@toasdm
水を得た魚、海に来たクリス。はしゃぐというよりは全身で堪能して、海と一体になって海に満たされているといった様子のクリスがそこにある。さんさんと照りつける夏の日差し、陽光の煌めきは水しぶきをあげるクリスの髪をきらきらと輝かせて、プロデューサーさん、とにこやかに彼女を抱きしめるクリスは今、海そのものだ。
せっかくの海の日ですから、と声をかけた時、クリスは少し困ったように口元に手をやって、上品に笑って言った。
「私にとっては、毎日が海の日のようなものなのですが……」
それでも、あなたがそうおっしゃるなら――…と二つ返事で了承したクリスを助手席に乗せて、彼女は海の日の海に来た。
案の定、海水浴場には海の日を海で過ごそうと訪れた人々がひしめき合っていて、目立つクリスをそこへ連れて行くのは気が引けたが、構いませんよ、とサングラスをかけたクリスが、変装です、とおどけて見せたのがおかしくて、彼女は笑う。手を繋いで焼けた砂を踏みしめて、二人は水着姿のまま歩き、浜辺にあるパラソルをレンタルした。どこからどう見ても、二人は似合いのカップルだ。アイドル古論クリスとそのプロデューサーには見えないだろう。
「そもそもが」
パラソルの下で日焼け止めを塗りながら、クリスは言う。
「誰も皆、一様に海を見ているのですから」
耐水性の日焼け止めを念入りに擦り込んで、髪をかきあげて首の後ろに塗る仕草も洗練されていて、美しい。長い髪を束ねて揺らし、にっこりと微笑むクリスは水平線を見つめて瞳を輝かせる。
「私達がなんであるか、なんて、海の前では小さな問題ですよ」
「そう、ですね……ふふ」
「ええ」
さあ、あなたも、と日焼け止めを手にしたクリスが、彼女の肌に手を滑らせる。キメの整った柔肌の感触に目を細めて、クリスはこっそり、囁いた。
「それに、私なんかよりもあなたの方が、ずっと人々の視線を惹きつけますよ……」
水着、お似合いです。そんな風に囁くクリスの言葉は、ビーチの熱量を何十倍にも圧縮したような熱をはらんで彼女を包んだ。首筋、デコルテ、腕から手へ。夜を思わせるような愛撫の手は念入りに、彼女の肌に日焼け止めを塗り込んでいく。その感触にドキッとしながら見上げたクリスの表情は、彼女の胸を詰まらせた。
私なんかよりも、クリスさんの方が――…。そう訴えかけようとして、彼女は思い止まった。サングラス越しの瞳が、本当に、本心から、彼女をそのように見ているようだったせいだ。存外彼女は、クリスの真剣に弱い。
「さて……参りましょうか!」
ぐいっと両手を組んで伸ばし、体中をぐりぐりとほぐしてクリスは彼女の手を引く。貴重品は全て、海の家でパラソルをレンタルした時に預けてきた。タオルとラッシュガードとか番をするパラソルを背に、二人は波打ち際へと手を繋いで歩いた。
「わ、結構冷たい……っ」
「そうですね、心地よいです」
足首まで波の被る波打ち際の砂、ただ立っているだけで足が攫われて、バランスを崩しそうになる彼女の腰を支えてクリスは微笑む。
「ハワイでは、海に背を向けてはいけない、という教えがあるそうですよ」
「海に背を……?」
潮騒と人々の歓声が満ちたビーチで、クリスはそのまま遠浅の海へと歩を進める。そうです、と答えて手を繋ぎ、二人は腰まで海水に浸かって海の声を聞いた。
「波に背中を向けて立つと、足元を攫われてしまうからだそうです」
「な、なるほど……」
「ですが」
サングラスを少しずらして、クリスは海原を目に焼き付ける。クリスには、この海はどんな風に見えているのだろうか。ほぅ、と溜め息を漏らしてクリスは続ける。
「別な意味もあるのではないか、と私は思うのです」
「別な意味……?」
サングラスを元に戻して、クリスは海中で彼女と指を絡ませる。ザバ、と波に撫でられた体は寄る辺なく漂う海藻のようで、彼女は思わずクリスに抱きついた。
「きっと、誰しも心の中に海があると思うのです。穏やかな、母なる海。荒れ狂う嵐のような、激しさを隠した海。……きっと、そういったものから、概念という海からも、我々は眼を背けては生きていけないのだと、思うのですよ」
「がっ、概念という、海……」
「ええ……私の中にも、海はあるのです」
穏やかな海も、荒れ狂う海も――…。クリスの中には、海がある。それは確かに、そういわれれば、そうだと思った。私の中にも、ありますか?と尋ねた彼女を抱きしめて、クリスは笑う。
「もちろん。あなたの中にも、海はあります。……はい、大きく息を吸って――…」
言われるままに肺を膨らませた彼女に、息を止めてください、と告げたクリスは次の瞬間、彼女を抱きしめたままトプン、と海中にしゃがみこんだ。目は開けられない、耳にこもった波の音だけが響く世界。いったい何が?とクリスにしがみついた彼女の唇に、そっと触れたクリスの唇。誰もきっと、見ていない。触れた唇から伝わるのは、穏やかな海か、荒れ狂う嵐の海か……。トク、トクと高鳴る鼓動、ふわりと彼女の体は浮力によって水面へと出た。
「っぷは、はぁっ、はぁ、っ、クリス、さんっ……!」
「……私の中にある海を、感じていただけたでしょうか?」
その妖艶な笑みに、彼女はしばし、言葉を失う。海の中で感じたクリスの海は、きっと荒れ狂う嵐だ。ぎゅう、と彼女を抱きしめて、プロデューサーさんとクリスは笑って言った。
「海を、楽しみましょう」
さんさんと照りつける夏の日差し、陽光の煌めきは水しぶきをあげるクリスの髪をきらきらと輝かせている。
クリスは今、海そのものだった。