「よし、頑張ったお前さんにはほれ、こいつをやろう」
ドラマの仕事で小児科医の役を演じる事になった雨彦さんとPさんの、少し不思議なお話です。
@toasdm
ふぅ、とため息をついて葛之葉さんは、誰もいない待合室の長椅子に腰掛ける。お疲れ様です、と声をかけた私に手を挙げてそれに応えて、お前さんもな、と笑う顔にはまだ少しだけ、緊張感が残っている。白衣の胸ポケットから聴診器を取り出してそれを脇のミニテーブルに置き、葛之葉さんはその長い足を前に伸ばして座ったまま伸びをしている。
「順調ですね」
「お陰さんでな」
次のドラマのお仕事は医療系、小児救急救命医の役柄を演じる事になった葛之葉さんは二話だけの出演ながらもその役割は、ドラマ全体のストーリーの中でかなり、大事な部分を担う事になっている。俺には荷が重くないかい?なんて謙遜していた癖に、いざ撮影となるとまるで別人のように柔和な笑顔で主人公の側で道を指し示す小児科医の役割を演じきっていた。聞けば、同じ事務所の元外科医のアイドルに、詳しく話を聞かせてもらっていたらしい。用意周到、実に葛之葉さんらしい。
「どうだい、お前さんからみて俺は、立派なお医者様に見えたかい?」
「はい、格好良かったですよ」
そうかい、と笑う葛之葉さんはようやく緊張感の抜けた、いつもの葛之葉さんに戻った。実際の病院の一角で行われている撮影は、今日で葛之葉さんの出番はひとまず終わる。お疲れ様でした、ともう一度声をかけて、私は葛之葉さんの熱演を労った。
「特に、最後のシーンの緊迫感は凄かったです。子供の命より重いものがあってたまるか!って台詞、私の中では助演男優賞受賞ものでしたよ」
「ああ、あの台詞には、俺の全てを込めさせてもらったからな。届いていたなら嬉しいぜ」
いつも優しくてどこか抜けていて、でも誰よりも情け深くて温かみのある葛之葉さん演じる小児科医が、悩む主人公の目の前で倒れた男の子に救命措置を取りながら叫んだあの台詞に、側で見守っていた私まで胸が熱くなった。俺にも子供がいたらもっと、違ったのかもしれないがな、と笑う葛之葉さんの後ろに、気がつけばパジャマ姿の男の子がべそをかきながら立っていた。
「せんせい、だれ?」
「ん?」
少し汚れたウサギのぬいぐるみを抱いた男の子は、見た感じ五歳くらいだろうか?ドラマの出演者ではないところをみると、もしかしかたらこの病院の入院患者で、迷子になったかウロウロしているだけかもしれない。白衣を着ている葛之葉さんが先生に見えたのか、少し驚いたような顔の男の子は、みたことない、と物珍しそうにじっと葛之葉さんを見ている。
「なんだ、お前さん迷子になったのかい?」
ふるふると首を振る男の子はぬいぐるみを抱きしめて、おさんぽ、と言う。そうかい散歩かい、と葛之葉さんは立ち上がって、男の子の前にしゃがみ込んでから、そっと頭を撫でている。
「泣きながら散歩するヤツがあるかい?」
「でも、もう、注射やだ」
こんな小さな男の子が、ドラマの中じゃなくて本当に、実際に病気と闘っているんだという現実に、私は胸が苦しくなる。葛之葉さんはそのまま、さっきまでのドラマの役のように柔和に笑って、よしよし、と男の子を撫でてから、優しく語りかけ始めた。
「よし、頑張ったお前さんにはほれ、こいつをやろう」
さっきまで聴診器の収まっていた胸ポケットを漁って、葛之葉さんは小さな折り紙のウサギを取り出して男の子の手に持たせてやっている。途端に泣き止んでぱぁっ、と笑顔になった男の子の頭をもう一度撫でてから葛之葉さんは立ち上がる。
「せんせい、ありがとう」
「ああ、迷わずいけるかい?」
「うん!」
ニコニコと満面の笑みを浮かべて、男の子はスタスタと歩き去る。その後ろ姿を見送る葛之葉さんは、ふっ、と息を吐いてさっきよりも幾分疲れた顔でまた、長椅子にどかっと腰を下ろした。
「ふふふ、やっぱり本当の子供からみても、いい先生なんですね」
「ん……ああ、そうだろうな」
「葛之葉さん……?」
少しだけ虚ろな目で私を見上げる葛之葉さんの額にはうっすらと脂汗が浮いている。何か、おかしい、と気付いた私はふと、男の子が去っていった廊下を見てみる。
「音」
掠れた声で葛之葉さんは、音、と言った。音?音がどうかしたのか、とさっきの一連のやりとりを思い出してから、それに気付いて私は背筋がゾッとした。まさか。そんな。
「お前さん、あの子の足音を聞いたかい?」
「いいえ、あの、葛之葉さん」
少し疲れた、と強く手を引かれて私は無理矢理、葛之葉さんの隣に座らせられる。ちょっと、と言うよりも早く、葛之葉さんは私の膝に頭を預けてごろりとそこに寝転んだ。額に浮いた汗を手の甲で拭ってそのまま、目を閉じてもう一度、疲れた、と葛之葉さんは本当に、疲れた様子でぽつりと漏らした。
「迷わず、いけたならいいんだがな…………」
急に寒くなった気がする、病院の待合室。病院なんてのは昔から、不思議なとこなのさ、と呟いたのを最後に、葛之葉さんはすうすうと、寝息を立て始めた。
迷わず、いけたなら――…。疲れた様子の葛之葉さんの頭を優しく撫でながら、私もそんな風に、願わずにはいられなかった。