@kyuri_akita
「―———、」
声が、聞こえた。
いや、気のせいだ、とスルザはゆるく首を振った。聞こえるはずがない。ここからあの男がいる場所からどれほど離れているのかと、その場所のほうへ向かって背を向けた。
神殿のほぼ反対側、ナーソク山の麓。そこにはナーソク山にいるという山の神を祀る神殿があった。
関所の役割も兼ねている神殿の手前で、最近新たに水がわいた。そこに村を作ろうかと計画しているうちに盗賊が住み着いたという。住み着いた盗賊たちは、ナーソク山の麓の関所から宮殿の城下町までの道でキャラバンを襲っていた。
スルザは、新たに沸いたオアシスの端で立ち尽くしていた。
ぽ、た、とスルザの動きに合わせて、気づいたように頬を水分が伝っていく。
赤黒い液体は、ただの水ではない。つんとした匂いは、スルザについていた甘いにおいをかき消した。浴びるように液体に濡れているため、においが消えたのも道理といえた。
体中のあらゆるところについた赤い模様は、スルザの肌の上で曲線を描いては滑り落ちていく。
周りには、もう息もない人間の体が転がっていた。それは老若男女問わず、赤子のひとりまで残さずに、息をしていなかった。
血の匂いを嗅ぎつけて、獣が遠巻きに集まっていた。大型の猫のようなしなやかな体を持つ砂色の生き物は、ぎらぎらとした目をしながらこちらをうかがっている。食欲からくる敵意と警戒を、スルザは捨て置いた。
スルザに襲い掛かってこないのは、この肉を作り出した張本人だとわかっているからか。あるいは、彼らよりも獰猛な獣だと認識されているからか。その判断はスルザにはよくわからない。
それでも殺されることだけは看過できないと、スルザはむき出しの殺意をばらまいた。そしてそのまま、作り出した静寂の中にいた。
肉の塊しかない墓場で、最後の一人を眺める。
スルザ以外にこの場で息をする、もう一人の人間だ。
自分とよく似た眼の色は、似ているだけではない。
半分本能のように、スルザには感じるものがあった。
男は、巨大な岩の上に座り込んでいた。いっそ山のような巨大な岩と一体となったかのように、じっとしていて動かない。
あまりにも大きい岩は、スルザの身体能力をもってしても駆けあがるだけでは登り切れないかもしれなかった。
動かない男はいつからそこにいるのか、ぼさぼさとした髪は全く手入れなどされている様子がない。気だるそうな顔をしながら、眠そうに半分瞼が落ちた眼でスルザを見下ろしていた。白髪に見えるような髪は、よく見ると灰色だ。ほこりにまみれて汚れているから白髪交じりの黒髪に見えるが、実は若いのかもしれなかった。とはいえ、中背でスルザを見下ろす姿はまるきり老人のようである。
落ちくぼんだ眼窩の中で眼が光っていた。老人のような静けさを持っている男だ。一見、死にかけのようにさえ見える。
だというのに、その鋭い眼光が、判断を狂わせる。
その目は、死期が近いとは思えないほど強烈だ。
ぎょろりと光る、金色をしている。
「・・・」
男は最初からスルザの殺戮を眺めていた。
特に意見をするわけでもなく、すべてを殺していく様子をじっと眺め、そしていまだにその場にいる。じっと動かずに見下ろしてくる視線を、スルザは受け止めた。
あたりには濃厚な鉄の香りが漂っていた。塩を含む生き物の香りは、スルザにとっては嗅ぎなれたものだった。
スルザについていた甘い果実の香りは、既に掻き消えた。きっと盲いた男のもとに戻ったところで、こんなに強烈な血の香りをさせては、判別されないに違いない。
それを思えば、なぜだか、のど元にこみあげてくるものがあった。それは吐き気を催す直前のような、ぐるりとのどを締め付ける動きに似ている。臓腑からせりあがってくるその言葉を、スルザは知っていた。
(・・・きもちわるい)
おおよそのものは気持ちが悪く、吐きそうになることばかりだ。
それは、飼われているときでさえも。
吐きそうな、のどにせりあがってくる時があった。
そのときを思い返せば、ずいぶんと遠い日のようだった。実際は、あの男のもとから去って5日ほどしかたっていない。
まるで、遠い夢を見ていたような。
そんな気分だった。
『スルザ』
丸い声で呼ばれたことも。
『スルザ』
寒いと腕を差し出されることも。
『スルザ』
なでられたことも。
鋭い牙をもって殺意をばらまいたことだってあった。それでも自分をそばに置き、一緒に眠った。そんなことは何もかもしたことがなかった。
いや、かつてぼさぼさとした毛並みが、遠い遠い昔にしたような気がした。だがそれはかもしれない、とさえ言えてしまいそうな、気が遠くなるほどにはるか昔のことだ。
リヒトールがそうしたような。
そんな日を確かに過ごしたのだ。
でもそれは、戦闘を忘れるようなものではなかった。
遠い、夢のようでしかない。
ざらりとした地面の上で、ただ物言わぬ肉の中に立っている。
これこそが、スルザの現実だった。
ただ、己が作り出した肉の塊の中にいつだって一人で立つ。
それが、スルザの生き方だった。
盗賊を一人残らず殺した。それは誰かの命令だった。一人も残さない。赤子でさえ。男も女も子供も関係なく。
息の根を止めた。
スルザは人間ではなく、奴隷だからこそ。
きちんとすべてを理解したうえで。
何もかも殺した。
視界に、女と子供が映った。ごろりと地面に転がった小さな手はピクリとも動かない。それを目に写し、間違っているとは思わなかった。
幼い子供こそ、生かしてはならないのだ。
子供はだめなのだ。生かしておいてはいけない。いつかスルザを殺しに来る。
かつて闘技場で、何度も大人を殺した。
家族がいた男も女もいた。
それでも、スルザは殺した。
家族がいようと関係なかった。
闘技場とは、そういうところであり。
殺さなければ、殺されるのだ。
そこではただ生き残ることだけが、存在価値があった。そういう場所だった。
殺してやると叫ばれた。
それは一度や二度ではない。幼い子供の強烈な涙と復讐の眼差しは、鈍くなったスルザにもわずかな恐怖を思い出させたほどだ。
そのたびに、ああ、これはまだ続くのか、と思った。
それでも死ぬわけにいかなかった。
奴隷はいつでも主人のために死ねる生き物だ。殺生与奪の一切は主人が握っている生き物である。
しかし。
それらにあらがってなお。
自分を生かしたものに報いることこそ、スルザのたった一つの生きがいだった。
それは。
生き続けることと同義であり。
殺し続けることと、変わりはなく。
スルザは死ぬまで、勝ち続けなければならなかった。
「・・・ぃ」
男がくちを動かした。
呼びかけられているのかと目を細めたスルザに、石造のように動かなかった男が、腕を上げた。
何かを指さすので、スルザは背後を振り返る。
そこには、砂色の獣たちが、こわごわとした様子で、肉をつかんでいた。ばちりと目が合うと、獲物をつかんで引きずってゆく。
あまり長居しては、彼らも食事にありつけないことだろう。立ち去ろうかと迷ったスルザに、再びかすれた言葉が届いた。
「・・・こい」
かすれた声に、顔を上げた。
金色の目をした男は、相変わらずじっとスルザを見下ろしている。
スルザは、握りしめたままの剣を納めた。
男の言葉など聞き入れる必要はない。
それでも、この男と言葉を交わすべきだと思った。
頭の中で響く言葉はない。それでも、この男に寄せる思いがあるのはわかっていた。
だから、スルザは膝を折り曲げて。
力を込め、大地を蹴った。
びゅ、と耳が風を切る。精一杯力を込めても、男のいるところまでは届かなかった。
(あと、少しなのに)
届かない。
伸ばした手が空を切った。
ああ、とスルザはその事実を受け入れる。
体は一番高いところに到達して、落ちてゆくだろうと。
仕方がない、もう一度登るか、と目をつむってあきらめたとき。
「こい」
はっきりとした声で、男が声をかけた。
スルザが眼を開けば、立ち上がって、男が手を伸ばしている。
大きな手だった。
反射的に、スルザは伸ばされた手を取った。
男もまた、がしりとスルザの手を握りしめた。
大きな手は、肉が厚く、がしりとスルザの小さな手をつかんだ。魚を握りしめるような雑さで捕まれれば、体が宙に浮く。
立ち上がった男は、想像するよりも筋肉質で大柄だった。相変わらず気だるそうな顔をしているが、スルザを片腕でつかむと、そっと岩の上に足をつかせた。
自分よりも何倍も大きく、筋肉がある男は、大柄な獣のようだ。祖国にいた、毛むくじゃらの熊という生き物に似ている。
男は、スルザを眺めて金色の目を細めた。
不思議と、敵意はわかなかった。それはずっと遠くに置き去りにしたぬくもりを思い出したからこそ、わかることだった。
「・・・哀れな末子よ」
近くで聞いた男の声は低く、かすれていた。
その瞬間。
ぞ、と鳥肌が立ったのが分かった。
だがそれは恐怖ではない。気持ち悪さでもなく、胸をかきむしってしまいたいような、ここから逃げてしまいたいようなぐしゃぐしゃとしたものが湧き出ただけだった。ふわりと体が浮いてしまいそうに、今にも駆けだしてしまいそうに動きかけた足の裏を、スルザは意志で地面に縫い付けた。
『それ』はスルザのものではなく。
だからこそ、理解できなかった。
だがそれでもわかることがあった。この気持ち悪さは、わずかばかり与えられたために起こっていると。
ずっとむかし。
スルザに与えられたものだ。
だが、それらは思い起こせないほどに遠く。
もはや理解さえ及ばないほどに、知らないものと化している。
たまらなく震えそうだった。名前をしらない。沸き起こる激しさを表現する言葉が欲しかった。己の無知さが愚かでどうしようもなく、スルザはただ、顔を歪めた。
何を口にすればいいのかわからなかった。
それでも、目がじわりと熱くなるのはわかった。
痛みだけでしか出たことのないものが、目に滲んでいる。
「・・・よく、ここまで」
いたわるような男の言葉だった。
「・・・ぅ」
うぅ、とそれこそ獣のように、スルザは唸った。
「よく、ここまで、生きぬいた」
あ、と、スルザが声を上げた瞬間。
男は幼い子供にそうするように、両手を広げて。
スルザを抱き寄せた。
「う、あ、あ・・・」
こぼれた嗚咽は、目からスルザの知らない痛みをこぼした。痛みでしかこぼしたことないそれらがなんであるかすら、スルザにはわからない。
男からはすえたにおいがした。それは獣の香りだった。血と汗と、あたたかな毛皮のぬくもりは、かつて死ぬ直前に、スルザに与えられたものだった。
そしてリヒトールが、スルザに思い出させたあたたかさだった。
この男の名前さえ知らなかった。
それでもスルザには、わかった。
この男も、自分と同じなのだと。
「う、うううう」
「よく、『あれ』に報いている」
とさ、と頭に手を置かれた。
リヒトールがしていたことを思い出す。
触れ合うだけがあたたかいと、それは寒さを紛らわせてくれたのだと、彼だけが、遠い記憶を賄ってくれたのだ。
筋肉質の腕に、力がこもる。スルザの体はその力で軋んでしまいそうだった。だが、その痛みですら今のスルザには些細なものだった。
この男は、スルザと同じ。
死神に出会って、獣に与えられたものなのだ。
「お、おれは、おれは」
「あいたかった」
そうだ。
肯定する言葉は、スルザのものではなかった。
それでも心の底から、そう思った。
「我が、兄弟よ」
「ああ、ああ」
死にたくなかった。
奴隷は簡単に死ぬ。殺生与奪の一切は主人が握っている。そういう生き物なのだ。生まれが悪かった。ただそれだけのことだ。
それでも。
生きたかった。
スルザを生かした狼が望むから。
ただ抗って、生き続けた。
「おそくなった」
謝罪するような言葉に、スルザは男の肩に顔を預けた。
眼のふちにたまる痛みで、言葉が出ない。
「・・・いいのだ」
スルザの口が勝手に動いた。
「これを、おれはあいした」
覚えのない言葉は、口にすればざらりとしていた。
「ただ、もっと、あいしたかった」
知らない言葉だった。
それでも狼が語るから、そうなのだろうと思った。
ぽとりと雫が頬を伝った。
それも大地の熱が、すぐに水を飛ばしてしまう。この地は熱く、それでいて乾いた砂塵が不吹き荒ぶ。それがたまらなく一人のようで、覚えのない孤独に揺られた。
とうに過去となった故郷の景色を垣間見たような気分だった。この男は、故郷そのものだ。望郷はとうに失い、すり切れたはずだった。
思いを寄せるほどの執着もあったわけではない。
だから、それを残すのはスルザではなかった。
(・・・悪くない)
それでもあふれ出る思いを、スルザは受け止めた。だいぶ鈍くなってはいた。判別がつかないほどに。
それでも、ただオアシスができたとこの目で確認したように、湧き出るものがあることだけは理解した。
しばらくして、強烈ななつかしさは息をひそめた。
スルザはそれに合わせて、気づかぬうちに込めていた体の力を抜く。
男もそれに気づいてスルザを解放した。腕を放されて見上げた男は、相変わらず目を細めている。丸い眼は、リヒトールに似ているとスルザは思った。
「・・・行くか」
どこに、と問う前に、男は姿を変えていた。
ばきりと音を立てて、筋肉が盛り上がる。ざわりと全身が白い毛並みに覆われた。地面に四つ足をつく姿は、スルザの倍以上ある。
その大きさに言葉を探していると、岩のように巨大な白銀の狼は、有無を言わせずスルザの襟をくわえた。
「ちょ、おい」
そのままひょい、と宙へ投げられる。慌てて空中でバランスをとれば、ぼすん、と狼の背に乗った。足先も届かない大きな獣は、金色の目でスルザをちらりと見たあと、岩の上から飛び降りた。
「おい・・・!」
降りる勢いに振り落とされないように背につかまる。白銀の狼は何を言うでもなく、街に向かってそのまま走り出した。
「なに・・・」
と、声をかけていて気付いた。
まだ、昼にもなっていないというのに、空が暗い。ひゅう、と冷たい風が頬をなでるのに、スルザは狼の背に張り付いて空を見上げた。
いつものように青いはずの空は、黒く染まっている。それは夜というのには異様な光景だった。曇りというほどでもない。ただ黒さが天を覆い隠したかのように、闇が渦巻いていた。
「・・・」
「あれは、死の神だった」
走る足を止めない白銀の兄弟の言葉に、スルザはおぼろげながらも言葉にされたその姿を思い出す。
黒いフードに、高い声。馬の骨の頭蓋のような仮面をかぶっていた。仮面の下でわずかに見える口元は白く、幼い少女のようだった。
死に際に、それは問うてきた。
『力が欲しいか?』
ばかげた問いかけだった。スルザは幼く、死にかけていた。その隣には、やせ細っていたが、狼がいた。
狼が食えば、スルザはすぐに死ぬはずだった。
だからそんな問いかけがばからしく、もちろんだと答えた。
叶うはずがないと、わかっていたからだ。
「俺は、戦場であった。敗戦した兵士だった。もっとずっと北の、寒いところだ。美しい白い狼が、俺を食うはずだった」
だが、狼は俺に寄り添ったのだと、男は笑った。
「死の神が、おれとそれに問いかけた。力が欲しいかと。俺はうなずいた」
びゅおう、と風を切って白い獣は何もない闇の中を走り抜けた。月もない闇の下では、その白さは砂の上でただ光るように目を引く。
スルザは背中にしがみつきながら、静かに聞いていた。
「お前をそばにおいていた男は、死の神と同じだ」
あの神と同じになる、と獣はつぶやいた。
その言葉に、スルザはぞっと背筋に走るものがあった。それは腹に風穴があいたような、ざわりとした危機感だ。命が削れているかのような警鐘に、顔を伏せた。
「ヘテプケセムラドの末裔、意志を持つ支配の落胤。王弟、リヒトール。あの国の一族は、その目であらゆるものを支配する。その中の、支配を持たぬ意志」
彼らの一族は、崇める神が見えない。
それは彼らが意志をもって平等を保つためだと狼は言った。
「なぜわかる」
そんなことが、と言えば、何もない砂漠を走り続ける獣は少し思案に暮れた。
「・・・問いを受けたお前なら、わかるのではないか。あの男に、飼われてもいたのだろう」
そういわれれば、何となくわかるものがあった。
リヒトールは、ほかの一族とは少し違う。それは感情によって暴走してしまう力を持たないからこそ、豊かな感情があるという点もそうである。他のものはリヒトールよりももっと、感情を強く抑えていた。
あの男が不思議な現象を起こすのは、一族の力によるものではないのだろう。たしかにリヒトールは王が使えたような力は使えなかった。
だというのに、彼には王となりえるような強い力を持つ血が流れている。
おそらく、死の神がそうであったように、リヒトールたちが崇める神もきっと実在している。そして死の神と同じように、彼らの中で、何かを待っている。
その神に選ばれたのがリヒトールであり。
かの神は、彼に起きる何かを待っている。
それは例えば、この白銀の狼や、スルザに訪れたような。
その瞬間を。
「あの男は、神が見える。他を支配する力がない代わりに」
それはきっと、神の意図があるのだろう、と男は言った。
「死の神は、俺とお前を見つけた。ならば、あれらの神が、あの男を見逃すはずがない」
だから走っているのかと、聞こうとしてスルザは口を閉ざした。何と言われたらそれを受け入れればよいのか、わからなかったからだった。
「お前は、これが良いと思うか」
それは今の自分をいいと思うかと言われていると、スルザは正確に受け取った。
「・・・っ」
問いに答えなど返せなかった。スルザ自身はいいとも悪いとも考えたことなどない。
そんなことを考える時間など、スルザにはなかった。毎日、生きて勝って、殺し続けることだけが現実だった。力が欲しいかと言われて、激痛の後に得た力だった。意識が飛ぶような痛みの後、寄り添っていたはずの狼はいなかった。
生きている。
ただその事実が目の前にあっただけだった。
あの狼だけが、自分を生かしたのだと理解した。自分は狼なのだと意識に刻まれていた。
だから生き抜くと誓った。
あの狼が与えたものを、捨てられることなどできなかった。
生きるためにスルザに与えられたのは、誰かを殺して勝つことだった。
はっはっと荒く息をつきながら、白い獣は町に近づいた。それは天が、より濃くなる場所へと近づいているのと同じだった。もう十分に暗いと思っていた空は、さらに深さを増している。
「末子、お前の話を聞かせておくれ」
歌うような調子で軽やかに聞かれた。スルザは思わず少し身を乗り出して、獣の顔を覗き込む。
大きな男は、リヒトールと似た表情をしていた。黄色い眼を細めてちらりとこちらを一瞥した後、またすぐに前へと視線を戻した。
(・・・なぜ)
先ほどの姿を思い出せば、視力のない男とは似ても似つかないことなどわかっている。焼けたことのない白い肌と、遠い地を歩いてきたようなこの男の焼けた肌では似ているはずがない。薄汚れたぼろに、ろくに顔も見えないほどに伸ばした髪は、毎日櫛を入れていた美しい長髪と似ても似つかない。
それでも。
なぜかこの男の動作は、視力のない神官を思い出させる。
視力のない男はもっとにこにこと笑っていたと。
そう思ってしまう。
(いや)
あの男のおかげで、スルザは思い出したことがあった。
そのどうしようもない事実に、うつむく。リヒトールは、スルザが忘れていた、狼と同じことをしてくれたのだ。
それなのに、スルザはあの男から逃げてしまった。
じくりと湧き上がるものに、スルザは口の先をとがらせた。息を吐いてやり過ごし、俺も似たようなもんだ、とつぶやいた。
「おれは、奴隷だった。幼いころ、使えなくなって、狼のいる牢に餌として捨てられた。だが、狼は食わなかった」
言葉としてみれば、本当にそんな短い言葉で終わるものだった。記憶も遠い。幼すぎて覚えてもいない。
そのあとの鮮血にまみれた日々のほうが、よほど鮮明だ。
わずかばかりの記憶に残るのは、気が狂いそうな飢えと寒さだった。
食べ物もろくに与えられなかった。木の根も食べたし、泥水もすすった。それでも肉は削げ落ち、歩くのさえままならなくなった。奴隷にはよくあることだった。幼い奴隷はそうして死んでいくものも多い。スルザもよくいる奴隷の一匹にすぎなかった。
死にかけの骨を処分するのも面倒だと狼のいた檻に放り投げられた。
はやくたべてくれと願った。
こんな空腹も、寒さも耐えるのには限界だった。体もろくに動かない。こんなものは何もかもすべてなくなってほしいと願った。
けれど狼は、己がやせ細ってあばらが浮いても、スルザを口にはしなかった。
子供の肉は、わずかばかりでも狼の空腹をいやしたはずだった。
それでも狼はスルザのそばで眠り、時には水を与えて生かした。
あんたは、とスルザは口を開いた。
「あんたは、これがいいと思うか」
聞かれたことをそのまま返した。
「・・・」
白い獣は町に入った。街中はどこも窓も扉も閉ざしており、人の姿はない。川沿いに出れば、向こう岸では鉄の鎧を着た異国の兵士が見える。
「わからない。だが、」
向こう岸で声が上がった。白い獣はやはり目立つのだろう。スルザたちに気づいた兵士たちが、矢を放ってくる。
スルザは腰に下げた剣を抜いた。何かに乗りながら戦うことは経験したことがなかった。何が正解かはわからない中で、ただ培った戦いの感性を研ぎ澄ませた。
「俺は、死ぬはずだった。冷たい雪の中で」
だっと白い獣は地面をける。
ここまでかなりの距離を走ったはずだが、その勢いは止まらない。
「・・・しなせたくなかったんだよ」
その声が、男のものではないような気がした。
丸くて、柔らかいものを口にしたような言葉に、思わずスルザは視線を向ける。
「ここにいてほしくて、そばにいたかった」
走る背中に迫りくる矢を、スルザは剣をふるって弾いた。
「どこにも、いかないでほしかった」
はっは、と肩で息をしながら、獣は走る。
グラーツ橋が見えてきた。橋では、異国の兵士と自国の軍がにらみ合っていた。
「・・・おまえはちがったの?」
その言葉がスルザに問いかけられているのかどうかわからなかった。
だが、その問いにスルザは答えることができる。
その答えは、狼に食われなかった時点で知っていた。
「・・・行くぞ」
有無を言わさない声で、白い獣は軍の中に突っ込んでいった。スピードも緩めないまま走り、スルザたちに気づいた何人かが声を上げる。
白銀の狼は人込みをすり抜けると、敵陣に向かって迷いなく走った。串刺しにはなるなよ、とスルザは身を低くして叫んだ。
「跳べ!!」
その瞬間、走る勢いをそのままに、狼は飛び上がった。
おお、と曲芸のような姿に、声が上がった。見世物じゃないと思いながら、スルザは敵陣への着地に刃物が飛んでくるだろうと予想した。
どうやって切り抜けるかと、視線を向けたとき。
「ァ・・・・」
ラー、と美しい声がした。
響け、と体を楽器のようにして空気を震わせる声だ。白い狼が着地する前に、震えた空気は強風を異国の兵士たちに叩きつけた。
明らかな意図を持ったそれは兵士たちをなぎ倒した。白い獣はよろけた兵士たちの頭を踏み台にして、また飛び跳ね、人のいないところですたりと地面に着地する。
「なんだ、この国は!?」
兵士の混乱した声が聞こえた。
全くその通りだとスルザは笑わなかった。
「あれは、いったいなんだ!?」
スルザは白い獣の上に乗った状態で、それを見た。
神殿が、暗い闇に覆われていた。
天は嵐を呼ぶかのように、黒い雲と強い風を吹かせている。その神殿の屋上で、光るものがあった。
きらきらと輝いているそれのまわりでは、いつか聞いた声が楽しげに響いていた。
『リヒトール』『ヨカッタネ』『リヒトール』『スルザダヨ』
ああ、あれこそ確かに神と呼ぶにふさわしい、とスルザは眼を見開いた。
神殿の屋上で、目の見えぬ男が歌を歌っていた。
それは風を呼び、雲を呼び、天と地を震わせる詩だった。息を吸い、音を吐き出す。ただのそれだけの力は、ごろりと笑うような雷土を呼んだ。
ただ、その暗闇の中で唯一の光のように、美しく輝いているものがある。あれを希望と称するならば、まさしくその通りだと、知りもしない言葉を当てはめた。
『ス、る、ザぁ・・・』
まるで壊れたように。
そうして、彼はつぶやいた。
どこまでも響く声で。
盲いた眼をわずかに開き。
「・・・な、ん、だ・・・っけぇ?」
ぼんやりとした、光をとらえぬ赤い眼は、何も見ていない。
天を仰ぎ、困惑したように顔を両手で覆う。
ああ、とスルザはその姿に目を奪われた。
(行かないと)
おれはあそこに行かないとだめなのだ、とスルザは強く思った。
「まてぇ!通さんぞ!!」
背後から、そんな声が聞こえた。
自分を引き留めようとする声に、何かを考えるより先に、スルザは手にしていた剣を投げていた。
「と、お、さ・・・な・・・」
そのあと、音がぱたりと止んだので、首だけでスルザは後方を確認した。言葉をなくしたように立ち尽くす異国の男たちに、顔の筋肉が動いた。
ぎしりと引きつる顔のままスルザが眼を細める。ぐるり、とわずかな腹の動きを覚えて肌の上から臓物をなでた。その動きに、周りの人間たちは動き方を忘れたように顔色をなくして立ち尽くす。いつでも敵に襲い掛かれるように神経は張り巡らせて、剣を握りしめる。
「・・・おれも違わない」
スルザは空いた手で、白銀の狼の上から降りた。
「だから行くぞ、おれは」
あの狼が惜しんだように、あそこへと強く思わせるものが、スルザにもある。
それはきっと時に、命さえ惜しまないほど、ここにいてくれと願う気持ちだ。
それを何といえばいいのか、スルザにはわからないけれど。
それでも、ここにいてくれと願う気持ちはわかる。
「・・・幼子よ」
白い狼の呼びかけに、スルザは振り返った。
「・・・良いか、我らは獣ではない」
その言葉に、スルザは首をかしげてしまった。
ふわ、と血の香りが鼻まで届いた。ぐう、と唸る腹の底に、スルザは思わずこちらに踏み込めずにいる異国の兵士たちを睥睨した。
殺意には純粋な食欲も混じっている。飢えは食欲を刺激させた。食べるためには何かを殺さないとならないというのは純粋な食物連鎖である。
死ぬはずだった命は、いつも貪欲に食うことを求めてはいるのだ。ただ、ほかにも豊かに食べ物がある場所で、わざわざ人間を食らう必要はない。それはただ獲物を選ぶことにほかならず、生きることにこだわりを置くならば、ならば拘って食べる必要まではない。
だが、殺して食らいたいと、金色の目を光らせることの何が獣ではないのかと。
スルザは異国の兵士たちに視線を向ける。
「二足で歩く。腹が減ってなくとも、縄張りにいるというだけで殺す。それを空腹のせいだとごまかされながら。そんな獣がいるものか、我らは、二足の化け物よ」
す、とスルザは視線を白い獣に移した。
獣は緩めた眼球の輪郭でスルザの視線を受け止めた。
「そばにいたいと、命を分け与えるだけで足るものかよ」
だから獣などではない、それよりもおぞましいと、白銀の狼は吐き捨てた。
(そうだろうか・・・)
そう考えたことに、スルザは視線をそらした。
言葉に疑問を持ったこと自体が、初めてのことだった。
生きることだけを考える日々だった。明日の食事を得るために、空腹とないまぜになった殺意をばらまくのが、スルザの毎日だった。
そこに問いかけは必要なかった。ただ奴隷とはそういう生き物でしかなかった。敵を殺して勝って、人間に笑われていればいいのだ。
それは、飼われて撫でられるのと大差なく。
何かを守るといいながら、命令をこなせばよいだけであって。
言葉はすべて命令でしかないスルザには、それに疑問を持つこと自体が考えられなかった。
命ならば分け与えてもいいとは、スルザは思わない。スルザこそ与えられたものだ。だが、命を懸けてもいいとは思う。
そばにいるためならば。
スルザ自身が朽ちようと、かまわないとは、思える。
「・・・やれ、腹がすく」
のそりと、白い狼はスルザに背を向けた。動けずにいる異国の兵士たちを眺めて、牙をむき出しにして笑う。
「・・・・獣でないからこそ、常に問わねばならぬ。これでいいのか、と」
ごろりと空が雷土を光らせて笑った。
歌声が響く。それは聞きなれた声で、風を呼び、ただ異国の敵だけを薙ぎ払った。
「はやくあれに問うて来い」
白い獣の声に答えるまでもなかった。
スルザは神殿を目指して二本の足で駆けだした。