@toasdm
静寂と水の音と匂いとが満ちた、暗くて青い大水槽。色とりどりの南国の魚たちが自由に泳ぐ姿は、昔話の浦島太郎の気持ちがよくわかるような気がする。どれが鯛でどれがヒラメかわからないけれども、舞い踊り、と表現された魚たちの群れは確かに、舞い踊っているようだ。繋いだ手を何気なく、きゅっと握ってみると無言で、クリスさんはそれを優しく握り返してくれる。言葉なんていらない、今私達は幸せだ。
オフの日、あなたの行きたいところへ行きましょう、とゆったり微笑むクリスさんに、お任せしますと返してみたら、少し考えて連れてこられた水族館。平日の日中ともなれば人はまばらで、お忍びデートにはちょうどいい。人目も時間も気にせずに、私達はゆっくりと、泳ぐ魚に癒されながら館内を回っている。
「あ、熱帯魚……」
ひときわカラフルな水槽の中の魚に、私は思わず駆け寄った。後ろでくすりと笑う声がして、そしてそれはすぐに近付いてくる。コバルトブルーに黄色のラインが映える美しい魚、映画で有名になったオレンジに白と黒の縞模様のある可愛い魚、ひらひらとドレスを纏ったような姿の綺麗な魚。どれもみんな、一通りクリスさんが教えてくれたことのある魚たちばかりだ。
「ふふふ、プロデューサーさんは熱帯魚が好きですね」
「ええ…カラフルで、形も色々で、見ていて飽きません」
「そうですね、確かに。地味な魚もいますが…ああ、あそこの、白っぽい魚、おわかりですか?」
水槽の中ほどで、まるでキスをするようにお互いの口を触れさせあっている魚を指差して、クリスさんは髪の毛をさらりと耳にかけて言う。
「キッシンググラミー、インドネシアやマレー半島付近の、暖かい海に住む魚です」
「キッシンググラミー……確かに、キス、してますね…」
「ふふ、実はあれは、オス同士の個体なんですよ」
「え?!」
オス同士でキスをする…?!魚にもそんな趣味があるのか、なんて不思議な気持ちになっている私の肩をそっと抱き寄せて、クリスさんは笑いながら説明を続けてくれた。
「あれは、キスをしているのではないのです」
「キスにしか見えないんですが……」
「ケンカなんですよ。縄張り争いといったら、わかりやすいでしょうか」
「縄張り争い…だからオス同士なんですね?」
そうです、と微笑むクリスさんの方に顔を向けると、真剣な眼差しで嬉しそうに水槽を眺めている。水槽の青が瞳に映りこんで、水面の揺らめきがクリスさんの表情にきらきらとした特殊効果を添えているようにも見えて、私は思わず見惚れる。……本当に、素敵な人だな、と思う。容姿が優れているという意味でももちろんだけれども、好きに向かって一直線、一生懸命で真剣なところが、私はもしかしたら一番好きなのかもしれない。
「……どうしたんですか?」
「え?!あ、いえ……」
まさか、横顔に見惚れていた、とも言えず。急にぶつかった視線をそらして、私は水槽の青で頬の赤を誤魔化すように目線を戻した。くすくす笑うクリスさんの声からいって、きっと何を考えていたのかはなんとなく、バレてしまっている気はするけれど。恥ずかしさを誤魔化しきれない私の耳元で、クリスさんの声がする。
「私達人間は、あんな風にはケンカではしませんが」
「え、んっ…?!」
水槽の青を背景にクリスさんの顔がぐるりと回りこんできて、さっと添えられた後頭部の手に押さえられて私は、一瞬で唇を奪われる。何が起きたのかわからないうちにクリスさんはまた元通り、私の隣にさっと戻って、照れなんてどこにもないような落ち着いたトーンで話し始める。
「今日は、キスの日らしいですよ」
「っ!」
直視できない私をよそに、クリスさんはまた耳元で、こっそりと内緒話をするように囁いた。
「私は…人目を盗んでするキスの味を、覚えてしまったようです」
「え、あ、うぇ?!」
ちら、と横目で確認すると、クリスさんは熱っぽい視線を私に向けていた。
「……もう一度、盗んでもいいでしょうか?」
「ん、んっ…!」
盗むのは人目だから、私に聞いても意味がないと、思ったけど……そういえば、こんな突然のキスのことを、唇を奪う、なんて表現をするんだったな、と思いながら私は、大人しくクリスさんに盗まれる。瞼の向こうのクリスさんは、満足そうに笑っているような気がした。