@toasdm
風呂は命の洗濯さ、と濡れた前髪をかきあげて雨彦は笑う。さっぱりとした顔から察するに、湯加減は最高だったのだろう。なによりも、普段縮こまって入っているバスタブの何十倍もあるような広い広い大浴場で、思う存分足を伸ばして湯に浸かれたのが相当よかったと見えて、上機嫌に鼻歌など歌いながら部屋に戻った雨彦に、彼女は冷えたビールを差し出した。
「お疲れ様です、雨彦さん」
「お疲れさん。お前さん、女なのに風呂は長くないんだな」
俺の方が後だったかい、と冷えたグラスを手に取った雨彦に、彼女はビールを注ぐ。程よいバランスのきめ細かな泡をズッとすすり、雨彦はそれを一気に飲み干した。
「ああ……死んだつもりはなかったが、生き返るな」
「ふふふ。足を伸ばしてのんびりできましたか?」
「おかげさんでな」
久しぶりの連休スケジュールとと共に彼女が雨彦に用意したのは、都会の喧騒から離れたこじんまりとした温泉宿だ。なんでも、この宿には人間の女将の他に猫の女将がいるという。譲り受けた日本家屋に住んでいる彼女の家にたまに遊びに来る三毛猫を悪からず思ってかまう雨彦の、日頃の疲れを少しでも癒せたらと思って押さえた宿で、二人は湯上がりの浴衣姿でビールを飲み、同じタイミングで似たような溜め息をついて、顔を見合わせて笑った。
「ドアは少し開けておいたらいいんだったよな」
「はい。好きなタイミングで猫の女将がお邪魔します、って言ってました」
「猫の女将ねぇ……」
自由気ままな猫が客室にふらりと入り込んで、ひとしきり甘えて去っていく。心なしか、雨彦もそれを心待ちにしているように見受けられた。気のない素振りをするでもなく、待ちわびているでもなく、ただ時折ちらちらとドアの方を伺う雨彦に、彼女はくすりと笑いをもらした。
「雨彦さん、結構猫好きですよね」
「どうだかな。ただ、猫の方はどうも俺が好きらしい」
モテモテですねとまた笑って、彼女が空いたグラスにビールを注いだ時。
「ん?」
「あ……」
チリン、と首輪の鈴を上品に鳴らして、ふくふくとした一匹のキジトラが部屋にするりと滑り込んできた。振り返る二人の顔を、一瞬お澄まし座りでじっと見つめたかと思うと、猫はそのまま悠々と部屋を歩き回る。
「可愛い……可愛いですね、雨彦さん!」
「そうかい?」
ひとしきり部屋のあちこちを嗅ぎまわった後、キジトラはスンと鼻を一度鳴らしてから、胡坐をかく雨彦の浴衣の膝にのしのしと上がり、そしてそのまますっぽりと、胡坐の中で丸くなる。まるで最初から誂えたかのような抜群のフィット感のそこで、キジトラはゴロゴロと喉を鳴らしている。
「……な?」
「むぅ……確かに、モテモテです……」
なにがどう落ち着くのか見当もつかないがな、と苦笑して、雨彦は膝の上で丸くなるキジトラを撫でつける。それに合わせて頭をぐりぐりと押し付けて、キジトラは雨彦に甘えた。
「……お前さん、助けてくれないか」
「え?」
ビールのグラスを座卓に置くと、雨彦は困り顔で彼女に助けを求める。急にどうしたのかと尋ねると、雨彦は消え入りそうな声で眉尻を下げて彼女を見つめた。
「動けない……」
「え!?」
ちょっと厠にな、ともじもじとする雨彦の膝の上から、キジトラは退ける気配がない。
「退かせばいいじゃないですか、っふふ」
「お前さんなぁ」
キジトラを撫でる手を止めずに、雨彦は膝の上に視線を落としてまた、消え入りそうなほどに小さな声で呟いている。
「退かせられると思うのかい? こんな……可愛い…………可愛いな……」
今度こそふきだした彼女の笑い声にひょっと頭を上げて、キジトラは雨彦の膝の上でのんびりとのびをしてからまた悠々と、のしのしと歩いて部屋から出て行った。
「あ……」
「あははははは、モテ期終了ですね」
名残惜しそうに伸ばした手を畳について立ち上がった雨彦は、やれやれとトイレに向かった。キジトラはどうやら、次の客室へとご挨拶に伺ったらしい。