@toasdm
嫌なことは数えても減らないぜ、と書類の束の向こう側で葛之葉さんが眼鏡を外して伸びをする。そんなことはわかっているし、それでも仕事は減らないもので、憂鬱な気持ちは溜め息に乗って零れて落ちて床の上にたんまりと、積もっているような気すらする。終わったんですか、と目線はモニタと書類とを行き来しながら声だけで聞いてみれば、こいつでいいかい、とチェック作業を頼んだ書類の束がまた、どさっと山積みになる。溜め息がまた落ちて、足元に溜まる。
「お前さん、さっきからため息ばかりじゃないか」
「そうですかね」
疲れてるんですよ、と適当に流しながらまた先方の不備を見つけて嫌気がさす。仕事なんだからしっかりやってほしい、と苛立ちがキーを叩く指を乱暴に動かして、今は時計の針がコチコチと鳴るのすらうるさい。自分のミスならまだ仕方がないと諦めもつくというのに、そうではないものに関しては許容量を越えると泣き出したくなってしまう。
みてられないな、と優しい声に振り向いたのは確か、一時間ほど前だっただろうか。残務処理に追われて泣き出しそうになっていた私の後ろに、レッスンを終えて後は帰るだけのはずの葛之葉さんが立っていた。お前さん、酷い顔だぜ、とわかりきっていることを言われて、多分とても不機嫌な声で適当な返事をしたと思う。寄越しな、手伝えるものくらいあるだろう、と向かいのデスクに座って眼鏡をかけた葛之葉さんに、アイドルに雑用なんてさせられませんと一度突っぱねたはずなのに、気がつけばチェック作業をお願いしていた。
黙々と書類と格闘して、問題ないものは左に、修正が必要なものは右に、とてきぱきと振り分けていく姿はアイドルというよりも頼れる上司みたいな雰囲気で、ちょっとだけ見惚れたけれども、ん?とこちらを見上げる視線に一瞬どきりと鼓動が跳ねて、すぐに私は仕事に逃げた。アイドルだから当然なんだけど、すごく格好良かった。そんな目で見たことなんて一度もないのに、なぜか、あの一瞬だけ、私は葛之葉さんを、そんな風に――…頼りがいのある男の人、なんて、思ってしまった。
「後どのくらいだい?」
「そうですね……あとはこの山を確認したら、今日はもう帰ろうかと」
指した山にはまだ八束残っている。ひとつの束に大体三十分と考えて、あと四時間。日付なんて変わってしまう。そんな計算をしてまたついた溜め息を指摘しながら、葛之葉さんは書類の束の向こう側で言った。
「嫌なことは数えても減らないぜ、お前さん」
「終わったんですか」
「こいつでいいかい」
山にまた八束追加されて、もう、泣き出しそうになる気持ちが胸を刺す。
「お前さん、さっきからため息ばかりじゃないか」
「そうですかね……疲れて、るん……っですよ」
「おいおい」
眼鏡を外して立ち上がった葛之葉さんが、慌てて私の席に向かって歩いてくる。こないでほしい、どうがんばったってこんな酷い顔、書類の山でも隠せない。ぽろぽろと涙を零す私の後ろに、ふわっと優しい気配と温もり。弱い心が顔を出して、気がつけば抱きしめられた腕に縋るようにして、私はデスクに突っ伏していた。
「泣くほど疲れてるんだったら、帰った方がいい」
「っでも」
「明日はまた来る、誰の上にも平等にな。急ぎじゃないんだろう」
「……ぐすっ、週末、までには……」
「お前さんが悪いわけじゃない」
優しくゆったりと語りかけてくる口調だけが、私の不手際じゃないと認めてくれている気がして、溢れて止まらなくなる涙が足元に溜まった疲れや不安や苛立ちを混ぜた溜め息の残りカスを洗い流していくような気がする。
「好きなだけ泣けばいい、落ち着いたらお前さんを送っていこう」
「うぅっ……アイドルに、そんなこと」
「アイドルだからさ」
優しいのに、その一言だけは力強くて、私はふっと顔をあげた。振り向けば、真摯な瞳が私をじっと見つめていて、葛之葉さんはもう一度、同じ事を言う。
「アイドルだから、疲れた人を癒すんだぜ」
お前さんだって例外じゃないさ、と微笑む顔は確かに、少し癒されるような気がするし、勇気付けられるような気もした。もう少しがんばってみます、と気を取り直した私からすっと離れて、葛之葉さんはコーヒーでいいかい、と給湯室へと向かう。恐らくは、メイク直しの時間をさり気なく作ってくれているんだろう。泣き腫らした酷い顔を映すコンパクトのミラーの中の私は、その気遣いにふっと笑って、力の抜けた顔をしている。砂糖は必要かい?の声に、私はある種の確信を持った。
きっと、私はこの人に惹かれている。