@toasdm
俺だって電車くらい乗りますよ、と北斗さんはウィンクしながら言う。ブリムの広いダークブラウンの中折れハットとセルフレームの伊達眼鏡でわずかばかりの変装をして、私からすれば随分と大胆な行動に見える。見る人が見ればJupiterの伊集院北斗だ、と一発でバレてしまいそうなものなのに、この人込みの電車の中では上手に紛れ込めているのだろう。ラッシュアワーを避けた少し早めの電車の中で、おはようございます、と声をかけてきた北斗さんはドアの近くの壁際で、私に手を上げて挨拶をしてくれた。
「次の駅、結構人が乗ってきますよね」
「そうですね、ターミナル駅ですから」
こちら側に立ちますか?と少し身を寄せてくれた北斗さんのお言葉に甘えようとした時、電車は急カーブに差し掛かる。ガタンと重力の方向が変わってバランスを崩しかけた私は、思わず壁に手をついてなんとか体勢を維持した、の、だけど……。
「わ、すみませ、っ!」
「おっと……女性に、壁ドンをされるとは、思いませんでした」
それはあまりにも自然過ぎて、あまりにも刺激的過ぎた。北斗さんの肩の上あたりで自分の体重を支えている手、ほんの少し背中に人の圧力がかかって、押された体。驚いたような顔をしながらも、北斗さんは少し、嬉しそうだ。今退けます、と慌てる私の腰に手をまわして、今動いちゃだめですよ、と笑う北斗さんの顔を、私は見上げることすら出来ない。壁についた手も離すとよりいっそう密着してしまいそうで、カーブが落ち着くまでの間、私はずっと北斗さんを壁に押し付けた姿勢を維持しなければならなくなって、しまった。
「はは、壁ドンしてる側がそんな風に照れているっていうのも、新鮮でいいですよ」
「や、う、あ、あの」
無駄にドキドキするようなことを、やたらドキドキさせるような言い方で、すごくドキドキするような声で言わないで欲しい。俯く私の腰を支えてくれる北斗さんの手は、いやらしくなくて優しくて、落ち着くけれど。こ、この状況に、あとどれくらい私は、耐えたら、いいのだろうか。
ふ、と傾きが元に戻って、電車はゆっくりと減速し始める。そろそろ次の駅だ。開くドアは反対側で、ほっ、と胸をなでおろして私は北斗さんを壁ドン状態から解放する。
「この先もまだカーブがありますから」
「え、うわっ!?」
くる、と視界が回って、瞬きをしている間に私の背中に触れる電車の壁。背の高い北斗さんが私の頭上の壁に肘から先をついて、今度は、あの……。
「今度は、普通の壁ドンになっちゃいましたね」
くすっ、と笑う北斗さんに見下ろされて、今多分私すごく顔が赤いはずだ。熱い、耳まで熱い気がする。
「人がたくさん乗ってきますから、この方が安全ですよ」
「あ、あ、あの」
「それとも」
軋むブレーキ、電車はホームで停止する。開くドアにご注意ください、のアナウンス、人いきれ、足音、ざわめき。雑多な音と気配の交じり合う朝の電車の中、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた人々の中で、北斗さんは笑って言う。
「俺がボディガードじゃ、不安です?」
あなたを誰にも触らせたくないんです、と少し真剣な眼差しで言われて、壁ドンで、とびきりのスマイルで。熱くなる顔と高鳴る鼓動、世界に北斗さんと私の二人しかいないような、そんな錯覚の中で、私はゆるゆると首を振った。不安感なんて、どこにもない。
「よかったです」
少し触れてしまいますが、と壁についた腕に力を入れても押し潰されるような人々の圧力に押されて、触れ合う体。服越しに感じる北斗さんのしっかりとした体つきにさえ、私はドキドキしすぎて呼吸もうまくできなくなる気がする。
「役得、かな」
くっついた体、耳元で、そんな風に笑う北斗さんの声を聞きながら、私はボディガードに心臓を狙われているんじゃないか、なんてことを考えながら残りの時間をやり過ごした。いつもと同じ電車はいつもよりもゆっくりと、目的地に向かっているような気がした。