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茶の花

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2018-06-04 23:23:36

長曽祢虎徹さんがメインのお話。相変わらず俺本丸設定があまりにも濃厚なので、両界曼荼羅の付喪神なんかも居るという設定でどんどん登場します。審神者もどんどん出ます。

Posted by @seika8sub

茶の花
 
 
 
 浅く息を吸い、止める。瞼は開き、前を注意深く睨《ね》め付ける。一瞬、この身をかつて感じていたあの人の動きに委ね、一体化する。一閃。暗闇に青銀の一筋が流星の軌道を描き光る。土の塊か靄でも斬った様な、ともすれば死肉を斬った様ないつもの手応え。目前の異形の敵は炭の如き血煙《ちけぶり》を噴くが、それも瞬視の裡に空気に溶けゆく。敵は怨み混じりの唸り声と共に断たれた体を崩し、かと思えばその姿はやはり霧となっては宙へと消えてゆく。絶命して逝く一瞬も彼は油断せずにそれを見送りつつ、他の敵への攻防をも繰り返す。視界の隅で仲間たちが無駄のない剣裁きで舞うのがちらりちらりと見える。部屋の中には黒煙《こくえん》が溶溢《よういつ》しては薄く漂い、薄れゆく。
 やがて、折れた刀身が鉄屑の如く畳の上に落ちるだけとなり、敵とされる者たちが発する気配も完全に絶たれて消魂《しょうこん》を肌身に感じると、長曽祢虎徹はやっと深く息を吐き出し、この淀んだ場の空気を裂くように一度だけ鋭く刀を振るった。その頃には鉄屑はさらに溶解してしまうように失せゆき、黒ずんだ砂利程度の大きさとなって僅かに残るばかりとなっていた。刀たちは見張りを立てながら、念の入った慎重さで跡形もなくその残り滓となったものたちを一つ一つ拾い集めると、しっかりとそれを風呂敷に包んだ。数戦を経た後でもあったため、この風呂敷はずっしりとした膨らみを帯びていた。
「終わったね。帰ろうか」
 今回隊長を承っていたニッカリ青江が静かに口を開いた。その視線は室内に居る全隊員へと向けられていたものの、それでも無意識の裡に長曽祢虎徹を二度捉えた。
「ああ。俺の我儘に付き合ってくれた事、感謝する」
 開け放たれた二階の窓から狭い通りを見下ろしていた彼は室内を振り返り、低く呟くように感謝の言葉を述べて小さく頭を下げた。
「まあ、前の主に関するものが狙われれば皆が言う我儘さ」
 ニッカリ青江は出動前にも言った言葉を繰り返すと、戦の中にあっては微かに張りつめてばかりであった相好を僅かに崩した。
「さっ。長居は無用だよ」
 風呂敷を持っていた乱藤四郎が絹の様な長い髪を後ろへと払いながら言う。そしてその言葉を合図にするように、隊員たちは帰城の準備を整えた。始終陰に揺蕩い同行していたこんのすけが先導し、彼らはいつものように帰路へと急ぐ。

   +++

 本丸へと帰還した彼らが玄関を上がると、ニッカリ青江がすぐ傍に掛かっていた青銅の鐘を叩いた。これがここでの、彼らが帰って来た合図となる。
 間もなく、廊下の奥からゆらりと人の形になり損ねたらしい異形が姿を現し、蝸牛を連想する動きでこちらへとやって来る。だが、それは退治すべき怪異の類ではなく、審神者がこの本丸での生活面での労働力として使役している式神の内の一体であった。どうやらまともな人型に化けるのは労力がかかるらしく、彼らは必要がなければいつもこうした中途半端な身体で器用且つ機敏に動き回っていたのであった。
 ニッカリ青江は彼に親しげに話し掛け、向こうも馴れ馴れしい言葉遣いでそれに応え、手短に報告を済ませる。今回は急ぎの用はないため、審神者への直接の報告は穢れ祓いのための入浴後となり、風呂敷を受け取った式神とこんのすけだけが先に審神者の下へと向かい、隊員らは刀のために用意されている大浴場へと向かって行った。
「それで、満足はしたのかい?」
 備え付けの露天風呂に並んで浸かり、石に頭を預けながら随分と寛いでいた様子のニッカリ青江は長曽祢虎徹に尋ねた。湯気に混じる彼の声は爽やかな湿り気を帯びていた。
「ああ。鳥羽伏見よりも、やはり池田屋のほうがしっくりくるな。近藤さんを近く感じる気がした」と、長曽祢虎徹も特に何も隠さず、同じく湯気に声を溶かし込む。
「池田屋事件では大活躍するみたいだからね」
「ああ」
 彼は言葉少なくただ肯くと、今回初めて行った戦場である池田屋の様子を噛みしめるように思い描いた。
 池田屋事件は、敵対する時間遡行軍が攻略せんとする要地の一つである。池田屋は、本来は、まだここに来て日の浅い未熟な彼には難しい戦場ではあったのだが、今回は、息巻いた彼が我慢できずに池田屋へ行きたいと訴えたのが発端となり、また、審神者が彼の我儘を受諾したため、赴く事が叶ったのであった。通常、この本丸ではきちんと刀たちが最大限に力を揮えるように考えて組まれた隊で行動し、週毎のローテーションで隊員たちが仲間たちと戦場を駆ける。だが、恒常の隊では変則的な敵に対応できない事もあり、たまに例外的にそれを崩して臨時の隊を設けて戦場に向かう事もある。そうでなくとも、今回の長曽祢虎徹のような例は以前から幾度かありもした。今回は力量不足の虞《おそれ》のある彼のために、他の隊員の構成は徹底して練り込まれていたため、誰も深い傷を負う事もなく、こうして無事に帰って来られたのであった。
「満足するのは大事なことだよ」
 しみじみとニッカリ青江はそう呟き、おもむろに立ち上がった。そしてそのまま浴場を見渡すと、「さ、主の所へ行こうか。付いて来る子たちはおいで」と散らばっていた彼らに声を掛ける。すると跳ね上がるように他の者たちは浴場を飛び出した。長曽祢虎徹も滝が落ちるような音を立ててお湯を滴らせながら腰を上げ、脱衣所へと向かう。

 さっぱりと身を清めた彼らは審神者が待つ執務室へ行くと、今回の戦果報告を済ませた。審神者は先に大まかな事はこんのすけからも聞いていたのだが、実際に戦う彼らが持った概観も重視しているらしく、改めて彼らからの報告も聞くのが常であったのである。
「敵構成も戦闘の具合も、大体いつもと大差なかったよ。何か大きく変化があったという事もなかった。今回一番心配していた検非違使も来なかったよ」
 最後にニッカリ青江はそうまとめると、少し息を吐いた。隊長としての責任もいよいよ解けたというわけである。
「皆さん、お疲れさまでした」と、近侍の燭台切光忠が報告を記し終えると、審神者は頭を下げた。
 それから一同は立ち上がって縁側から庭へと降り立つと、そのままぞろぞろと寝殿造の作庭を基調とした庭を横切り、片隅に鬱蒼と茂る竹林へと入って行く。すると、四角く面取られた石畳を踏み進んだ先、緑の光が青々とした影となって落ちる道を歩いた先に、小さな草庵が見える。玄関と言えるような場所でもない所に靴を揃えて残して畳に上がれば、そのまま半ば縁側めいた小さな部屋を過ぎて次の部屋へと行くことができる。六畳程度の和室は仏間の様相があり、部隊全員と審神者と近侍が入れば、今回は短刀が多いとはいえ、ほとんどすし詰めとなる広さだ。だから身を半分ほどさらに隣室の四畳半に置く者も居た。竹林の中に佇む庵は障子を開け放っても尚薄暗い。採光のための障子と向き合う形にある襖を燭台切光忠が開ければ、奥から二畳ほどの細長い内陣が現れる。ささやかな荘厳の下では質素に佇む仏像がいくつか並び、壁には左右に両界曼荼羅の古い掛け軸が並んでいた。
 すると、その掛け軸が俄かに中央から盛り上がるように突き出す。それは指先からどんどん人の形を作り始め、やがて、黒い衣にそれぞれの曼荼羅の模様のものを袈裟にして身を包んだ、中年の僧のような者が二人、現れた。彼らの代わりに、壁にあった曼荼羅は消えている。否、あの掛け軸が正《まさ》しく彼らに変じたのである。彼らは、廃寺となった天台宗の寺と真言宗の寺とにそれぞれ遺されていたという一幅で、審神者が買い求めた時には既に自ら意思疎通も適うだけの魂も、変化《へんげ》の能力も具えていた付喪神であった。今はこの場所で主と認めたらしい審神者に協力しつつも、成仏の道を探っているという。宗派は互いに遠からぬ仲ながらも互いの印象に関しては双方共に口を堅くはしているが、どうやら彼らきりで草庵を営んでいる時には仏の道を探り合っては舌鋒鋭く語り合っているようである。
 曼荼羅たちは今は日々の勤めも一段落して休んでいたようであったが、それを邪魔された事に何か言う事もなく、真っ先に黙って合掌をすると、仏壇の用意をしたり、審神者から手渡された風呂敷包みを丁重に所定の場所へ置いたりなどをする。そうして彼らが息の合った動きで己のやるべき事を済ませていく中で、他の者たちは静かにその場に座した。
 僧形の彼らは準備を終えると一度室内を振り返り、手短ながらも戦闘から帰ってきた刀たちを穏やかな言葉で労わった。それから最前の審神者とも少し話すと、彼らは再び内陣へと向き直る。今日は真言宗に親しむ金剛界曼荼羅の方が導師を担当をするらしく、間もなく、彼の口から経が零れだす。一同は面を伏し、室内に厳かな空気が漂い始めた。
 この本丸では、斃した敵の刀たちの残骸を持ち帰っては供養する事を常としていた。己で討ち果たしておきながらという矛盾を抱える事にはなるが、審神者は絶対にこれを行う事を譲らず、よほどの事情がなければその遺骸を持ち帰る事を強く刀たちにも言い聞かせていた。この本丸が立ち上がったばかりのころは非常に簡潔な手順で埋葬して手を合わせる程度であったようなのだが、元々長く寺を住まいとしていた曼荼羅の彼らがやって来てからは、随分と形が整っていったのである。

 もう何度も聴いた『般若心経』をぼんやりと耳に捉えながら、長曽祢虎徹は伏せた目の先に畳ではなく、近藤勇の面影を見つめていた。彼はいつもこの時には、真言宗のものだろうと天台宗のものだろうと、昔の主の面影を目前に描いて過ごしていた。もちろん、だからといって、自分が斬ってきた異形に身を堕とした刀たちを顧みないわけではないのだが、こうして過ごせば、あの主の菩提をこの己でも弔う事ができるような気がしていた。唱えられている経が何を言っているのかすらも自分には分からないながらも、ただ自然と、そう意識が向いたのである。以前のあの主はあまり気が長くないらしく、猛る事の多かった男ではあったが、仲間と共に相好を崩して腕白な子の様に笑う顔を思い出せば、その魂の安らかなることをただ発願し、祈った。誇らしげに“長曽祢虎徹”を自慢する、彼の豪気に節くれだった硬い武人の手を思い出せば、胸の内にじんわりと何かが染み入った。
 審神者が代表して線香を燻らせた後に『般若心経』が唱え終わると、僅かな間を挟み、金剛界曼荼羅は真言宗の日常勤行として日々親しんでいるものから『総回向偈』の短い文句を唱えた。
 余韻がこの場に居るものたち全ての骨身にまで響くと、曼荼羅の彼らは振り返る。そしていつものように手短にまた挨拶をするとすっくりと立ち上がり、先頭立って草庵を出て行く。審神者は燭台切光忠から渡された風呂敷を戴き、その後に続く。そしてそれに他の刀たちも続々と続き、一同は庵のぐるりを歩き、石製の素朴な五輪塔が佇む塚の前で立ち止まった。金剛界曼荼羅の方が審神者から風呂敷を受け取ると、胎蔵曼荼羅の方が、五輪塔の前で敷石のように置かれていた方形の石を地面に引き摺る。すると、ぽっかりと黒い穴が姿を現した。それは人の墓の納骨所の様なものであり、穴の底の剥き出しの土には、先に葬られた刀の屑が疎《まば》らに散らばっていた。金剛界曼荼羅は丁寧に風呂敷の固い結び目を解くと、そっと穴へと刀の残骸の僅かな欠片を撒いた。清雨の如き澄んださざめきと共に鉄屑は地の底へ落ちていく。その合間にもいくつかの粒は、憂世から姿を一つ、また一つと消していく。一歩下がり、金剛界曼荼羅が『無量寿経』から「開彼智慧眼」の一節を唱える中、胎蔵曼荼羅がまた石を引き摺り、穴を閉じた。
 合掌の後、場は解散となる。塚から離れると、乱藤四郎や五虎退が真っ先に審神者に近付いた。だが、審神者は両界曼荼羅に呼び止められ、草庵の出入り口で何やら話し込んでいる。過ぎ去り際に長曽祢虎徹が耳を澄ませば、どうやら塚の整備についての話であるらしい。短刀たちが時折、弾む声で口を挟んでいた。

   +++

「それで、どうだったのさ?」
 長曽祢虎徹はそのまま刀たち一振ずつに宛がわれている六畳の個室へと戻ると、改めて己自身となっている器──刀──の具合を確認していた。そうして過ごしていると、風通しの為に開け放しておいた出入り口から、二つの顔が室内へと突っ込まれてこちらを覗いていたのに気が付いた。加州清光と大和守安貞である。彼らはどこか顔色を伺う眼差しを長曽祢虎徹へと向けていた。声を掛けてきたのは加州清光のほうだ。
「ああ。満足したさ」
 スラリと鞘に刀身を納め、床に置いていた刀掛台に己を預けながら、緩い笑顔を彼らへと向けて長曽祢虎徹は答えた。それを聞いて、やはり、二振共がどこか似通った雰囲気の笑みを零す。
「良かった。僕なんて、何度池田屋に行ってもなんだか落ち着かないけど、長曽祢さんは初めてでも平気そうだ。すごいや」
 どこか犬めいた愛らしい態度で大和守安貞は頬を掻く。
「安貞はいい加減、そこに神経を使うの、止めるべきだけどね。目の前の敵に集中しなきゃ」
 どこか猫めいたすまし顔で加州清光は隣の彼へと目をやっている。
 加州清光と大和守安貞は二振とも、以前の主が新選組一番隊隊長・沖田総司であったという共通点がある。そして彼らは新選組隊長・近藤勇の刀であった長曽祢虎徹に対して、沖田総司が近藤勇に対して接していたような気持ちを自然と向けていたのであった。
「別に集中してないわけじゃないよ」
 長曽祢虎徹が居る手前だろう。過剰なほどに慌てて首を振って大和守安貞はそう言い返すと、「むしろ、誉だってたくさんもらっているんだから」と口早ながら、やや誇らしげに言う。
「あの時代の京の空気はやはりいいな。あんな殺伐としたものしか味わえないのはもったいないが……
「言えてる」
 肌身に感じた懐かしさを思い返しながら言う彼に、微笑して加州清光が応えた。長曽祢虎徹は彼を見ながら、ふと、彼こそ池田屋に関しては特別に抱くものがあるだろうに、あっけらかんとしているばかりか、自分を思い遣ってこうしてここに来ているのだとも今更ながら気が付き、内心、驚愕に近い思いを過ぎらせた。思わずその事について話し掛けてしまいそうになったが、慌てて口を噤む。藪を突くようなものにとも邪推したのだ。彼が飄々とした態度であるのであれば、こちらはそれを受け入れれば良いと思い、笑う彼に合わせて笑った。途端に、赤い目と濃紺の目がまた窺うように己を見た気がした。

 その後はとりとめもない会話が続き、来た時と同じように加州清光と大和守安貞は揃って部屋を出て行った。長曽祢虎徹はゆっくりと畳に仰臥すると、木が交差する天井の木目を眺めた。
「どうだったのさ?」
 間もなく、そんな彼の頭上から彼を見下ろす影が落ちた。どうやら今度は庭に面した廻縁へと繋がる障子の方から入って来たらしい。丸い目を興味深そうに輝かせているのは、部屋も間に一つ御手杵を挟んだ近隣の仲でもあり、兄弟仲の様なものでもある浦島虎徹であった。
「みんな気になるんだなア」
 溜め息がちに長曽祢虎徹は呟くと、そっぽを向くように横向きになって頭を腕枕で支えた。浦島虎徹は彼の顔の方へと移動するとしゃがみ込み、尚もくりくりとした目を向けてくる。
「そりゃそうだよ、兄ちゃん。他の戦場とはわけが違うもの。蜂須賀兄ちゃんも、長曽祢兄ちゃんが帰って来るまでソワソワしていたんだよ?」
「へえ」
「あ、俺が言ったの、内緒ね」
 蜂須賀虎徹が絶対に知られたくはなかっただろう事を報せておきながら、浦島虎徹はいたずらっぽい動きで人差し指を己の唇の前にやっている。長曽祢虎徹はそう言われると少し目を丸めてそんな弟を見上げていたが、僅かに笑っただけで何かを言いはしなかった。思っていたよりは心底嫌悪されていないのかもしれないと、内心、僅かに安堵はしていたが。
「やっぱり、前の主が近いのって変な感じなのかな。他の刀には訊きにくいんだよね」
「まあ、少しムズムズするかな」
 常の事とは言え、正直な浦島虎徹に対し、長曽祢虎徹も少し正直に感想を述べた。
「ちょっとだけ見られたりはしたの?」
「いや」
「『今宵の虎徹は血に飢えている』……言った?」
「いや、特に言いどころもなかったが」
と、立て続けに尋ねてくる彼に答えを返していたが、いかにも残念そうに、「池田屋で言わないでいつ言うのさー」と弟が残念がっているのを戸惑いも顕わに見上げると、
「というか、どうしてそれを知っているんだ?」と問うた。
「主さまが前に教えてくれたんだ」と、その質問にあっけらかんと浦島虎徹は答える。「講談か何かの名台詞だから、本人は実際に言ってないだろうけどって。でも、有名なんだってさ」
「まあ、そうなんだが……
 どうやら審神者が何か身振りまでして見せたらしく、それを真似て浦島虎徹も芝居がかった動きをして見せていた。
「俺も言ってみちゃおうかなー」
「蜂須賀に怒られるだけだから止めておけ」
 悪ふざけでも、もしも蜂須賀虎徹がそれを目の当たりにすれば絶句する──だけだと良いのだが──のは火を見るよりも明らかであったので、彼はそれをはっきりと念押しした後に振り子が揺れるような動きで上半身を起こした。それから少し考えた後に、「まあ、それは俺が言い時になったら言ってみるか」と笑った。
「ちゃんと俺にも聞こえるように言ってね」と、同じ部隊の仲間でもあるため、すかさず浦島虎徹は期待の籠った眼差しをする。
「あまり気張ると恥ずかしいだろう」と、長曽祢虎徹のほうは大声で見栄を張る自分の姿を想像して、途端にちょっと気後れが生じ、自然と視線が泳ぐ。
「あっ、そういえば、『御用改めである!』は言ったんだよね?」
「いや、それも……
「えー、なんでさー!」
 自分にあまだ不相応な戦場であるのにも関わらずそんな事まで悠長に言っていたら、とんだ“浮かれポンチ”というやつである。浦島虎徹も本気では言っていないのは態度を見れば分かったため、長曽祢虎徹はハハハとやや乾いた笑い声を出した。
「池田屋って、新選組が出世した戦いなんだよね?」
 間もなく、浦島虎徹はそう問い掛け、長曽祢虎徹は少し考えた後に「まあ、そう言えるな」と肯いた。
「あの時代は……まあ、大抵の時代はそうなのだろうが……、荒れていたものだったからな。不逞浪士が京都を跋扈していた。幕末の京都は勤皇だとか佐幕だとか攘夷だとか、そういったものの中心地の一つだったようだ。まともに思想らしいものを持っていた者がその中にどれほど居たかなどとはよく揶揄されるようだが……。池田屋には尊攘浪士と言われる者たちが集い、会合を開いていた。彼らが今後、京や国政に災禍を齎す危険がある事は確実だった。新選組はそうした不穏分子たちをあの日の夜に殺害した事になる。主曰く、ここで死んだのが名のある尊攘派ばかりで、これが殺気立ってばかりであった長州藩士らの神経を余計逆撫でする事にもなったのだろうという事だ。それに、理知的な彼らが果たして本当によく言われるような危険思想そのものとしか言えないものを企んでいたのかも、実際のところはよく分からないのだとか。……まあ、何が本当は最善だったのかは後からいくらでも考えられるものなのかもしれないが、歴史に“もしも”はないのも付き物なのだとも言っていたな」
 初めてのその戦地に赴く時には詳細に情報が伝えられるのもあり、長曽祢虎徹はその時の話を思い出しながら顎を撫でた。それから密かに、それは近藤勇の最期にも言える事であったのだろうとも改めて思う。──「死人に口なし。歴史を創るのは大抵の場合は勝者なんだよ」と、近藤勇の刀であった者を前に平然と語り聞かせた主の声音が脳裏に過ぎる。──因果応報、転じ転じて物事は連なり、反転し、ある結果が続いていく。そうしたものをぼんやりと理解はするが、だからといって心が晴れるわけではない。だが、煎じ詰めれば結局は、そうしたものがどこかでいつも連続しているのだろう。これまでも、これからも。
 あまり難しい事を考えるのは得意ではないが、彼はただ寂寞《せきばく》とした想いの中、せめて此度の生ではそういう悶絶躄地《もんぜつびゃくじ》の矛先が今生の主を貫かぬ事を願う。戦とはそうなるものだとは知りながらも。
……ともかく、この事件が世間に与えた影響は決して小さくはなかった。だからこそ、遡行軍もそこを突いたのだろうな。例えば、ここで死んだ尊攘浪士が生きていれば、明治維新はもっと早かったのではないかとさえ言われているようだとも聞いたな」
 そうすまし顔でまとめると、浦島虎徹は分かったような分からなかったような顔をする。長曽祢虎徹はしばらく頭を捻ったものの上手く言葉にはまとめられず、観念したように、「細かい事は主にでも聞いてみるんだな。何にせよ、新選組は会津藩の助けも殆ど借りずに独力で敵勢力の首級をいくつも絶ち、名を馳せたというわけだ」と言うのだった。

   +++

 数日後の事である。長曽祢虎徹は或る手伝いに駆り出されていた。というのも、先の両界曼荼羅たちが竹林の藪の一角で日夜天塩にかけて育てている茶葉がいよいよ収穫できる事になったからと、二幅に「誰か茶摘みを手伝ってくれ」と救援を頼んだためである。曰く、茶葉の収穫は時間との闘いであるらしい。何でも、茶と寺院の歴史は深いようであるとは聞いたが、曼荼羅たちの話はいささか理屈っぽく堅苦しいので、長曽祢虎徹は馬の耳に念仏といった具合に聞き流してしまっていた。同じく手隙の刀剣たちは他に何振も駆り出されていたが、歌仙兼定など一部の者たちは、手伝いのお零れを狙っているらしく、自ら進んで名乗り出て来たようである。
「良いですか、このように葉の色が明るい、上のほうに生えている若葉を摘むのですよ。古い葉はお茶には向いていませんからね。こういうふうに採るのですよ」
 己の曼荼羅模様をした派手な甚兵衛を着ている金剛界曼荼羅が厳しい口調で言う。
「新芽の茎の部分に容易く手折れる個所がありますからね。それを目印にするのですよ」
 同じく己の曼荼羅模様の甚兵衛を着た胎蔵界曼荼羅も意気込んだ口調である。
「へーい」と、味のことやら茶葉のことなど半ばどうでも良さそうな気の抜けた返事を同田貫正国が返すが、途端に喝を込めた鋭い二つの視線が彼に向かって光の速さで飛んでいく。
「採るからには美味しく頂く」
「良《よ》いですか」
「初茶で玉露」
「良《よ》いですか」
 普段は物静かな彼らが眼光鋭く口を開くと、同田貫正国もわずかにたじろぎ、「おう……」と声を漏らす。歌仙兼定や鶯丸がしみじみと肯いている。
 それから刀と曼荼羅たちは各々に、普段は野菜の収穫時や台所での調理で使われている笊や籠を配り、そうして彼らは小さな塊になって茶畑の中を散らばった。庵で暮らす傍ら育てているくらいのものなので、広大といえるほどの量があるわけではなかったが、それでもこの庭のあちこちに点在するように在るため、作業は夕刻まで続きそうである。
「野菜も育てているんですね」
 前田藤四郎が隣に居る平野藤四郎へと声を掛けていた。確かに、片隅にごく小規模ながらも野菜畑もあった。本丸内とはいえ、彼らはここで独立した生活を極力営んでいるようである。
「雲水が作務を行うのも修行の一環です。禅宗がそういうものは活発なようですが、衣食住もできるだけ自分たちで事足れりとしたいものですからね。まあ、どれも人間に比べると微々たるもので済みますから、比べてしまえば、さほど苦労はないのですが……。付喪神と言えるようなものになったといえど、多少のエネルギー源は必要なのですよ。中国の仙人と言われる人々は霧を食むだけで十分だと聞きましたが、どうやらそこまでは我らは及ばぬようなのです」
 たまたまこちら側に来ていた金剛界曼荼羅が、先ほどとは打って変わっていつものように穏やかにそれに答えている。
「皆さんには昼食に精進料理を用意しましたよ」
 それから彼がこの場の者たちに今度は朗らかにそう言うと、わーいと短刀たちが歓声を上げた。上背があるため、他の者よりも苦労しそうだと茶の木を見下ろしていた御手杵も似たような歓声を上げている。
 間もなく、雑談をしながら作業する者と、ひたすら無言で目の前の仕事に取り掛かる者とに自然と分かれ、あたりにはさざめくような微かな話し声とプチリプチリと茶葉を摘む僅かな音とが柔らかな風に乗って漂っていた。長曽祢虎徹は、やるとなると真面目な顔をして一意専心に若い葉を摘んでいくほうに属していた。そして、次第にこの作業に慣れてくると、目は確かにそちらを捉えて手は動かしたままでも、なんだか意識は茫《ぼう》としてくる。その感覚は少し、(稽古に似ているな……)。彼はそれに思い至ると、次第に落ち着いた心持を抱きもした。

 やはり夕方ごろに茶摘みは終わった。この頃には、最初はあれだけ楽しそうにしていた歌仙兼定も骨身に堪えた様子で疲労困憊を表情にありありと浮かべており、傍らで胎蔵界曼荼羅が労《ねぎら》いつつも、お礼の茶葉の分け前について改めて確認する言葉を掛けても、何とか返す笑みもぎこちなかった。「茶葉を使った料理もあるらしいぞ」と、そんな歌仙兼定に対してこちらはやけに平気そうな顔をした鶯丸がのんびりとした声で言っている。
 「お疲れさん」と、同田貫正国が過ぎ去り際に親しげに長曽祢虎徹に声を掛けてさっさと竹林を抜けて本丸のほうへと帰って行く。長曽祢虎徹も「おう」と返して彼に続こうと一瞬そちらに足を向けようとはしたものの、その足先をくるりと返し、視界の隅に僅かに映った塚の方へと──端無《はしな》くと言うほどのさり気無い様子で──向けた。
 この本丸は半ば異界と言えるような場所に建てられているらしく、四季や日時の景色もあべこべだ。針が指す時刻はとっくに黄昏時であるのに、空はまだ昼の如く蒼穹の色をしている。柔らかな日差しは竹林を通して緑がかった影を帯びてから塚に落ちている。今日ここに来た時どころか、数日前にこの目の前に来た時と比べても何も変わらぬ様子だ。長曽祢虎徹はまるで初めて見るものであるかのように熟熟《つくづく》と石を積んだだけのようにも見えるこの五輪塔に見入った。この下には、もはや数えきれなくなったほどの無数の刀たちの残骸が眠っている。それらは全てこの本丸の刀たちが斬ってきたものたちであり、幸いにも、未だこの本丸には折れた刀は一振として居ないようだが──。
(俺も、もしかすれば、折れればああなるのだろうか……
 ふと、これまで特に考えもしなかった思いが過る。刀だったという形は最早失せ、穢れを霧へと変じさせたように辺りに漂わせて余韻を残し、後には煤交じりの鉄屑のようになって。その屑は見れば見るほどに、いたずらに砕かれただけのケラ銑《ずく》が放置されてしまったかのようで、何も無い虚しい、(……死骸)。自然に思い浮かんだその形容に、長曽祢虎徹は独り、思わずゾッと身を震わせた。
「いかがされました?」
 急に背後から声が掛かる。早々にいつもの法衣に着替えた僧形の者が佇んでいる。胎蔵界曼荼羅であった。
「いや……
 次に脳裡に過ぎったのは、完全な付喪神である目の前の存在の事であった。両界曼荼羅たちはここに居る刀たちとは違い、魂を別の器に招き降ろした上で顕現しているわけではない。彼らは真に自分の肉体とも言えるものに魂が具わっている者たちであるのだ。きっと、屑の様な残骸になるのかもしれないという独特な惧れなど──(分からぬだろう)──。密かにそう侮《あなど》りの気持ちが生まれてしまう。
「主も人が好いものだと思ってな。このような事をするなど」
 思わずそのように嘯《うそぶ》く。口に出してしまってから、てっきり叱咤されるかと身構えるが、相手は目元の皺深く薄ら微笑んだままだ。
「戊辰戦争の折は──」そして思わぬ言葉が相手の口から飛び出した。思わず機敏に身を震わせるも、尚も相手は笑うままだ。「──会津での激戦の後、会津藩は新政府軍に降伏しました。その後、会津各地に転がる旧政府軍の死者たちの死体は長くそのまま腐るままに放置されていたと云います。彼らを弔うのを、勝者たる新政府軍が許さなかったからなのです。城下の有様は酷いものであったと聞いております」
 ただ戸惑いながら話を聞いている彼に、胎蔵界曼荼羅は、
「私はかつて、あの地からほど近い所に在った寺院の所有物でした。やっとの事で亡骸を弔う事を許されたのは新政府軍側が許した寺のみなのでしたが、私は、寺の僧たちが悲しげに話す言葉を聞きながら、そっと菩提を弔ったものでした。弔いたいと発する己の願いを止める事など、誰にもできませんからね。私が器物であろうとも。いいえ、譬え、私が器物でなかろうとも」
と、寂寞《せきばく》とした想いと愁いとを笑みの裡に過ぎらせる。
「遡行軍に属している刀たちがどのような思想の下で主殿に敵対していたとして、そしてこちらはただ彼らを攘斥《じょうせき》するばかりだとしても、彼らのあのような死体を残して去る事ができましょうか。屹度、放っておけば、徒世《あだしよ》の塵にも成れぬままに自然に消えゆくのかもしれません。ですが、一度《ひとたび》有情《うじょう》で在り得たもののその魂はどうなるのでしょうか。討てば、まるで初めから存在しなかったように無視し、ただ朽ち失せるに任せる。もしも此度の主がそのような人でしかなかったのならば、私は忘恩めいてこの本丸を去っていた事でしょう。さもなければ、こうした姿など見せなかった。今の私には合掌する手も歩む脚もあるのですから。私は、敢えて葛藤を選んでいたからこそ、ここで共に歩むことにしたのです」
 そして胎蔵界曼荼羅は責めるわけでもなく、ただ、ひたと長曽祢虎徹を見つめた。射竦められた様子で、彼は微動だにもできない。
「拙僧がみだりに喋ってみても、薄唇軽言《はくしんけいげん》と言われるものになってしまうだけですね」──間もなく胎蔵界曼荼羅は再び相好を崩すと、「そうそう。新芽は天ぷらにして食べる事もできるのですが、主殿はお食べになられそうでしょうか? ならば、今日の晩にでもさっそくお裾分けに行きたいのですが」と、何事もなかったかのように話題をすり替えた──。長曽祢虎徹はやはり射竦められるばかりである。彼が暗に近藤勇の事も言っていたのだと、分からないわけではなかった。だからこそ敢えて戊辰戦争の話題を持ち出しもしたのだろう。塩漬けにされた近藤勇の首だって、腐れ落ちるに任せて三条河原に曝され続け、果たしてどこへ行ったのかもはっきりとはしない。後日に仲間がこっそりと持ち出して弔ったなどともされているようだが、果たしてそれが本当なのかは、長曽祢虎徹には分かりはしないのだから。
「いや、俺は──」
 なんとか言葉を絞り出すが、語尾は意気阻喪《いきそそう》して消えてゆく。そうして歯痒く沈黙をただ食むばかりになると、胎蔵界曼荼羅は急に笑い声をあげた。
「申し訳ない。私もまだ我慢が足りないようです。些か口が過ぎましたな」
「いや、そんな事はない……」と、また弱弱しく長曽祢虎徹は言い返すと、苛立たしげに頭を掻いた。「俺が軽口を叩いたのが悪い」
 ──(そもそも本当は、俺も折れればああなるのかと……)──。だが、また言葉尻が萎む。ただし、今度は相手に委縮をしたからではない。彼はやっと明確に気が付いた。何か無惨に徒《いたずら》に遺された残骸の様になって、ずたずたに、元の形も失われたものの欠片。そう、そこに見たのは、例えばといったように曖昧に描く己の死の姿だけではない。
「ああ……
 胃の腑から溜め息が乾ききって飛び出すと、不意に頬に何かが伝い、ぼたりぼたりと土に落ちた。慌てて片手で顔を覆うと、濡れた顔の上を手は滑る。
「ああ……
 どうやら自分は泣いているのだと気付き、また声が出た。胎蔵界曼荼羅はただ静かに彼を見つめている。

 彼は、既に分かっていたはずなのに、今更ながら、自分でも理解していたところを超えて、ここに近藤勇を感じていた事に気がついた。否、改めてそれを感じた。幕末の争乱に翻弄され、駆け抜け、そうした者の一人として、前の主は散って逝った。複雑な政治の駆け引きの最中に更なる混迷を招いた王政復古。討幕派の巻き返す最中、新選組は伏見奉行所の警備を任されていた。師走のあの日は、二条城からの帰り路であった。近藤の右肩を憎悪の銃弾が貫く。遡れば丁度一月《ひとつき》前、油小路で近藤率いる新選組が邪魔者となった御陵衛士らを葬ったために。近藤不在の裡《うち》の錦の御旗による反転。続く、混乱の最中の解兵、不和による新選組の解体。江戸の城は既に無血開城と相成ろうとも、半ば見捨てられた彼らの意志は屈さなかった。北へ、北へ。今や賊軍とされた彼らは向かう。運命の下総流山。突然の包囲の時、本陣に残っていたのは偶然故かほんの僅かの者だけであった。近藤は切腹の覚悟を決めるも、土方はそれを引き止め、彼のために奔走を始める。捕囚の身となった彼の正体は伏せられていたものの、それを暴くは二つの影。障子の穴から覗く目と目。彼らは聢《しか》とその目を見開き、哄笑を抑えて告発したのだろう。僅かも聞き漏らされぬようにと声を上げて、「大久保大和改め、近藤勇」と。この二つの影を覆うのは、これもまた御陵衛士であったという。正体分かれば厭悪《えんお》に曝され、会津の土方が知る由もなく、彼の首は血潮を散らす。塩漬けの首は不気味に永らえさせられながら、懐かしい京の河原に晒首《さらしくび》。時は慶応四年四月二十五日。鼠黐《ねずみもち》にぽつりぽつりと丸く白い蕾が膨れ始め、紅花は未だ栄えず、而して靡草《びそう》は死にゆく中で苦菜《にがな》の黄色い花は咲く。菸萎《おい》によって河辺で見るも無残に形を失ってゆくのは、彼の首であったのだろう。
「俺はここで手を合わせる時、実は、いつも近藤さんの事を想っていた」
 ぽつりと零すも、胎蔵界曼荼羅はやはり真っすぐに見つめ返すばかりだ。
「先ほどはああは言ったが、別に、俺も自分が屠った敵を無視しているわけじゃない。ただ……
 うまく言葉にまとめられず、再び言葉尻が小さくなりなりながら、彼は親指で押し拭うように目元のものを払った。
「なぜかいつもそうだった。だから俺はいつも、そういうものなのだと思っていた。ただ、あの人も安らかであれと思ったのだと……
 足元の素朴な塚を見る。名も知らぬ、顔も、どんな刀であったのかも既に分からぬ、ただ雲霞《うんか》の如き群れでしか想像できぬ敵たち。彼らの暗い眼差しにはいつも、自分たちに深い憎しみと覆りようのないまでの敵意がある事ばかりが思い出される。
「近藤さんの首も屹度、顔など殆ど崩れてしまっていたのだろう。……その首も、どうやらどこへ消えたのかははっきりとはしないらしいが」
 顔を上げれば、まだ胎蔵界曼荼羅は彼を見透かしてしまいそうなほどに見つめていた。また言葉に詰まり、長曽祢虎徹は戸惑った。どうやら怒っているわけではないようだが、つるりとした頭のために曝け出された相手の顔はしかし、どうにも本心が見えにくい。
「俺の方こそ口が過ぎた。とにかく、主のやっている事に何か文句があったわけではないんだ。それだけは弁明させてほしい。……ああ、それと、主はなんでも食べるから、天ぷらにしたものも喜ぶのではないだろうか」
 口早にそう言って軽く一礼した後、長曽祢虎徹は足早に胎蔵界曼荼羅の脇を過ぎた。庵のぐるりを廻って去ろうとするも、背後から声が追う。
「良かったら、あなたの前の主の命日の時にでもまたここにおいでください」と。
穏やかな声音に振り返ると、七福神の何者かの様に笑む顔があった。「その時は、あなたの前の主の菩提を拙僧も共に弔えます」
……思えば、同じ場所に在りながら、私はあなたたちと込み入った話をする事もありませんでした。よろしければ、思い出話でもお聞かせくださいな」
 胎蔵界曼荼羅はそう言いながら、僅かに七福神の貌《かお》を少しずつ翳らせていった。長曽祢虎徹は彼の発言にいちいち驚き、目を瞬かせ、
……ああ」
と、頷くしかできない。胎蔵界曼荼羅はそんな彼の顔をもう一度まともに見つめると、ゆるりと微笑した。
「本当は少し羨ましいのです、あなた方のことが。私は結局のところ、かつては誰か個人の持ち物ではなく寺全体の所有物として在り、私そのものではなく私を通して仏の世界を見られるばかりでしたから。きっとあなたとは真逆の生を過ごしていたのだと思います。仏の世界に深く添い遂げられておきながらもそう思うなど、これは我儘なのでしょうけれど……
 竹林の影が風に揺れて互いの身の上に忙しなく落ち、斑《まだら》の模様を絶えず変え続けている。彼らは互いに見つめ合った後、どちらともなく一礼をし、長曽祢虎徹は背を向けた。「俺もだ」と、恥の想いを笹のさざめきに微かに乗せながら。

 審神者の顔が見たくなったので、わざと、その姿があるであろう部屋がある方へと向かう。多分、まだ執務室に居るはずだった。さらさらと心地よく浅い小川沿いに歩けば、開けた場所に静寂を讃え煌めく大きな池の庭へと繋がる。池を彩る唐橋まで見えるほどに近付けば、そこに泳ぐ鯉の姿も見ることができる。そのまま建物沿いに歩けば間もなく、審神者の居住域に辿り着く。
「おや、もしかして、まだ庵のほうに居たのかい?」
 長曽祢虎徹が姿を見せると、真っ先に出迎えたのは歌仙兼定であった。彼は茶摘みの後に真っすぐこちらへ立ち寄り、そのまま居ついていたらしい。先ほどの内番姿のままで縁側に腰かけている。
「ああ」
 言葉少なく肯くと、長曽祢虎徹は室内へと目をやる。縁側にほど近い所に近侍の燭台切光忠が居り、さらに奥には審神者が、肘置きに殆ど体をそのまま頽《もた》れさせる様なだらしのない格好をして、床に広げた本を前にしていた。こんのすけはいつものように素知らぬ顔でそこらへんで横になっている。縁側にいくつか人数分以上の湯飲みがあるのを見るに、自分が来る前に他の刀たちもしばらくここに居たようである。
「お疲れさま」と、長曽祢虎徹を見上げて燭台切光忠と審神者が声を揃えた。
「おう」と彼も応えると、相変わらずたるみきったままの恰好を直さぬ審神者を慣れた様子で改めて見つめ、「先ほど、胎蔵界曼荼羅が、今日採った茶葉で天ぷらを作るから、それを分けて持って来ると言っていた」と、取り敢えずそれを伝えておく。審神者は天ぷらにできるのを知らなかったのか、「天ぷら?」と不思議そうな顔をするが、歌仙兼定のほうは喜びを口元に隠さず、どうやらここにまだまだ居座り続けるのを決意した様子だ。「楽しみだね」と、こちらもにこやかなのは燭台切光忠だ。
 味の想像をしようとしているのか、変な臭いを嗅いだ時の猫の様な顔をして空を見つめている審神者に、長曽祢虎徹は「そういえば……」と声を掛ける。
「俺は仏教というものがよく分からないのだが、胎蔵界とはどういうものなんだ?」
 審神者はそう言われるとまたしばらくその顔のまま、「うーん」と考えていたが、間もなく気難しい顔を庭に立つ長曽祢虎徹へと向けた。その間に燭台切光忠は、手際よく用意した長曽祢虎徹のための茶を彼が手に取りやすい場所に置く。
「胎蔵界と金剛界はセットなんだよ」と、審神者は左右の人差し指をそれぞれ立てて見せたかと思うと、その二本をくっつけて見せた。「密教ではね。だから、二つ揃ったら“両界曼荼羅”って言うの。
 うちに居るのは、胎蔵界曼荼羅さんが真言宗に、それで金剛界曼荼羅さんが天台宗に元々あったものなんだけど、どっちも密教っていうところではまあ、大本は同じなの。ややこしいけど──他の宗教でも大抵そうなんだけど──、仏教って、いくつも枝分かれしててね。まあ、それでも、似ている点は多いというか。
 ……まあ、それは置いといて。
 別名で大悲胎蔵生《だいひたいぞうしょう》とも言う胎蔵界のほうは大日如来の理《ことわり》の面を表わし、金剛界の方は大日如来を智徳の面を表わすとされているんだって。大日如来っていうのは、密教の中心本尊で重要視されていて、太陽神に起源をもっていたり宇宙そのものを表す、なんかすごい仏さまなんだよ。
 金剛界の言う智徳っていうのは、要は煩悩を打ち払う力のこと。というか、智徳が金剛の様に堅固な事を言うんだろうね。
 金剛界のほうはこういうふうに説明もし易いんだけれど、胎蔵界のほうは少しややこしくってね。胎児が母胎の中で育っていく不思議を譬えにして、大日如来の菩提心はあらゆるものを包み込んで育むんですよーみたいな、そういうふうによくまとめられていたかな」
「ぼだいしん?」すぐさま長曽祢虎徹は問うた。
「これもまた意味が宗派によって違ってくるみたいだけど、一般的には悟りをしようと努める心のことを云うんだよ。仏教には、大乗仏教っていう分類もあって、ここに小分類として密教も含まれたりする。つまり、真言宗も、特に天台宗のほうなんかはそうなんだけれど、さらに小分類したらこの分類の中に入るんだよね。
 それで、この大乗仏教の云う意味だと、菩提心とは、悟りをしようと努める心に、プラス、世の人を救おうとする心も表すというふうにもなるんだよ。
 さらに細かく分けて、密教の場合は、悟りそのものと見る考えもあるみたい。
 まあ、大体そういうふうに説明されるだけで、そう簡単な話ではないと思うけどね……。そういえば、仏心そのものも表してなかったっけ?」と、審神者も返事はしたが自信なく歌仙兼定や燭台切光忠らを見るが、彼らも肩を竦めるばかりである。それで、「何にせよ、胎蔵界のほうはそうして人々の悟りを促そうとするものなのかな。金剛界は堅くて、胎蔵界は柔らかいイメージを私は持っているのだけれど……」と、覚束なく続ける。
 分かったような分からないような気がする中、長曽祢虎徹は腕を組み、「柔らかいイメージねえ……」と呟く。
「それにしても、何か気になることでも?」
 微妙な沈黙が生まれると、燭台切光忠が声を掛けた。
「いや、そういうことではないのだが……。少し、胎蔵界曼荼羅と話していたら気になっただけだ。そもそも胎蔵界とは何なのだろうなと……
 長曽祢虎徹は首を振りながら、(まあ、俺がこうした話に興味を持つのは珍しいのだろう)と思うと、我が事ながら少し可笑しくも感じた。そうしてから、先ほど竹藪で聞いた彼の言葉を思い出す──「本当は少し羨ましいのです」──「私そのものではなく私を通して仏の世界を見られるばかりでした」──。まっとうな付喪神である彼が発した寂寥《せきりょう》の籠もった告白。多分それは、(……それは、俺は虎徹であることという前提を通して褒められ続けてきたとはいえ、きっと俺とは違う)と、今でも鮮明に思い出される近藤勇の四角張った笑顔が過る。そして、少し草臥れて退色しながらも、極彩色の派手な色使いの中に描かれた胎蔵界の無数の仏たちをも。あの胎蔵界曼荼羅は胎蔵界そのものではないのだなと、なんとも頭がこんがらがってくるが簡潔なその答えを今更見出す。
 そうして、(会津か)と、彼の居たという場所を思う。そこは、近藤勇が辿り着けなかった会津藩の拠点でありながらも、土方歳三が彼のために作ったとされる墓があるという場所。一説には、失われた首はそこに埋まっているとは云うが……
 再び審神者を見れば、過去の主とは真逆とも言えよう雰囲気が改めて見て取れる。常ならば、いかなる時代の戦時下にあっても、戦禍の中心で采配を握るような立場にはならなかったであろう安穏さ。例えかつての武家の男子として生まれたとて、武士《もののふ》として生きるくらいならば仏門に下っていただろう程に血の匂いもまるでしない。(いや、確か、僧になったといっても、全くそういったものと縁が切れるわけでもないのだったか)と、以前に審神者自身から教えられた事を思い出す。だがそれでも、何かしら遠い所に居るのだろうとも思い直す。
 新選組の屯所は、壬生寺や西本願寺など、寺と縁深い所に在りもした。いつも遠巻きに壬生狼《みぶろ》と人々から呼ばれていた隊士らを見る僧たちの眼差しは、大抵の場合、好意的とは言えなかったが。審神者がそのような顔をして自分を見ているのは、幸いにも想像できない。だが、だからこそであろうか。武人めいたところもなく、僧のようでも、大衆めいたところもない。良くも悪くも中庸で、ぼんやりと微笑む。故に前へ前へとただ我武者羅に突き進むだけの生の力強さは無く、有為転変の世にふとした瞬間には溶けて去りそうな危うさばかりが目立つように見えてしまうのだ。
 相反の間《あわい》に佇む審神者が黙して語らず手を合わせる姿を思い浮かべる。この目の前の人間は、ただ勝者らしい蹂躙を行わず、そもそも行えもしない。それが本丸を担う将として見た場合に良いものなのかは彼には判断できない。だがしかし、少なくとも彼自身は、それでも良いのだと思った。

 挨拶を済ませ、長曽祢虎徹は執務室から遠ざかった。庭を歩き続ければ、間もなく、彼の足元を、散歩中であるらしい五虎退の虎たち数匹がじゃれついてくる。「もうすぐ夕餉だぞ」と声を掛ければ、分かっているのかいないのか、それでもトコトコと大きな彼の歩幅の後に続いた。
 彼は、自室の縁側から上がって部屋を過ぎ、いつも食事を取っている大広間へと向かおうと思っていたのだが、虎たちを窺い見てその予定を変更すると、玄関のほうへと曲がる。案の定、虎たちのために置かれていた足拭き場の上を、虎たちは軽やかなステップをした程度で通り過ぎようとしていた。そのため、彼は、抱きかかえたり足で絡むようにしながら虎たち捕獲すると、しっかりと土汚れを拭いてやった。そうして放してやれば、虎たちは親切に応える態度も見せずにさっさと奥へと駆けていく。フッと笑い、長曽祢虎徹もゆらりと上がり框へと足を乗せた。
「長曽祢さん、今終わったの?」
 大広間へと近付くと、途中、どうやら同じく大広間へと向かっているらしい加州清光と蜻蛉切とに出会った。今日は二振は馬小屋の当番をしていたため、どうやらその帰りでもあるらしい。
「ああ、確か、茶摘みをしていたのだったか」
 加州清光が声を掛けていると、蜻蛉切も穏やかにそう言った。
「ああ。そっちは馬の世話か」
「うん。最近入ったばっかりのやつが手強くてさあ。気性が荒いというか、プライドってやつが高いんだよね」
 ほとほと疲れた様子で加州清光は言う。それからしげしげと長曽祢虎徹を見つめると、「茶摘みってそんなに楽しいものなの? 機嫌良さそうだけど」と尋ねた。
「機嫌良く見えるのか?」と、長曽祢虎徹も唖然と問い返す。
「そう見えるな」蜻蛉切も肯いた。
「まあ、普段使わない頭を使ってばかりだった気はするが……
「茶摘みでェ?」
 素っ頓狂な声を上げて蜻蛉切と顔を見合わせる加州清光に、秘密事を抱えた子の様に長曽祢虎徹は笑い掛けた。
「さて、今日の夕餉は何が出るかな」
 そして歩き出した長曽祢虎徹の後を、加州清光と蜻蛉切が追う。長曽祢虎徹は歩いたまま、加州清光を振り返った。
「夕餉の後に部屋に遊びに行っても良いか?」
「へ? なんで?」
 歩を止めずにぽかんと加州清光は突然の申し出に戸惑う。
「話してみたい事があるだけさ」と、長曽祢虎徹はそんな彼に軽く答えた。
「なんか改まって言われると気持ち悪いなあ。いつも勝手に来るじゃん」加州清光は怪訝に言うと、「まあ、いいけどさ」と呟くように頷いたのだった。

(了)


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