@toasdm
梅雨時の天気は変わりやすくて敵わない、と、背の高い濡れ鼠が事務所のドアを開けて飛び込んできたのは午後三時過ぎの事だ。高い背丈に比例して長い脚、ブーツもつなぎもぐっしょりと濡れて、面積の広い分滴る水もそれなりに多く、雨彦の立つ床には小規模な水溜りすらできていた。着替えはあるかい、と声をかけられたプロデューサーは、ロッカーからTシャツとスウェットのハーフパンツを取り出してすぐ、風邪を引きますよ、と笑いながら雨彦に手渡して、それからハッと、彼を見上げた。
「……葛之葉さん、前髪下ろすと、若々しい印象になるんですね」
「お前さん失礼だな?」
水溜りの主は苦笑しながらそれを受け取り、ずぶ濡れでまだ雫の滴る髪の毛をざっとかきあげて、いつものように後ろへと流した。普段オールバックの雨彦だが、風呂に入ったりこうして雨に濡れたりすると、その髪型を保つ事は難しい。ワックスも取れちまった、と後ろへ流した髪を諦めて、持っていたハンドタオルでがしがしと、雫だけでもと拭き取る雨彦は確かに、彼女の言う通り、髪を下ろすと五歳ほど、若い印象に見えなくもない。小さなハンドタオル程度では拭いきれない程、しとどに濡れた髪の毛は雫こそ垂れてはこないものの、目にかかる長さの前髪を後ろへ撫で付けたところでまた、すぐにだらりと横へ逃げる。
「あ、中分けにするとビジネスマンっぽいですね」
「ん? ビジネスマンならこうじゃないのかい?」
ニッ、と悪戯を思いついたように笑い、雨彦は小指の爪を立ててこめかみの傍から後ろへとなぞり、そこで髪を左右へと撫で付け、どうだい?と彼女の方へと身を屈めた。
「七三リーマン、なんてな」
「ここまで似合わないといっそ哀れですね」
「お前さん失礼過ぎやしないか?」
哀れとは随分じゃないか、と笑う雨彦と、だって本当に似合わない、と爆笑するプロデューサー。イメージチェンジは失敗か、と二人は雨の悪戯にひとしきり腹を抱えて笑った。
「お前さんだって、髪をほどけばそれなりに、印象だって変わるんじゃないのか?」
まだくすくすと笑いの残る雨彦は右手で前髪をがしがしと乱して、それからその手を、彼女がいつもゆるくサイドで束ねているシュシュへと伸ばした。うわ、と驚いて彼女が身構えるよりも早く、雨彦はそれをスッと引き抜いて毛束をふわりと彼女の細い肩に広げた。
「……あの」
「…………結構、変わるもんなんだな」
きょとん、とした彼女と、いつの間にか笑いの消えた雨彦が、無言のまま、雨音を遠くに聞いて見つめ合っていたのは、どのくらいだろうか。返してください、と彼女が雨彦に奪われたシュシュへと手を伸ばしても、雨彦はまだ、彼女を見つめたままぼぅ、っと、身動ぎすらせず立ち尽くしている。そんな、あんまり変わらないですよね?と髪を結わえ直しながら聞けども、ああ、そうだな、と生返事を返すばかりの雨彦の頬に、垂れた前髪から落ちた雫がぽつり、と水滴をつけて、つう、と伝って顎から落ちて、床の水溜りをぴちょ、と跳ねさせて、そこでようやく雨彦は、はっ、と我に返った。
「……タオル、借りるぜ」
「あ、どうぞ」
今のは、なんだったんだろうか?まじまじと見つめて、妙に真剣な顔つきで、そんなに珍しかっただろうか?給湯室へと逃げ込んだ雨彦の横顔と耳が、ほんの少し赤かったことも気にかかる。彼女はデスクに戻り、雨彦はタオルを首にかけてすっかり着替えて事務所に戻り、そこでまた、沈黙。
細く柔らかな雨の音、キーボードを叩く音、コチコチと規則正しく時を刻む壁掛け時計の音。それ以外は、二人分の静かな呼吸の音だけが響く事務所から、さて、と立ち上がった雨彦が、濡れた服を乾かしてくる、と飛び出して行ったのは、午後四時過ぎの事だった。
「……髪を下ろすと案外、俺好みの印象だったんだな、お前さん……」
閉まったドアにもたれて、額に手を当てて天を仰いだ雨彦の独り言は、事務所の中で仕事に没頭している彼女には、聞こえる由もなかった。