@raixxx_3am
「ねえ、あなたはだあれ?」
山の縁にひっそりと佇む朽ち果てたホテルの最奥、なだらかな曲線を描く空の鳥籠は、かつては色とりどりのむせ返るほどの花に溢れた温室だったのだという。
見取り図通りのはずのーーそれでも、いままでここを訪れた誰もがたどり着くことが出来なかったのだというその部屋へとなぜか招き入れられることを許されたおれが耳にした言葉がそれだ。
「ねえ、聞いてるでしょう?」
ピアノがそのままおしゃべりを始めたかのような、高く澄んだ涼やかな声がこちらを捉える。
聞きたいのはこっちの方だ。不法侵入者だなんて、おおかた予想はついてはいたけれど、出くわしたいわけなどあるはずもない。
「あんたの方こそなにしてるんだ、こんなところで」
瓦礫と腐葉土を踏みしめながら歩みを進めれば、声の主らしき少女の姿が目に入る。
その姿を目にしたとたん、おれは思わずぐっと深く息をのむ。
薄紫がかった白い髪、枯れ枝のように細い、長く伸びた手足。肌の上を滑り落ちるのは、なんの装飾も施されてはいない、いたって質素な見かけの艶めいた生地のドレス。
そしてなによりも奇妙なことに、その背中にはぼろぼろの透き通った翅が生えている。
屋根の落ちた朽ち果てた廃温室、その中央に蹲る不可思議な少女の姿はまるで、孵化を遂げたばかりの蝶のようだ。
「なんかの撮影か? いやに凝ってるな」
「何を言っているのかわからない」
ぷい、と顔を背けるようにしながら、艶やかな音色は鳴り響く。
埃っぽく黴臭い独特の臭気に加えて、なにか花のような甘い香りが先程から鼻先をくすぐるのを感じる。
その正体がなにかと言えばーーきっと目の前にいるこのひとりしか、思い浮かぶはずもない。
香水か何かだろう。もしくは化粧品の。
女子どもは、とかくあまい香りを身にまとうことを好む。
「オーケイ、こっちが先だな」
ぱき、ぱき。
枯れ枝を踏みしめるようにして歩み寄りながら、おれは答える。
「おれはこの土地の管理者に頼まれてきたんだ。リノベーションって知ってるか? ここがまた、お客人方で賑わう社交場になるように建て直そうって話だ」
「あなたがその創造主?」
「……神さまみたいだな、そんな言い方されると」
苦笑いを浮かべながら、おれは答える。
「違うよ、おれはただの神さまの使いっ走りだ」
「へえ、」
ちらりとこちらを一瞥しながら、少女は答える。
猫の瞳によく似たきれいなアーモンド型のカーブを描くまぶたの奥には、宝石のように光る翠の瞳。
それで、あんたは。尋ねるよりも前に、少女は答える。
「ーーここはおかさあさまの胎のなかなの。わたしは、ここで生まれたのよ」
おおきな瞳をふちどる白いまつげが、ふわりと揺れる。
「朽ち果てた時のはざまなのよ、ここは。おかあさまはここで夢を見ていたの。誰にも傷つけられない、誰にも壊されない楽園の夢よ」
かつての英華は何処へーーひっそりと忘れ去られ、時のはざまで沈んでいくこの場所を魂の置き場として選んだかつての乙女が胎のなかで十月十日育てた『夢』の具現化。
それが、目の前の少女なのだという。
「おかしいわね、この部屋には誰もたどり着けないようにしてあるって聞いていたのに。あなた、魔法使いかなにか? なにか術でも使ったの?」
「そんなものがあるのなら、逆に教えてほしいね」
答えながら、長いドレスの裾からちらりと姿を覗かせた足元を盗み見る。
足があるーーのだから、幽霊ではないのだろう。
体に反していやにちいさな足は、とうぜんのごとくはだしのままだ。
「なぁ、あんたはいつからここに?」
「わからないわ」
おもむろに問い尋ねてみれば、すぐさま、かぶせるように返答が投げ返される。
「ここからは出られないのか? 出ようとしたことは?」
「だから、わからないわ」
かぶせるように返される言葉は、戸惑いの色を帯びている。
「ここはーー誰にも犯せないおかあさまだけの楽園だもの」
ふるふる、と震えたおぼつかない声が、朽ちた温室の中に響き渡る。
華奢な背中では、光に透ける翅が、呼応するかのように音も立てずに僅かに揺れる。
突如生まれ落ちた蝶は美しい鳥籠の中に閉じ込められたまま、永劫の時を漂うためだけにこの世に落とされたのだという。
夢の写しとは、なんという無残な存在なのだろう。
ぱき、ぱき。
枯れ枝と瓦礫の山を踏みしめ、一歩、また一歩と近づきながらおれは尋ねる。
「なああんた、もしかして起き上がれないのか?」
「だから、わからないって」むきになったような声色は、僅かに熱を帯びながら震えている。
使い物にならないであろう翅。立つことすら覚束ないちいさなちいさな頼りない脚。
まったくもって、こいつの「おかあさま」とやらは趣味が悪い。
「なぁ、教えてやるよ。この世界のことを。ここだってもうじきに壊されるんだ。そうすればあんただってここを出て行く羽目になるんだ。その前に知っておいた方がいいだろう? あんたの脚とその翅はほんとうに飾りなのか? 確かめてみたっていいだろう?」
答えながら、白くとがったろう石のような指先に触れる。
つめたくとがったその先には、桜貝みたいなちいさな爪。
まったく、誰に似せて作ったんだ。
僅かに温もりを帯びたそれに、自らの節くれた指先を絡めるようにしながら、おれは尋ねる。
「なあ、あんた。名前は? あるのなら呼んでやるよ。ずっと『あんた』じゃあ風情もないだろう」
「……眞由梨」
クレッシェンドの響きで、蝶は答える。
「誰かに名を尋ねられたらそう答えるようにって、きっと誰も訪れるはずはないけれどーーそれが、わたしの大切な名前だからって」
いつぞや資料の中でも見聞きした覚えのある名前に、ぞわりと胸の奥がつめたくくすむ。
ああ、そうなのか。全くもってーーひどい話だ。
こほん、とわざとらしく咳払いをしたのち、おれは答える。
「待たせて悪かったな、眞由梨」
下手な芝居がかったせりふを口にしたその途端、深い翠の瞳の奥で、幾重にも折り重なった光の洪水が跳ねる。
「……あなたは?」
まざまざと震える瞳を見つめながら、告げてやる答えはこうだ。
「忘れたのか? そりゃそうだね。ずいぶん待たせてしまったからね。ぼくだよ、ーーだよ」
答え終わるのと同時に、ろう石のように儚く頼りない指先がきゅっとこちらのそれに絡みつく。
『眞由梨』のその名を授けられた少女の背で、透き通った翅が音も立てずに震える。
まるで、ここから飛び立つその瞬間を夢想するかのように、あまやかに。
眞由梨さんはこの温室の主で帰らぬ人を待ち続けながら永劫の狭間を漂っていて、行き場のないその願いが形になってある日生まれたのが飛べない蝶の少女の眞由梨です。たぶん。
息抜きにスマホで即興で書いてスマホからあげてるのでいろいろお見逃しください。