそれこそ、山ほどある。お互いの私物が徐々に増えてきたこの部屋に、そろそろ二人で移り住んでもいいかな、なんて考えていた私の前に現れたのは、見慣れた顔で見慣れない服を着ている雨彦さんだ。
「は?!」
「まずは形から、と、申しますでしょう?」
……開いた口が塞がらない。ご丁寧に眼鏡までかけて、雨彦さんはその、いわゆる……。
「執事の葛之葉です。お嬢様、本日のご予定ですが」
「待って下さいそれはどこから?!」
そんな、執事めいた服なんて持ってただろうか?私の服も雨彦さんの服も、ちょっとずつ、一晩くらい泊まっても問題ない程度にしか持ってきていないはずだし、っていうか本格的過ぎるし、市販の服ってそもそも、雨彦さんの身長だと合わないはずだし。
「執事たるもの、この程度の服を揃えていなくてどうします?」
「聞いてないです!なんですかその、そういうそれは!!」
「と、おっしゃいますと?」
完全に役に入りきってる…映画やドラマのお仕事がきても問題ないどころか、しっかり役柄を把握して台本も読み込んで、見るものを惹きつける迫真の演技をする雨彦さんにとっては、この程度確かに、問題ないのかもしれないけど……これは、完全にアドリブだ。
「お嬢様、本日は終日フリーとなっております。私も同行させていただきますので、ショッピングなどにお出かけになってはいかがでしょうか?」
白手袋の手を胸元にあてて、こちらをじっと見ている雨彦さんは、今、どこからどう見ても執事だ。それも、とびきり格好良くて、とびきり妖艶な……。
「…お嬢様、聞いていらっしゃいますか?」
「うわっ?!」
おや、と眼鏡のブリッジを上げ、執事の雨彦さんはレンズの奥の瞳をきらりと光らせる。ニィ、っと綺麗に歪めた唇、スッと近付いてきた雨彦さんは私の顔をじっくりと覗き込んでいる。…ちょ、直視できない…。
「いけないお嬢様ですね。そのような下品な声を上げるようでは、当主も安心できませんよ?」
「も、もう、もうあの、わかりましたから!」
「これは、私が直々に教えて差し上げなければならないかもしれませんね」
あの雨彦さんが、自分の事を『わたくし』と言っているのも、貴重な眼鏡も、スーツも、敬語も、なんかもう、全部、何もかもが――…。
「む、無理ぃ……」
「…はは、情けないなお前さんは」
降参のポーズで雨彦さんに抱きつくと、ぎゅっと抱きしめてくれる雨彦さんは、いつもの雨彦さんに戻っている。よしよし、と頭を撫でる手も、力強くて広い胸も、全部私の大好きな雨彦さんだ。
「敬語くらい使えるさ、役に入れば、な」
なかなかだっただろう?と眼鏡を外した雨彦さんは、真っ赤になった私に優しく触れるだけのキスをくれる。
「お前さんの前では素でいさせてくれよ?…まあ、どうしてもって言うんだったら、またこの服を着てやるが」
「もういいですー……」
役の抜けたいつもの雨彦さんは、堅苦しいのは苦手なんだ、と苦笑しながら再びウォークインクローゼットへと消えていく。なんだかどっと疲れた私はソファに沈んだまま、さっきのアドリブをリフレインしてはクッションに顔を埋めて足をバタバタさせながら雨彦さんを待っていた。
……雨彦さんの敬語は、心臓に悪かった。