@toasdm
ただいまの声に乗っかった疲れとだるさが、外の気温の高さを物語る。お疲れ様です、と立ち上がり、彼女は給湯室の冷蔵庫へと向かった。真昼の事務所が無人になることはそこまで珍しくはないが、今日に限ってはありがたかった。少なくとも、彼にとっては。
「お疲れ様です、薫さん」
はいどうぞ、と冷えた濡れタオルを差し出して、彼女は薫から眼鏡を受け取る。助かる、と受け取ったタオルの冷たい感触で、薫は顔を包んではぁ、とため息をついた。
「死んだつもりはなかったが」
ざっと拭った顔、額にタオルを押し当てたままソファに転がると、薫は心底安心しきったような表情で彼女を見上げて手を伸ばす。
「冷えたタオルで生き返った気分だ」
「よかった、きっと暑くて溶けて帰ってくるんじゃないかと思って、冷やしておいたんです」
正解でしたね、と差し出されたその手に預かっていた眼鏡を彼女が戻すと、薫はそれを受け取ってすぐ、彼女の手首をぐっと掴んだ。うわ、と悲鳴を上げてバランスを崩した彼女の腰にするりと手をまわし、薫は彼女の体を引き寄せた。
「か、薫さん、薫さんちょっと」
「……眼鏡がかけられないな」
邪魔なら退きますから、と身を引こうとする彼女の腰をしっかりと抱え込んで、薫は彼女に眼鏡を差し出す。君がかけてくれ、といつもと変わらない口調、いつもどおりの表情で言ってのける薫を押し倒すようにしてのしかかった彼女は、混乱する頭を深呼吸で元に戻そうとするが、薫が何を言っているのか少し、理解が及ばない。
「こ、えっ、あの、こう……?」
「……んっ!?」
そして何を思ったのか、おずおずと身を起こした彼女はあろうことか、薫の眼鏡をそのまま、自分でかけはじめる始末だ。クラクラします、と情けない声を上げて目をしぱしぱとさせながらふらつく彼女を見上げて、薫はたまらずふきだして笑う。
「うわ、薫さん無茶苦茶笑ってませんか?!」
「…………別に」
肩ぷるぷるしてますよ、と眼鏡を外して抗議する彼女から眼鏡を取り上げて、薫はそれを自分でかける。みれば真っ赤になった彼女が自分を見下ろしていて、その照れ方にまた笑いがこみ上げてきた薫の様子に、ますます彼女は赤を強くする。
「僕の言い方が悪かった……っくくく」
「絶対悪かったなんて思ってないですよね!?」
少しだけ汗の引いた額に、艶やかでさらりとした薫の前髪が張り付いている。そういえば外は暑かったはずだ、と思い出した彼女は腹立ち紛れに薫の体に、自分の体をぴったりと重ねた。案の定、笑いながらも少しだけ不機嫌そうな薫が声を上げる。
「やめろ、外は暑かったんだぞ」
「笑ったから仕返しです」
にやりと笑う彼女の表情にしかし、薫は不敵に笑って返す。
「暑いのは僕だけじゃないと思うが?」
「……う」
気付いた彼女が慌てて体を離そうとしたが、一歩遅かった。薫さん離して、と喚く彼女の背中にしっかりと回された薫の腕は、華奢な彼のイメージを裏切るようにきちんと男性らしく力強く、彼女が抵抗したところで甘い拘束は解かれる気配などまるでない。
「薫さんだって暑いでしょう……?」
うぅぅ、と半ば泣き出しそうな声音で降参の姿勢をとる彼女を抱きしめたまま、薫は暑さを吐息で吐き出した。
「暑い、融けるようだ」
「だったら」
離して、と言いかけた唇をいきなり塞いで、薫は彼女を抱きかかえたままキスをする。驚いた彼女が目を見開いたまま硬直しているのをいい事に、薫はにまりと口元を歪めて、彼女の耳元で囁いた。
「……どうせなら君も巻き添えだ」
僕と一緒に融けてくれ、と笑う薫の額に浮いた汗が、つぅ、と流れてソファに水滴をつける。せめてエアコンの温度を下げさせてください、と叫ぶ彼女をいやだと拘束したまま薫は、汗と熱気で曇り始めた眼鏡を片手ではずして、脇のテーブルにそっと置いた。
真夏のせいにして、君と融けてしまうのもいいかもしれない、と思ったことを口には出さずにそっとしまいこんで、薫は慌てる彼女が落ち着くまでずっと、汗を流しながら抱きしめていた。