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[雨P♀]月の綺麗な夜だぜ

全体公開 1 1818文字
2018-07-30 12:35:26

「月の綺麗な夜だぜ?」

寝る前に雨彦さんから電話がかかってきて、そんな風に言われるド定番なお話です。

Posted by @toasdm

 夜の帳が下りても休みなく稼働するエアコンは、締め切った窓にかかるカーテンを揺らす風を送り続けている。都会の熱帯夜は眠らない室外機の駆動音を立てて更けていく。カラ、と持ち上げたグラスの氷が溶けて崩れて、結露した水滴が湯上がりの腿にぽたりと垂れ落ち、ひゃ、と彼女は思わず悲鳴を上げる。麦茶は、火照った体によく沁みた。飲み干して空になったグラスを頬に押し当てて、そこからも涼を取り入れてふぅ、とため息をひとつ。今日も仕事を、頑張った。充足感のある疲れを全身に感じて、彼女はやっと、オフモードだ。
 テレビのニュースが今日一日のダイジェストをやっている。職業柄、ニュースの類いは聞き流しながらも耳に入れるようになってから、もうどのくらいだろうか。一日のルーティンをのんびりとまったりとこなして、彼女はテレビを消した。部屋には、静かな夜が訪れた。生乾きの髪の毛をざっと拭って、ドライヤーでしっかりと乾かす。そろそろ明日に備えて寝ようかな、と独り言を漏らしてスマートフォンを充電すると、同時に、通話の着信。画面には担当アイドルの名前が表示され、彼女は思わず時計を見る。日付は間もなく、疲れた今日が新しい明日になるところだ。
「もしもし、お疲れ様です葛之葉さん、どうしましたか?」
「お疲れさん。今よかったかい?」
 大丈夫です、と答えながら、彼女は姿勢を正してメモを手に取る。電話の向こう、雨彦の声は多少気の抜けた、リラックスしたような雰囲気だ。外にいるのだろうか、たまに車の走行音や人の声が漏れ聞こえてくる。大した用じゃないんだが、と前置きをして、雨彦は続けた。
「お前さん、今家かい?」
「はい、葛之葉さんは外ですか?」
「ん? ああ、暑いからな。ちょっと散歩にでも、ってな」
 なんとなく、葛之葉さんらしいな。彼女はくすりと笑って、なにかありましたか?と問いかける。ふっ、と笑いを漏らした雨彦は一呼吸置いて、ゆったりと話す。
「月の綺麗な夜だぜ?」
「月……?」
 十六夜の月か、と電話の向こうで、雨彦が目を細めて空を見上げたような気がした。しばしの沈黙のあと、ぽつりぽつりと、歩きながら雨彦は話し続ける。本当に、大した用ではないようだ。彼女はメモを置いて、ベッドに体を横たえた。寝る前に誰かと話すのは久しぶりだ。雨彦の低い声が、全身に沁み渡るようで心地よかった。
「写真でも撮って送ってやろうかと思ったんだが……夜空ってのは、思ったようにうまく撮れないもんだな」
「ふふ、スマホの限界ですかね」
「はは、どうやらそうらしい」
 見せたい、と思ってくれたことが嬉しくて、彼女はほぅっとため息を漏らす。微睡みがベッドの淵からじわじわと、彼女を包み始める頃、雨彦はもう一度、言う。
「月の綺麗な夜だぜ、お前さん」
 本当さ、と付け加えて、雨彦は彼女に言うのだ。
「窓から見えると思うぜ、ちょっと見てみろよ」
 そんなに言うなら、と眠い目を擦りながら、彼女は身を起こして窓辺に立つ。シャッ、とカーテンを開けて空を見上げて、声。
「わ……ほんとに、綺麗な月……え?」
「よっ」
 僅かな時差を伴って、自分の声が自分のスマートフォンから、聞こえた。はっ、と視線を上から下へ移動させるとそこには、そこに、いたのは。
「く、葛之葉さんっ!?」
「月の綺麗な夜だぜ? ちょっと散歩でも、どうだい?」
 ひらひらと手を振って、電話をしながら彼女を見上げる雨彦が、そこにいた。早く降りて来いよ、と笑う雨彦が目の前で通話を切る。ニッと笑う雨彦に誘われて、彼女は家を飛び出した。着替えばかりは済ませたが洗いざらしの髪も手入れしただけの肌もそのまま、ドアを開ける。
「お、っと……お前さん、寝るところだったのによかったのかい?」
「さ、誘って、おいて、それですか……!」
 実際のところ、なぜ雨彦の誘いに乗ってしまったのかは彼女には、よくわからなかったが。眠りに落ちる直前のうすら寂しい不安な気持ちをそっと拭うような、そんな雨彦の声や存在感を、まだ失いたくない、と反射的に思ってしまったことは事実だ。
……月が綺麗だな」
…………死んでもいいわ、とは言わないですよ?」
「そうだな、死なれちゃ困る」
 手も繋がず肩も抱かず、ただ隣あって歩くだけ。穏やかな月の光のような雨彦の優しさを感じながら、彼女は静かな夜を雨彦と過ごした。

 その夜は、ただそれだけだった。


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