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[雨P♀]夜の匂い

全体公開 1870文字
2018-08-02 12:44:29

「腹、減っちまったよ」

夜の住宅街に漂うおいしそうな匂いにお腹すいちゃった雨彦さんのお話です。

Posted by @toasdm

 ふぅ、と溜め息混じりに駅から吐き出されて、雨彦は空を見上げた。もうすっかり通い慣れた道、意識はせずとも足は動く。星明かりは人口密度と反比例するようにまばらで、月明かりとナトリウムランプが雨彦の上で静かに派閥争いをしていた。月が、昼間をしまい込む。そして夜になる。
 朝から晩までずっと焼かれ続けていたアスファルトの余熱は、雨彦の体力をじりじりと奪う。早くあの笑顔に癒されたいもんだ、と、先に帰宅して自分を待っていてくれる彼女の顔を思い描きながら足早に、雨彦は帰路につく。正確には、そこは雨彦の家ではないのだが、雨彦の帰る場所には、なっているのだ。
 信号もないような狭く細い路地を抜け、ふ、と見上げた空には煌々と月が浮かび、星の数も増えたようだ。瞬く星を見上げて目を細めれば随分と、今日は星々も静まり返っている。静かで結構、とまた溜め息をつき、雨彦は家路を急いだ。
……カレー、か……
 くん、と鼻をひくつかせて、雨彦は住宅街の夜の香りを嗅ぐ。今日はどこかの家で、夕飯にカレーを作ったのだろう。スパイシーな香りに空腹感を刺激されて、雨彦は腹を撫でた。目に見えない香りを手繰り寄せれば、そこには確かに人々の息遣いがあって、さまざまな夜を思い思いに過ごしているのだ、と言葉なく雨彦に伝えているようで、思わず口元がにんまりとする。
「から揚げ……餃子…………これは、魚の煮付けかい?」
 くぅ、と情けない音を立てた腹は、次々と襲い来る香りの暴力にノックアウトされたようで、先ほどまで脳裏に浮かんでいた彼女の笑顔はいつしか、皿いっぱいに盛り付けられた夕飯のおかずへと姿を変えてしまう。腹が減ったな。ぽつりと呟いた自分の声すら情けなく聞こえて、雨彦は苦笑しながら足を速めた。今日は、がっつり食いたい気分だ。夕飯の香りの暴力は続く。
「ん、とんかつ、か……ああ、いいな」
 衣のサクサクとした音すら聞こえるような、立体的な香りの尻尾を雨彦の鼻が捉えた。肉の香りがダイレクトに胃袋を刺激して、知らず雨彦はゴクリと喉を鳴らした。思わず彼女に電話をして、今夜はとんかつにしてくれないか、とお願いしそうになったが、この時間ではもう既に、すっかり用意は整ってしまっているだろう。またの機会でいいさ、と電車の中で入れた「もうすぐ着くぜ」の連絡を思い出して、雨彦ははぁ、と残念そうな溜め息をついた。
「千切りキャベツ、ソース、分厚い肉、衣がサクサク、っと……
 既に口の中はとんかつモードだ。からしをつけて食うのもいいな、たまにはしょうゆでさっぱり、いや、さっぱりならポン酢も捨てがたいか――。ぐるぐるととんかつを求めて鳴る腹に、やはりもう一度、ダメモトで、連絡だけでも、と思った矢先。
……ん?」
 もう間もなく、その角の先。自分を満たしてくれる自分の帰る家の手前、雨彦はふ、と立ち止まった。今最も求めているとんかつの香りが、心なしかはっきりとしてきたように感じられたのだ。まさか。にやける口元を咳払いで誤魔化して、雨彦はタッと駆け出した。

 シャンプーの香り、これはどこかで風呂に入っている奴がいるんだろう。今日も一日お疲れさん、さっぱりして明日も頑張ってくれよ。
 おっと、お前さんとこもカレーかい。香りが強いからな、目立つ。たっぷり食って夏に備えてくれよ。
 肉じゃが、いいな。お前さんの作る和食は心が落ち着く。また今度作ってもらいたいもんだな。ああ、早く、お前さんに会いたい。

 住宅街を駆け抜ける雨彦を撫でる香りが、雨彦の足跡の上で滞留する。手繰り寄せたとんかつの匂いに鼻をひくひくとひくつかせて、雨彦はひた走った。目指すはお前さん、と徐々に強くなるおいしそうな香りに、いつしか雨彦は満面の笑みを浮かべていた。ああ、やっぱり、このうまそうな匂いは、うちだったか――

「っはあ、はっ、はぁっ……
 ガチャリとドアを開けて飛び込んできた雨彦の音に、彼女は驚いてキッチンから飛び出してくる。どうしたんですか?とエプロンで手を拭く彼女をぎゅっと腕に掻き抱いて、雨彦は呼吸を整える。
「走ってきたんですか?」
「はぁ、はぁ……っああ、はは……ただいま、プロデューサー」
 くすくすと笑う彼女に背中を優しく撫でられて、雨彦は更に彼女を抱きしめる。おかえりなさい、と微笑む彼女のゆるくまとめた髪の毛からは、揚げたてのとんかつの香りがした。

「腹、減っちまったよ」

 飯にしようぜ、と上がりこんだ雨彦は、彼女の頭をポンと優しく撫でてニッと笑った。


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