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炎のレユアン 6

全体公開 12920文字
2018-07-08 00:47:54

長くなりすぎだよね・・・。わかる・・・。

砂はいつもさらさらと漂っている。風に巻き上げられ、ゆらゆらと揺れながら静かにささやいている。いつものように川と天を見上げ、そのままどこまでも視界を広げようとして、彼は動きを止めた。
いつも穏やかに見守ることだけが目的だった。大切な人が守る大切なものを、大切にしたいと泣いた。ぐずるような声に、頭をなでながら許しを与えられた。だからただ、神がもらっていったものの代わりに、その心に報いるために眺めているだけだったのだ。
なのに、今はただ、何かを探している。
こんなことをするべきではないと、彼は動きを止めた。ただ眺めるだけでないのなら、こんなことはすべきではない。
どうしたの、と風が撫でて問う。
いつものように見たらいいと星が騒いだ。
兄の目がないのだから、好きなようにしたらいいのに、と川が流れていった。
別に、兄の目がないからどこまでも見るわけではない、と彼は口の先をとがらせる。
兄を守護する陽がない時間、いつもどことなく気になるのだ。兄の目が閉じてしまうとき、何かがあるのではないかと。
絶対的な王である兄の休息の間に、兄の大切な国で何かが起きるのではないかと。
すこし不安になるだけなのだ。
だからいつも代わりに眺めていた。
兄の国を害するものは許せない。兄の大切なものがたくさんある。
それを守りたかった。
神が地上にあることを許した花のように。
ただ、見守っていることが愛だと断ずる白い花のごとく。
予兆を誰より早く知りたいだけ。
いいじゃない、と砂が躍った。それでいいのだと彼を肯定する砂の声がする。
夜の帳は悪の神がほほ笑むのを許す。月の光の陰で、こそこそと笑いあう。その彼にまで届く笑い声を聞き咎めてしまうから、彼は眺めずにはいられないのだ。
その声が、ただ彼には許せないから。
昼はあらゆるものを拒絶することで愛し、夜は許諾で愛す。神は夜になればすべてを許すのだ。
でも、それが彼には耐えられない。
だからいやだと駄々をこねた。いいじゃないかとすべてを許す声に、遠い昔、声を上げて泣いた。
そんなことを、きっと神はお許しにはならないと、彼は知っていた。すべてを許す神は、ただ我らには神と同じく平等であれと強いるのだから、不平等であれと泣いた声など届かないはずだった。
けれどそれは、大切なものを守りたいという、祈りに近く。
ただ、この先の行く末、幾数世の繁栄を願う、と。
叫んだ声を、拾うものがいた。
『あぁ、こどもの声が、』
声がする、とそれは永い眠りから覚めたように。
ぼんやりとした声で、彼を呼んだ。
永らく音が聞くことがなかったとでも言いたげに。
『詠え、さあ、その声を』
もっとよく聞かせておくれと請う。
そしていとも簡単に抱き上げられた。
ああ、なんて小さくて軽く。
お前は、なんて美しい。
と、そう言って。
どこまでも眺めたらいい、とそれは彼の望みすら許した。
だからただ、彼は隅々まで眺めていればよかったのだ。
なのに。
『わう』
と、鳴く声が懐かしくて。
それはどこだと探してしまう。
そんなことは、間違っていると彼は思った。
国のために夢の中で視るだけ。
それだけだったはずなのに。
『まチヶっ手ナい』
聞き取りにくい静かなささやき声が、今日もリヒトールを起こした。
ゆるりと水の底から意識を救い上げられる。なんて言ったの、と聞き返せば、聞きなれた声が、笑いながらもう一度口を動かした。
『マチガッテナイ』
うそです、とその言葉に反論した。
だってあなたは、その執着を不平等だというのでしょう、という問いかけは、届かないようだった。体に意識が宿り、離れていたような神経が接続される。かちりと意識が戻った体はひどく重たいような気がした。
少しの肌寒さにぶるりと身を震わせ、そばにあるはずのぬくもりを求めて手を伸ばす。
「スルザ・・・」
寒い、と腕を伸ばして、寝床をとんとん、と叩く。姿が見当たらない、と目に力を籠めて、少しだけ体を上げた。きょろきょろと見まわすと、部屋のどこにもその気配はなかった。
「スルザ、」
もう一度名前を呼んで、リヒトールはようやくぼんやりとした意識で、もうぬくもりはいないのだと思い出した。
スルザと過ごした時間は決して長くはない。
けれどそばで寝ることが当たり前のようになっていた。そう思えるほどに、短い時間ではなかった。寝床のそばで丸くなる獣がいるだけで、布をかぶらなくても平気だったほどだ。
リヒトールは壁際に寄るように寝ていた自分の体から力を抜き、ぼすん、と寝床の中央に横になる。
わん、と鳴く獣がいなくなってから、すでに五日が経とうとしていた。まだ自分の獣は戻ってこないのか、と寝床の上でごろんと転げる。
上を向いた拍子にぱさりと長い髪が顔にかかった。それすらどうにもしたいなどとは思わず、見えない目で天井を眺めた。
本来ならまだ早いが、きちんと起き上がって身なりを整えるべきだ。だが、起き上がる気力が少しだけ足りない。
前はこんなことはなかった。あの獣は人の気配に敏感で、リヒトールが起きると大抵目を覚まして起きだしてしまう。だからすぐに動き出した犬に合わせてリヒトールもすぐに身だしなみを整えていた。
だが、今日はことさらそれが億劫で、動く気が起きない。
(せっかく、きちんと働いてますのに)
兄がスルザに行け、と命じてから、すでに五日。
スルザには三日で戻って来いと命じていたが、犬だ。そもそも人の言葉がわかるわけがないし、従うわけがない。
スルザに命じた張本人である兄は、スルザがいなくなった直後、こわごわとした様子だった。なぜそんなにおっかなびっくりなのか、と思っていたが、兄はリヒトールが何かするのではないかとかなり気をもんでいたようだ。
その様子にさすがにリヒトールも呆れを隠さなかった。いくら何でもそれは自分を子ども扱いしすぎだろうと思う。
リヒトールは一族の教育係を担う神官で、聞き分けのない子供ではない。一応仕事もする大人なのだ。兄にはどれだけ自分が子供に見えているのだ、と思うとちょっとへこんだ。
確かにスルザに執着を見せすぎたかもしれない。
だが、きちんと神の教えは守るに決まっている。何といっても神官で、子供たちの手本にならねばならぬのだから。
スルザと神を天秤にかけられずとも知っている。
手放せねばならないのなら、いつだってなんだって手放すべきなのだ。
そうあれと神が望み、リヒトールたちはゆえに神に愛されているのだから。
リヒトールは力を持っていないから、まあ例外的であるといえるが、そうはいっても一族の血が流れる身だ。神が望むありようから外れるわけがない。
だから兄の心配はすべて杞憂なのだ。
まあ、スルザが出る前に心配でちょっとしたまじないをしてしまったが、それもどこのだれかわからないものに、二日目あたりに破壊されている。こうなっては、あとは全力で夢の中で居場所を特定するぐらいしかスルザのことはわからない。
だが、戻ってこないということは、そういうことだ。ただその事実がスルザの気持ちを表現している。こちらから無理に手を伸ばしては、怖がりなあの獣を傷つけてしまうかもしれない。
手を放すべきであると兄に言われたうえ、あの獣が戻ってこないのなら、無理に手を伸ばすべきではない。あの獣にとってここは、結局のところ居心地のいい場所ではなかったということなのだから。
(それは、そうですよね。こんな目の見えぬ人間に飼われているなど)
居心地よくできなかったのは、ひとえにリヒトールの力不足だ。
あの犬は、リヒトールが盲目ということをよく理解していた。それによく付き合ってくれたし、あの獣なりにかなり配慮をしていた。
リヒトールが歩いているときは常にそばで歩いてくれた。何か障害物があれば、服のすそを噛んで引っ張り、リヒトールに教えたりもしていた。頭が非常に良い犬だった。
そういうことを考えれば、面倒さというのもあの犬にはあっただろう。
申し訳ないことをしてしまった、という思いはある。
あの犬は少々頭が良すぎた。それによく付き合ってくれたが、付き合わせてしまったという思いも否めない。
(でも・・・・せっかく、いい理由でしたのに)
同時に兄に対する非難もないわけではなかった。
兄は余計なことをした、とリヒトールは思う。
見ない自分には、あきらかなものが見えない。だから何かを明らかにするならばそれなりに考えた手段を使うべきなのだ。
きっと、問えば、あらゆることは、リヒトールにすべてを教えてくれるのだろう。知りたいと一言こぼしたなら、何となくでも叶うのだろう。少しだけ運が良いので、多分そうなるということも彼にはわかる。だが、それはまぐれであって、単なる運の良さだ。毎度そううまくゆくと思うのは思い上がりが過ぎる。
仮に知りえたとしても、彼自身の力ではない。だからリヒトールは考えていた。そうするほか、物事を見通せないからだ。
ここは、神殿で、リヒトールは神官で、ここは、王の妃を管理する場所だ。女の思惑すら把握せねばならぬのがリヒトールの『仕事』だ。
わかりやすくもないもないものを明確にできる理由。
それが本当にちょうどよくいた、スルザであった。
金色の目をした少女と同じ犬。
あの傷だらけの少女を思い出さないわけではない。でも、そばにあの犬がいたらそんなことさえ思い出さずに済んでいた。
とはいえ、ファーティクルスですら離すべきだと判断したのなら、それは仕方がないことだ。仕方がないと、反射的に思えはした。しみこまれた立場とありようは簡単に揺らぐものではない。
リヒトールは、確かにスルザをそばに置きたかった。
自分からねだった初めてのことだ。
でも、リヒトールは等しくあれと望む神に仕えるものだった。そんな自分だけが、特別なものを作っていいわけがない。
(ああ、あのぬくもりが恋しい・・・)
寒いなあ、と思いながら、横を向く。
執着心を見せすぎたのがよくなかったのだろうかと、わずかに後悔はある。執着心はあえて見せていた節があるが、それにしてもやりすぎたのだろうかと考えてしまう。
最初は、ちょうどよいと思っていたはずだ。
ただ、初めてみた美しい黄金色が刻み付けられてから、気をそらすようにスルザと過ごした。その日々が、思いのほか穏やかだったのだ。スルザは頭がいいし、合いの手もうまい。話しかければ何かしらの反応を返してくれるあの犬に、かまうのが楽しくなかったといわれれば嘘にはなる。
だから、兄にスルザを手放せ、と言われたときは、リヒトールは自分が思うよりもショックだった。
反射的に、いやだ、と思うほどに。
これは。
これは自分のなのに。
と思ってしまったこともリヒトールにとっては衝撃的だった。スルザはものではない。ましてやリヒトールのものですらない。
けれど、人を嫌うあの犬が、リヒトールにはいやいやながらもそばにいるから。
自分は大丈夫なのだろうとそんな気にはなっていた。
スルザにとっては、リヒトールが特別のような。
そんな気になっていた。
ファーティクルスにも、神官が執着を見せていると話題になりすぎたから、いったん手元から離すべきだ、と冷静に言われてしまった。そういわれてしまえば、仕方がないとおもうはずだった。
いつもなら。
実際、そうなのか、仕方がないとは思ったのだ。
だというのに。
相反する思いが同時に湧いて出た。
ファーティクルスの言葉すら、いやだとリヒトールは思ってしまった。
『あんたの考えてることはわかるサ。でもネエ、お前の人気はあいつを支えてるからネエ』
兄は厳しく言ったつもりだろう。
そしてファーティクルスからも、同じように言われたのだと思っているに違いない。
『ここらが潮時だろうサ。犬がいなくなったら、部屋に引きこもるのが妥当だろうけどネエ・・・お前は市井では人気がありすぎる』
ファーティクルスからは、なだめるような、すべてを理解している言葉でたしなめられただけだった。
いやだと思いながらも、リヒトールは強い言葉ではなく、冷静な言葉に逆らえなかった。姉は正しく神に仕える最高権力者であり、最強の砦だ。守るためにはどんなことも全力を尽くす太陽のごとききらめきを持っている。だからそのファーティクルスの言葉を受け入れるべきだということは、リヒトールも重々承知していた。
現在、民の支持は王と神殿で二分されている。神殿が王を支持するから、神殿の信者も王を支持する。半分より大多数が、神をまつる神殿に心を寄せていることを考えれば、王の治世に神殿のサポートはなくてはならないものだった。
王が王たるためには、神殿の信仰者からの人気が不可欠だ。代々、そうして神殿は国王を支えてきた。
そういった事情から、王も神殿を軽くは見ない。だからこそ、一族の中から王が出るのは当然と言えた。一族はその目で王を支え、さらにさまざまなことを予見することで、王と民から信頼を得ている。
予見は、力の延長として稀に授かる能力の一つだった。現在の王であるシュドカヘメトはその力を持っていた。それは眼の力の強いものが得る能力の延長だ。
兄と並ぶほどの力のあるのがファーティクルスで、現在の巫女長だ。
だが、現在の神殿の最高責任者であるファーティクルスに予知の力はなかった。リヒトールは目の力がない代わりに、予見するために夢で見る力がある。だからこそ神官という立場にいるというのもあった。
リヒトールはその予見の力で市井からの人気を集めていた。王の弟という立場で、その予見で国の安定を図っている、という事実が、そのまま兄の支持につながっている。
だから兄の言うことも、ファーティクルスが言うことも、リヒトールだってわかる。
けれど。
それでもリヒトールは、あの犬がたまらなく恋しい。
(口に出したら最後のような気はしますが)
いっそ探し出してしまいたい、と思うことも多い。
でもそんなことに力を使うのは間違っているはずだ。リヒトールの力は兄と国の安定のために使うべきなのだ。
(・・・起きましょう・・・)
横になっていても落ち込むだけだと上半身を持ち上げた。  
姉からは部屋に引きこもってはいてはどうかと進言されている。だが、それではどうかと思って、リヒトールは神に対する儀式だけは欠かさないようにしていた。
手をついて、体を持ち上げたところで。
『リヒトール』
名前を呼ばれた気がして、顔を上げた。
それは、目に力を込めるまでもなかった。ただ淡く光って、色のない世界で輝いて手を伸ばしている。
『こっちへおいで』
歌ってとねだるようなささやき声だった。ああ、きっとそれは今の苦悩を解決するすべなのだろう。リヒトールは半ば無意識にうなずきかけ。

「陛下」

冷ややかで気だるそうな声に、動きを止めた。
いつの間にか伸ばしていた腕はぴたりと動きを止める。目に力を込めるまでもなく、白い影はおやおや、といたずらした子供を許すようにつぶやいた。その声の主に対して面白そうな反応を見せたが、すぐに姿を消してしまった。
リヒトールは小さく息を吐き、声の主に苦言を呈した。
「私は、王ではないと何度も言っているでしょう、セフル」
いいえ、と硬い声がリヒトールの声を否定した。
「あなたはあの方が愛したお方。なれば私には、ただあなた様だけが王であり、我らの陛下です」
このやり取りも何度目かわからなかった。だが、この男ははるか昔からこうなので、もはやあいさつのようなやり取りだ。
リヒトールは起き上がって、おはようございます、と挨拶をした。
「おはようございます。土くれめにあいさつなど恐れ多い。今日は祈りの刻には出られますか?」
自らを土くれと称した男は、そういいながら水を陶器に入れて渡してきた。リヒトールはこの男の動きだけは見えぬ目でも何となくわかる。
「もっとも、あの方からすでに挨拶があったようですが」
そのような言葉に、リヒトールは水を受け取りながら肩を落とした。
「・・・シェカールチー。あまり他言はしないでください」
陶器に口をつけて、こくりと水を飲む。ひんやりとした水が、のどを伝っていった。ひりひりとさえしそうな水が伝っていく感触に、リヒトールは体が冷えてしまったように感じた。
「セフルで結構でございます、陛下。私は唯一、あの方から作られた身。愛を覚えてしまった壊れた機械ですので」
壊れた機械に、創造主が与えた名など名乗れません、と断言する男に、リヒトールは頭を抱えた。
「・・・毎度毎度、あなたは何千年前の話をすれば気が済むのです」
さあ、いつでしょうなあ、と笑い交じりにつぶやく声に、若干楽しんでいるのだろうと思うリヒトールである。
セフルは最初のシェカールチーだった。
彼だけは神に直接作られた人形である。
足りない部分は自分たちの一族から与えられ、与えたものに、幾星霜の忠誠を誓った。
彼は誰よりも人間らしい。それでいながら、ひとではなかった。
唯一の、神に作られし機械だった。
はじめはただ、リヒトールたちの祖先を神が守るために作った防壁だった。土から作られた彼は、自動で動くだけの人形にすぎなかった。その人形に、赤い眼と、愛を与えたのは一族の少女であるといわれている。
今よりもはるか昔。
まだ、誰にでも神なるものが見えていた時代。
リヒトールだけでなく、誰もが見えていた時代があった。神話はおとぎ話ではなく、ただの事実でしかなかったときがあったと原初のシェカールチーは言う。
リヒトールはセフルに愛を与えた彼女によく似ている。というのが長生きをしているセフルの言葉だった。
だからこそであるというのか。
彼は生まれた当初からリヒトールの世話係だ。目が見えないリヒトールでも、セフルのことだけは動きがわかる。それは、セフルが神の力に近いからだろうと、彼自身がリヒトールを分析していた。
今は神が眠ることが多くなり、セフルの声を聴かないと言っていた。作ったものの声さえ聞かないほどの深い眠りだというのに、リヒトールの声はよく聞き、そちらへと招くことを、セフルは『愛されている』と断言した。
そしてそんなリヒトールこそ、王であると、このシェカールチーは言い切るのだ。
「・・・あなたは、自分を作った神が恋しくならないのですか」
ふと、戻ってこない獣を思い出してリヒトールがつぶやく。
陶器の入れ物をセフルに差し出しながら言うと、そうですねえ、と思案するように、セフルは器をつかんだ。
「私は生まれたのではないですから。作られたというのは作られたというだけであり、それ以上でも以下でもありません。請うて地上にありたいと願う白い花ですらなく、私はかくあれと言われたものです」
あなたたちを守るようにと、とセフルは優しい声でそれを言う。
「あなた方を守り抜くべき壁であれば、私はよかったのです。それが私の定められたありかたでした」
ですが、と幼い子供に聞かせるように、彼は目を伏せた。
「私は愛されたし、あなた方を愛せずにはいられなかった」
きっとそれが計算間違いなのでしょう、と笑い交じりに人形は言う。
「そしてかの方を、恋しくならない理由でしょう」
とうに壊れ果てております、と静かに言う言葉に、寂しさはない。
けれど、リヒトールはその言葉にちくちくとした痛みを感じた。
思い起こすのはやはり、傷だらけの獣のことだ。
あの獣はシェカールチーではない。まして、リヒトールは愛を注いだわけではなかった。はずだ、と思う。ただ、意外と怖がりな獣を、大丈夫だとなだめてやりたかっただけなのだ。
だが、セフルの言う通りで逆説的に考えるならば、あの獣を恋しいと考えるリヒトールはあれに『愛された』のだろう。そしておそらくリヒトールも、愛したといえるのだろう。
(・・・いえ、ただ、私はやさしくしたくて・・・)
リヒトールは愛されている。
それはたくさんのものから祝福され、優しくされてきた。自分が向けられてきたものを、リヒトールは家族にも向けた。家族を愛しているし、大切に思っている。
家族に向ける愛に、不平等はない。みな大切で、皆愛している。
だからこそ、あの獣に向けるものは、どこか違うような気がした。
ただ会いたいと、戻ってくればいいのに、と何かを強要するような思いを家族には抱いたことがない。優しくしたいだけならば、会えぬ間にこんなにも思いを砕いたりしなかったはずだった。
少なくとも、家族に対してこのように思ったことはない。
リヒトールはそのことを苦々しく思ってしまった。
どこか、受け入れがたい現実に気づいてしまったようだった。それは自分さえ知らなかったような感情が、自分の中にあるという気味の悪さにも似ていた。
リヒトールはみんなにただそれでいいと頭撫でられてきた。
だが、あの獣はどうだろう。
触れるだけで体をこわばらせて震える。早くその手がどいてくれと怯えていた。あの獣は意図せずとも、人間の手は自分を傷つけるものだと信じて疑わない。
傷だらけの体は、ただの傷ではなく。
それだけ、血を流して、痛んだ証だ。
セフルが壊れているというのなら、きっとあの獣も壊れているとリヒトールは思う。
あれだけ痛めつけられて、触れるものはすべて自分を攻撃すると体に染みついているのに、それでもあの獣はただリヒトールのそばにいてくれた。きっと人間は恐ろしかったろう。それでもなでることを許して、あれだけ人に傷つけられ、壊されてもなお、あの獣は。
柔らかな部分を、リヒトールに見せたのだろう。
(・・・会いたい)
戻ってきてほしい、と願った。
いけないことだけれど、それを願わずにはいられなかった。
「・・・あの、セフル」
はい、と穏やかな声の男に、リヒトールは顔を覆った。自分の欲望はいけないものだ。等しくあれと請う神に反する。
それでも、子供のように願う心は止められず。
「・・・お願いが、あるのですが・・・」
「私に願うまでもなく、命じればよいのでは?シェカールチーどころか、大地さえ力を貸すでしょう」
神に反することに、シェカールチーも大地も使えるはずがない。そんなことのためにといわれてしまうような小さな願いだ。それも、許されるものでもない。
困惑と迷いを乗せた言葉を続けようとした、その瞬間だった。
かん、かんかんと甲高い鐘の音が鳴った。
その瞬間、リヒトールもセフルも言葉を止めた。セフルは窓を閉め、わずかばかり開けた隙間から、外をうかがう。
「・・・おやおや」
あきれたような口調だったが、そこに緊張が含まれていた。軽い口調になる時こそ心底困り果てていると知っているリヒトールに、焦りが募る。だが、穏やかにあれと求められ続けたおかげで何ら声音を変えることはなかった。
鐘の音は、敵が攻めてきた合図だった。山からか海からか、どこからかはわからないが、敵がこの国に侵入しているのは間違いがない。
リヒトールはどういうことです、と状況の説明を静かに求めた。まずはきちんと状況の把握をせねばならない。
ジワリと広がる己の愚かさは、見ないふりをした。
「正門に賊がおります。数は数え切れません」
「えっ!?」
リヒトールもこの時ばかりはその言葉を疑い、思わず声を上げた。
「申し訳ございません。ですが、陛下はお心を乱されぬよう。我らですら気づけなかった、私ですら。おそらく大地を渡っておりません。突然現れたのです」
長い付き合いのセフルはリヒトールの心を見透かしたようにそう言った。
ちらりとこちらをうかがうような視線を感じたが、リヒトールは小さく息を吐いただけにとどめた。
(・・・私が見ていれば、というのは傲慢でしょう)
たたた、と駆けてくる素足の音がした。いくつかの足跡に、リヒトールは立ち上がった。
「セフル、数が見えないほどですか」
はい、と答える声に、リヒトールは心の中でごめんなさい、と兄に謝った。
まるで反射のように、幼いころそうであったように。
(ごめんなさい・・・)
リヒトールは王になりたくなどなかった。出来損ないよりは力のある兄のほうが向いているとリヒトールは思っていた。今でも、リヒトールが暮らす国での王は永遠に兄だ。
リヒトールたちは、誰一人、戦いも殺し合いも好む人間ではない。一族はみな平和を願っている。兄ですらそうであった。なのに、兄は玉座に座った瞬間、その持ちうる力をすべて使って、国を愛して守った。
戦うことも、厭わず。
何をするにも、心を乱されることをなく。
穏やかでおおらかな王であり続け、国をそうあれとした。
「リヒトール様!」「リヒトール様」「御子様」「へいか」
何人かが入ってくるのが分かった。そこにはシェカールチーもいた。呼び名と声でそれを把握したリヒトールは、いつものように微笑んだ。
「ナレン、子供たちは分散させて地下へ向かわせなさい。姉上、巫女様もつれてゆくのです。シャーナグ、妃たちは部屋のカギを閉めて出ないように命じなさい。良いですか、従わないものは力を使いなさい。・・・カーラ、残るという一族のものは、シェカールチーをつけなさい。敵の手にわたる場合は、殺すように」
穏やかではあるが、乱れぬわけではない。ただ、それらを自覚してはいけないだけのことだ。自覚して、それに浸ってはならなかった。水面のように波紋を落とさずにいることが、一族には課されている。
それでも揺れそうになる心があった。見えないリヒトールでは、どのぐらいの敵の数がいて、どのくらいの勝率なのかもわからない。
これからのことを思えば、静かにしてはいても、いつものように心は凪いではくれなかった。
どうしても捨てきれない思いがある。抱えてはいけないことだが、願っていることがあった。
(会いたかった)
ちらりと焦げ付く思いを捨て置き、リヒトールは淡々と命令を下した。
「シェカールチー、お前たちの母と大地を穢すものです。お前たちの仕えるものを間違えてはいけません、わかりますね。神の御心に沿うのです。裏切った同胞は、赤い眼はいりません、皆、殺してしまいなさい」
返事をするより先にシェカールチーが動いたのが分かった。セフルはその場に残り、リヒトールの下す命令を待っている。
それぞれが震えたような声でうなずいた。そして出て行ってしまえば、リヒトールはひとり残されたようだった。
セフルがそばにいるのが分かる。それでも、リヒトールのそばに、ただこの状況でも寄り添ってくれる獣はいなかった。
あの獣がここにいたら逃げ出してしまうだろうか。それとも怖さゆえに、唸り声をあげるのだろうか、とリヒトールは歩き出した。
「陛下」
ばたばたと人が行き来する廊下を、ただ屋上向かって歩く。後をついてくるセフルに、お前は好きにしていいんですよとリヒトールは言い置いた。
「私に付き合う必要はありません。もし、裏切っている赤い同胞がいるのなら殺しに行ってもいいですし、逃げてもいいですよ」
これから行くところは戻ってこれるかもわからないので、といった言葉を聞いているのかいないのか、セフルは無言だった。
リヒトールはただ息を吐いた。兄が眼を失ったとき、リヒトールは己のすべてをかけてこの国を守ると決めたのだ。
『兄上、私と同じですね』
そんな愚かな問いかけをしてしまった、自分に唯一できることだった。
兄は正しい。この国を守れなくなろうとも、ただ一つの愛を選ぶのならば、それは間違ってはいない。なくした悲しみを避けようと、ただ平穏あれと請う神に報いることは間違っていない。
「私は、おそばにおります。陛下」
セフルの堅い声に、思わずリヒトールは笑ってしまった。まるでこれから起こることに予想がついているかのようだ。
ばたばたと走りまわる音がした。避難のために誘導する音に交じって、しゃらん、と金属がこすれる音がする。
「リヒトール!」
名を呼ばれて振り返った。
この先は、建物の一番上だ。屋上であるそこへ立てば、見えないけれど、相手が見渡せることだろう。
「・・・姉上・・・」
ファーティクルスがどんな表情をしているのかさえ分からなかった。リヒトールはそれを残念に思って、いつも通りに微笑んだ。
「行ってまいります」
おう、と姉は鷹揚にうなずいた。
「行ってきな」
「姉上はお逃げください」
できないさ、とファーティクルスは笑った。
「最奥で、皆殺しにするのが私の役目だネエ」
彼女はけらけらと笑い交じりにそう言った。今や並ぶ者がいない一族の最強の言葉に、運がいいだけのリヒトールもつられて笑った。
彼女は、神殿に侵入した敵は、その力を使って皆殺しにするという。逃げろと言ってみたものの、それに従うはずがないともわかっていた。その彼女らしさに苦笑し、またあとでといつものように言った。
「あたしは悲しまないからネエ」
状況を悲観しているのかと、リヒトールは首を傾げた。死んでも、ということですか、と尋ねようとして、それより先に、ファーティクルスはいなくなってもサ、と付け加える。
「あれはひどく気にしているけれど、ネェ・・・お前の、それが愛なんだろうさ」
予知の力はなくとも、彼女はすべてを見透かしていた。長い付き合いの姉はリヒトールのことを理解している。
だからこそ、彼女は行ってこいと言うし、リヒトールを止めない。それはファーティクルスも同じ立場で同じ力があったならそうするからだった。同じ腹からは生まれた姉ではないが、血がつながっている。おまけに立場としては兄よりもリヒトールに近い。
「はい」
と。
リヒトールはそう言った。
それは肯定の言葉であると同時に迷いを振り切るためだった。
会いたいけれど。
そう思う心はあるけれど。
これはリヒトールの、愛だった。
あの獣がこれからこの地で生きていくために、余計なものは排除する。平穏のもとで、あの獣の怯えをこれから取り除く誰かのために、リヒトールは振り返らずに階段を登り切った。
しゃら、という金属の音も、それと同時に遠くなってゆく。
リヒトールがあるべき場所に行くように、彼女もあるべき場所にて、目を輝かせているに違いない。
ゆっくりと登り切った屋上は、日差しがさんさんと降り注いでいた。太陽の恵みの中はあまりにも静かでいつも通りだった。
きっと今日も空は『青く』、晴れているのだろうと、リヒトールはその事実がうれしくて微笑んだ。
すう、と息を吸い込み。
「嵐よ、賞せ!さあ、天よ与えよ、嘆きを!捧しその目、今ここに認めたもう!」
歌うように、声を張り上げた。
どこまでも響け、あの獣までと目に力を入れる。
びゅう、と冷たい風が吹いた。
いつも何一つ見えない景色が、どこまでも遠く見える。
『リヒトール』
『オカエリ』
『リヒトールダ』
ごろ、と天が鳴った。青かったはずの空は暗く染まり、夜がやってくる。引き釣り出された夜の神は、くすくすと笑い声をあげたことを隠すように、雲を広げた。空気が冷たくなり、風が勢いよく吹き乱れる。
『リヒトール、ヨンデ』
『ウタッテ』
あのこがおきるよ、と声がした。
神殿の周りを囲まれていた。イーゲラ砂丘の上、そして砂漠しか広がるはずのない背後に鎧を着た軍勢が見える。神殿の城下にも控えている異国の人間の量に、これはたしかに数え切れないと思う。
『サア』『オニンギョウジャダメ』『ダケド』『オニンギョウハ』『ステタ』『デモ』
リヒトールなら届くとたくさんの声がする。
彼は、嗤った。
びゅお、と風で髪が乱れるのも構わないまま、すうと息を吸う。
さあ、幾星霜の繁栄を。
幾億の平穏を。
歌おう、と彼は声を上げた。


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