「行くあてがないようでしたら、私がいただきますよ」
冷え冷えの事務所で寝てたPさんに彼シャツ羽織らせて割とすごいことを平気で言うクリスさんのお話です。
@toasdm
可愛らしい、という概念を何らかの形で出力したら、きっとこんな形をしているのではないでしょうか……。くすくすと静かに上品に、クリスは口元に手をやって目を細めて笑う。無防備なのは構いませんが、とそっと肩に着ていたシャツを羽織らせて、彼女の体が冷えないようにと、クリスは優しさて彼女を包んだ。
「……事務所というのも、案外冷えるものなのですね」
今日に限って、クリスはたまたま、珍しく、シャツにタンクトップというラフな格好をしていた。彼女にシャツを羽織らせてしまえば、自身の上半身は些か防御力に欠けてしまう。ちら、と横目で、デスクに突っ伏したままよだれを垂らして眠る彼女を見やれば、半袖のブラウスから覗いていた腕は、クリスの大きなシャツできっちりと覆うことができている。女性は体を冷やしてはいけませんからね、と目尻を下げてぐっすりと眠る彼女を観察するも、男性であるクリスだって、過度に体を冷やすのはよくない。ぶる、と一度身震いをして、クリスは彼女から少し離れた事務所のソファに腰掛けた。
「ん……ぅ」
気怠さを振りまくような寝起きの声に、クリスは目を擦る。いつの間にか、自分も寝てしまっていたらしく、苦笑を漏らして体を起こすが、全身が軋むように重く、怠い。
「お目覚めですか……」
「え……っ、え?!」
がば、と体を起こした彼女の肩から、オーバーサイズのシャツがずる、と滑り落ちて、それを慌てて抑えてまた、彼女は素っ頓狂な声を上げた。
「え、シャツ、え、クリスさん、え?!」
「体を冷やすのはいただけま、せ、っくしょん!」
「クリスさん!?」
思わず羽織り直したシャツを肩にかけて、プロデューサーは立ち上がる。ソファでニコニコとしながら特大のくしゃみをしたクリスに近づくと、彼女はシャツをクリスに返した。
「風邪ひきますよ」
「ふふ、あなたもです」
真っ白の、オックスフォードのカジュアルなシャツをふわりと羽織って、クリスは立ち上がる。事務所は冷えますね、と苦笑するクリスにつられて、彼女も困ったように笑う。
「恥ずかしいとこ、見られちゃった……」
「いいえ、とても可愛らしかったですよ」
思わず彼女の頬に手を伸ばし、クリスは口元をそっと親指で拭う。
「よだれを垂らして寝るほどお疲れだったのでしょう?」
「嘘っ?!」
すっ、と離れたクリスの親指が僅かに濡れているのが視界に入り、カッと彼女は耳まで一気に赤くする。
「うわ、うわっ、うわぁっ!!」
「ふふふ」
本当に愛らしいです、と腕に彼女の細い体を手繰り寄せ、クリスは愛おしさを全て詰め込んだように抱きしめる。ぎゅ、と抱かれた体が感じたのは、ひんやりと心地よいクリスの胸板の、しっかりとした感触だ。
「うわぁぁ……おっ、お嫁に行けない……」
気恥ずかしさに思いきり、彼女は頭を冷えた胸板に擦り付ける。よだれを垂らして寝ていたところを、よりにもよって、一番見られたくない恋人に見られてしまった羞恥が全身を火照らせる。胸板に埋めた頭をよしよしと撫で付けて、クリスは事もなさげに笑って言った。
「行くあてがないようでしたら、私がいただきますよ」
「っ?!」
言葉の意味を受け止めて、ばっ、と顔を上げた彼女を見下ろして、クリスはじっと、目線を合わせて彼女に言う。
「最も、誰にも譲るつもりはありませんが」
「な、んっ……!」
サラ、とクリスの髪の毛が彼女の両頬にかかる。自然に重なった唇から、クリスの冷たさが伝わってきて、目を見開いた彼女は伏せられた睫毛が微かに震える様を至近距離で見つめた。異なる温度が混ざり合って、ちょうど真ん中くらいの適温になった頃、クリスは目を開けて、顔を離してもう一度、穏やかに微笑んだ。
「ふふ……また、よだれを垂らしていますね」
「ひ、や、あの、あの」
バクバクと、拍動がうるさい。また親指が、彼女の口元を、優しく拭う。
「これでは、どちらのよだれなのか、わかったものではありませんね」
同じ親指で自身の口元もぎゅっと拭うと、クリスは腕の中の彼女をきつく抱きしめて、耳元で囁いた。
「……誰にも渡しませんよ。あなたの嫁の貰い手は、私です。私だけですから……」
すっかり大人しくなるしかなかった彼女を抱きしめて、クリスは髪の香りを思いきり胸に吸い込んで、そして――…。
「は、は、ハックション!!」
「わ、わっ!!」
耳元でくしゃみをされてびくりと身を強張らせた彼女に、失礼しました、と鼻をすすってクリスは恥ずかしそうに笑った。
「お恥ずかしい……」
くしゃみ以外に恥ずかしがること、それよりもっと恥ずかしい事言ってませんか?!と喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、彼女はクリスに抱きついた。
「温かいコーヒーでも、淹れましょうか」
「ええ、ふふふ。是非、お願いいたします」
二人分の恥ずかしさが満ちた事務所の中は、先程よりも体感温度を少しだけ、上げているような気がした。ティーブレイクは、ずびずびと鼻をすするクリスの音と彼女の笑い声で、ゆったりと始まった。