「使わない知識ってさ、どんどん忘れてっちゃうんだよね、頭から抜けちゃうの」
不快指数が高すぎて次郎ちゃんの髪の毛まとめちゃうPさんと、教師っぽいこと言う次郎ちゃんのお話です。
@toasdm
じっとりと肌にまとわりつくような重たい湿気に辟易として、私は腹立ち紛れに次郎さんの髪の毛を弄んだ。
「ちょちょちょちょ、何してんのぉ?!」
「不快指数が高いので」
「あー気温も湿度も高いからねぇ、0.81Td+0.01H(0.99Td-14.3)+46.3」
「……?」
私に髪をいじくられながら次郎さんは脇にあった眼鏡をわざわざかけて、ニッと笑ってメモに走り書きを始めた。
「Tdが気温、湿度がH、えーと? 気温が28度で湿度がー…たはー86パーもあるのぉ?」
壁掛けの温度計をちらっとみて、そりゃ蒸し暑いわー、と公式をすらすら解いて、紙の端に80.5と書いて大きな丸で囲って次郎さんはそれをトントンと突く。
「不快指数80超えてんじゃしょーがないよねぇ、洗濯物も乾かないし」
はぁーと溜め息をついて次郎さんは、洗濯物の心配をし始める。メモに躍る文字は雑だけれどもどこか温かみがあって、ああ、次郎さんらしい字だな、と私はそれをまじまじと見つめた。
「そういえば次郎さんって、元教師でしたもんね……」
「んー、そうだねえ、腐っても元教師、なんてねぇ」
くるりとペンを回して、次郎さんは公式を指して言う。
「不快指数ってのは、温度と湿度で求められんの。空気中の飽和水蒸気量ってのは気温によってだいたい決まっちゃってるからねぇ、キャパ超えちゃうと汗が蒸発する余裕なくなっちゃって、気持ち悪ぅーくなっちゃうのよ」
「ほ、飽和水蒸気量……」
遥か昔の記憶を手繰り寄せながら、そういえばそんなことを習ったような、習ってないような。
「そ、飽和水蒸気量。高校じゃなくて、中学の学習指導要領だったかな、確か」
飽和水蒸気量とか学習指導要領とか、次から次へと次郎さんの口から、先生っぽい言葉がぽんぽん出てきて、私は目を回す。目を回しながらも次郎さんの前髪をポンパドールにまとめて、私はそれをピンで固定した。
「できました」
「……ねえ、おじさん鏡見るの怖い」
可愛くなっちゃってない?とこちらを振り向いた次郎さんの前髪、おでこ、困ったような笑い顔。思わず吹きだした私に、次郎さんは少しだけ頬を赤くして、やめてよー、と文句を垂れている。鏡見てくるわー、と立ち上がって洗面所に向かった次郎さんの温もりを残したソファにまんまと滑り込んで、私はメモに残された公式を、改めて見つめた。
「……こんなの習ったっけ?」
洗面所から、あー、とも、わー、ともつかないような微妙な緩い叫び声がして、次郎さんが戻ってくる。ポンパドールを崩さないでいてくれるところが優しいというか、なんというか。
「ねえ次郎さん」
これ、とメモを掲げて私は次郎さんに確認してみる。
「私、多分これ習ってないです」
「えー、義務教育修了してるんだったら、習ってると思うけどねぇ」
プロデューサーちゃん忘れちゃったの?と私の背後に回りこんで、次郎さんは私を後ろからぎゅっと抱きしめる。不快指数が高いっていうのにどうしてくっつくんだろう、と文句のひとつでも言ってやろうかと思ったのに、後ろから伸びてきた手がメモをピッと取り上げて解説を始めるから、言い出せない。
「使わない知識ってさ、どんどん忘れてっちゃうんだよね、頭から抜けちゃうの」
「あー、それはなんとなく」
わかります、と頷く私の肩に顎を乗せたまま、次郎さんは少しくたびれたように笑って言った。
「俺もいつか、教師としての俺を忘れちゃうのかなぁ、なんて思ったりしたんだけどねぇ」
どこか寂しそうなその口調に胸の奥がキュッとなって、私は思わず振り向いた。振り向きざまに唇が、次郎さんの唇にゆるりと奪われて重なって、離れる。
「たまにこうやって、日常に滑り込んでくるからさ、忘れるヒマなんてなさそうなんだよねぇ」
たはは、と笑う次郎さんのほんの少しの切なさを残して、メモはテーブルに舞い戻る。
「プロデューサーちゃんもさ、もうおじさんの日常だから」
ぎゅっと抱きしめられているのに、包まれている感覚よりも、甘えて縋られている感覚の方が強い気がする。
「たとえ何があったって、絶対忘れっこないんだわ」
「……ふふ、そうかもしれませんね」
縋るように抱きついてきたその腕にそっと自分の手を重ねて、よしよしと撫でて私はほぅと溜め息をついた。
「次郎さん」
「んー?」
「……暑いです」
「手厳しいねぇ」
笑いながら離れた次郎さんを振り向いてみたけれど、いつもと変わらないゆるい笑顔のままで私を見つめていた。なんだかんだ言っていたけれどきっと、次郎さんは。教師としての次郎さんも、気に入っていたんじゃないかな、と思えばこその愛しさがこみ上げてきて、私はまた次郎さんの髪を弄りだす。可愛いのは勘弁してよ、と情けない声をあげる次郎さんが、今はただただ、愛おしかった。