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『ニア』試し読み

全体公開 5885文字
2018-09-02 00:03:50

2018/09/09 第六回文学フリマ大阪より頒布開始
文庫|110ページ|600円

Posted by @hanaitoka

デイライト・シグナル


 母は今の私と同じ歳には、すでに一歳の私を抱えて母親をしていた。
 体育祭の練習の合間に、文化祭に向けての準備が進められている。クラスの希望では飲食店が第一希望だったけれど、出し物の希望は三年生が優先されて、飲食店枠は三年生ですべて埋まってしまった。なので今年の出し物は第二希望だったフリーマーケットに決まった。クラスのそれぞれが売りたいものを家から持ってきて売るのだ。体のいい不用品処分だ、と決まったときに思った。そこから、なにかゲーム性を出したいというアイディアが出てきて、なぜか一部のエリアだけくじ引き式のフリーマーケットが採用された。くじを引いて、当たったものを持ち帰ってもらうシステムだ。ゲーム性は必要だろうかと思わなくもなかったけれど、文化祭の熱に浮かされて盛り上がっていたクラスの雰囲気にわざわざ水を差すことを言う必要こそなかった。こういうのはどうか、それならこうしてみるのはどうか。発言しているのはいつもクラスの中心にいる子たちで、あとの子たちは多数決のときに手を挙げることでそこに参加している。
 高校生になってから、というか、去年に十六の誕生日を迎えてから、母はこうした行事なんてできなかったのだろうなと考えることが増えた。ほんとうなら中学を卒業したあと、ここにいるみんなや私と同じように高校生になって体育祭も文化祭も修学旅行も楽しんでいただろうに、そのときにはすでに私がいたのだから。申し訳なさや罪悪感という感情はないけれど、なんとなくそんなことを考える。だからと言って、母の分まで高校生を楽しんでやろうという気持ちになることもない。それはそれ、これはこれ。母の人生と私の人生は別なのだ。

「睦実も今日帰りにスタバ行かない?」
 昼休み、お弁当を食べながら話していた流れで、紗菜は「新作のやつ飲みたいんだよね」とスマホの画面をみんなに見せた。私以外の三人がその画面を見て、おいしそうだと口々に同じ感想を言う。
「ごめん、今日だめ。早く帰らないといけなくて」
「そうなんだ。じゃあ放課後も無理そう?」
「うん。お姉ちゃん来るから」
 それだけ伝えると、紗菜は気づいてくれた。
「ああそっか、去年も今ぐらいの時期だったっけ」
 去年も同じだったクラスだった紗菜は、一年前に話したことを憶えていてくれたようだった。他の三人とは今年から同じクラスになったので当然なんのことだかわからず、そうなんだ、とだけやはり口々に同じ感想を言った。
 文化祭一ヶ月前から、放課後に準備をするための居残り作業が許可される。だいたいのクラスはこの時期から集中して準備を進めるのだけれど、ちょうどこの時期に両親の結婚記念日旅行がある。金曜日を含んだ二泊三日、両親が家を空けることになる。そしてその三日間は私にとってすこし特別な三日間になるのだ。



 家に帰ってまずやることは、洗濯物をまとめて洗濯機へ放り込み、回すこと。それから掃除機をかけること。外に干してあった昨日の洗濯物を取り込んでたたむこと。それらを夜の八時までに済ませておかなければいけない。そうしろと言われたことはないけれど、今日から三日間この家に景ちゃんが来るので、きちんと片づいたきれいな家で出迎えたかった。
 両親は今日の朝から例年通り結婚記念日旅行へ出かけていった。三日分の生活費を置いて、お土産の約束をして、火の元と戸締りだけはしっかり気をつけてと再三言い聞かせて。今年で五回目になる結婚記念日旅行へ、母はうれしそうに旅行中に着る服をあれこれ着ては私に意見を求め、お気に入りの服を鞄に詰めこんで出かけていった。
 両親がいない間、この家には景ちゃんが泊まりに来る。母が結婚したときからすでに家を出てひとり暮らしをしていた景ちゃんは、父の連れ子だ。つまり私たちには血の繋がりがない。一緒に暮らしていないからほとんど家族としてのつながりもない私たちを、両親はこの三日間だけふたりきりにさせる。まだ未成年である私をひとりで置いておけないという理由をつけて。
 洗濯物をすべてたたみ終えたタイミングでエントランスのインターホンが鳴る。リビングの壁に取り付けられたモニターを覗くと、芥子色のニット帽を被った女性が立っていた。帽子の下からわずかに短い黒髪の先が見えている。顔をエントランス扉のほうへ向けているので、モニターにはその横顔が映し出されていた。
「はい」
『むっちゃん、来たよ』
「はぁい」
 鍵を渡されているのに、景ちゃんはいつもインターホンを鳴らす。いつまでもお客さんみたいに。
 エントランスの鍵が開く音が聞こえるとモニターの画面から景ちゃんの姿は見えなくなった。七階までエレベーターで上がってくる間に、たたんだ洗濯物を片づけておく。リビングのソファやテーブルの上、キッチン、ダイニング、お風呂、トイレ、全部をひと通り確認している間に今度は玄関のインターホンが鳴った。頑なに鍵を使おうとしない。
 昔から母に何度も言われていた。扉を開ける前には必ず覗き穴を使って確認しなさい。ずっと幼いころから習慣付いている癖を、相手がわかっていてもきちんと守る。丸い視界の向こうで、さっきモニター越しに見た姿と同じものが見える。
「おかえり景ちゃん」
 そう出迎えた私に、景ちゃんは「お邪魔します」と答えた。
「髪伸びたね」
「でしょ。今がんばって伸ばしてるんだ」
 ニット帽を脱いだ景ちゃんの髪は静電気でぼわっと小さな爆発をした。男の子みたいに短いその髪を片手でざっくり整えながら、三日分の着替えが入ったボストンバッグをソファの上におろす。
「むっちゃんは長いほうが似合うと思う」
「やった、じゃあもっと伸ばそ」
 初めて会ったときから景ちゃんは今の短い髪型で、それがとても似合っていて憧れた。その影響でショートヘアに何度か挑戦をしてみたものの、どうも私にはしっくりこなかった(家族や友だちはほめてくれたけれど)。景ちゃんが言う通り、長いほうが合うのかもしれない。
「景ちゃんは伸ばさないの」
 ソファに置かれたボストンバッグを両手で拾い上げて、私の部屋へ運び入れながら訊いてみる。父に見せてもらった昔のアルバムに髪を腰まで伸ばした景ちゃんの写真があったから、いつか機会があれば訊こうと思っていた。スカートを履いて頭にリボンをつけて、今の印象とはずいぶん異なる姿だったからよく憶えている。写真の隣に『景佳 四歳』と、おそらく景ちゃんのお母さんが書いたと思われるきれいな文字が記されていた。
「伸ばさんよ」
「そっかあ、見てみたかったのに」
 バッグを置いてリビングに戻ったときに、ちょうどお腹がぐううと鳴った。
「夜ごはんまだ食べてないよね」
「うん、食べんと来た。手伝うよ」
「あ、景ちゃんは座ってて。テレビ好きなの見てていいから」
「ん……じゃあ片づけはやるね」
 いつもの役割分担を確認して、キッチンに立つ。
 景ちゃんはひとり暮らしをしているからひと通り家事はできるのだけれど、料理があまり得意ではない。あまりというか、たぶん苦手。初めてふたりで三日間を過ごした一年目、夜ごはんを作ってくれるという景ちゃんに任せていたらキッチンが火事一歩手前の大惨事になったことがある。後に料理は昔から得意ではなかったという話を父に聞いて、それは事前に言っておいてほしかったと苦情を入れた。ふだんどうやって生活しているのだろうとすこし心配になる。毎日外食やコンビニやお総菜なんかで済ませていたらどうしよう。
 にんじん、たまねぎ、キャベツ、豚肉をそれぞれ切っていく間に、リビングからテレビの音が聞こえはじめる。
 食生活を心配した父が何度か一緒に住まないかと話をしたそうだけれど、景ちゃんは頑なに断り続けていた。母はそれを自分がいるせいだと思っているようだが、たぶん違うと思う。どちらかといえば、避けているのは父のほうかもしれない。母が連絡をしても返事をちゃんとしてくるのに、父が連絡をするとまったく無視されてしまうらしいから。父から、せめてもう少し顔を出すように伝えてほしいと言われているものの、どちらの味方をするかと問われたら即答で景ちゃん側につきたいので、その要望にはお応えできそうにない。
 豚肉をフライパンで炒めはじめたタイミングで景ちゃんがなにか声をかけてきた。じゅう、と油の弾ける音で聞こえなかったから聞き返すと、もう一度、次はすこし大きな声で言う。
「今年はなにやるん、文化祭」
「フリーマーケット。ほんとうはフランクフルト屋さんが第一希望だったんだけど」
「フリマかあ。それってむっちゃんたちが出品するってこと?」
「そうそう、いらないものを持ってきて売り物にするんだよ。服とか、本とか、なんでも」
 お互いに声を張って会話しているうちに疲れてきたのか、ソファから立ち上がってキッチンカウンターに寄りかかってきた。見られながら料理をするのは慣れていなくて、指先から全身がぴりっとしてしまう。鶏肉の焼ける白い煙越しに景ちゃんの顔が揺れている。
「もうなに出すか決めたん」
「着なくなった服とか、もう読まない本をいくつか持って行こうかなあって思ってるところ。あと、なんかくじ引き式のフリマエリアもある」
「なんなん、それ」
「そのまんま。くじ引いてもらって、当たったものを買うっていうシステム」
「ふうん……縁日のくじ屋さんみたいやね」
 懐かしいなあ、文化祭。
 カウンターに頬杖をついて、私の手元を見ながら呟く。たしか去年も文化祭の話をして、おなじことを言っていた気がする。
 景ちゃんは高校生のとき軽音部に所属していた。文化祭は軽音部にとっていちばんの晴れ舞台だったらしい。もともと友だちに誘われて入っただけでそれほど音楽がすきだったわけでもなく、どちらかといえばあまり目立ちたくもなかったそうだけれど、その意に反して所属していたバンドはわりと校内での評判がよかった。高校三年のときに軽音部ライブのトリを飾ったのだとか。その当時の写真を見せてとダメ元でお願いしてみたがやっぱり断られた。景ちゃんは写真がすきではなくて、撮った写真のほとんどを処分している。卒業アルバムも幼稚園の分から処分して手元に残していない。父がだいじにしている数冊のアルバムしか、私の知らない時代の景ちゃんを知る術はなかった。

 肉野菜炒めと焼き魚、お味噌汁、白ごはん、という食堂の定食みたいなメニューでテーブルを囲む。私だってひとのことを言えるほど料理が得意ではないので、「いただきます」から相手が料理を口に入れて食べる瞬間までは緊張して食事どころではなくなる。
 じ、と景ちゃんのきれいな箸使いを見て、食べたものが飲み込まれるまでを見届けてからようやく手をつけはじめるのがいつものことだった。景ちゃんは味のことを言葉にしないひとだから、口に合っているのかそうでないのかは実際のところよくわからないのだけれど、出したものはすべてきれいに食べてくれる。
 食事をしていると私たちの間から会話はなくなっていって、その沈黙をテレビの声たちが一生懸命に埋めてくれる。食べながら喋るのが苦手なのだと父が教えてくれるまで、なにか機嫌を損ねてしまったのだろうかとよくハラハラした。
 夜ごはんのあと、片づけをしてもらっている間にお風呂を済ませる。片づけを終えた景ちゃんが次にお風呂を使う。三年目あたりからは決めなくても自然と順番ができていた。湯船に浸かりながら、実際の姉妹たちはどんなことを話すのだろうと考える。景ちゃんが来る一週間前から、湯船での私のテーマはそればかりになる。
 私たちは姉妹というよりもまだほとんど他人に近い。お盆とかお正月とかにある親戚の集まりでそのときだけ顔を合わせる親戚のお姉さんよりも、学校の友だちよりも、ずっと遠い他人だった。
 紗菜のところは兄がひとりと妹がひとりいて、よく話を聞くことがある。兄はすでに家を出ているからあまり話に出てくることはないけれど、妹とはしょっちゅう喧嘩をしている。歳が近い分、ちょっとしたことで喧嘩になるらしい。
「菜々美のやつ、またあたしの服勝手に着ててさあ」
 という話を聞くたびに、内心すこしうらやましいと感じる。勝手に持っていかないでほしいよねなんて口では同意をしながら、心の内では、いいなあ、と言っている。
 私だって景ちゃんの服を着てみたり、喧嘩をしてみたりしたい。だけど景ちゃんはきっとそういう面倒なことがすきではないだろう。もうおとなだから、私のわがままなんかあっさり受け入れられるだけの余裕を持っていて喧嘩にすらなりそうにない。それにそうやってわがままをぶつけていけるほど、私たちは近くにいなかった。

 夜は私の部屋に景ちゃん用の布団を敷いて眠る。前日までに天日干しでふかふかにしておいた専用の布団だ。母とふたりで布団用のカバーを買いに行ったとき、母がかわいらしい淡いピンクの花柄を買おうとしていたのをすぐに止めて、紺色の無地を勧めた。不満そうにした母を押し切って選んだそれは、私が思ったとおり景ちゃんによくなじんでいた。少なくとも花柄よりはずっといい。
 私はベッドに横たわり、景ちゃんはそれに背を向けて眠る。たとえば友だち同士でお泊まりをしたときなら、眠るのも惜しいくらいどちらからともなく言葉が溢れてくるのに、そんな声はどちらからも溢れない。布団に入るとふたりとも静かになってしまう。私はもっと話したいのだけれど、景ちゃんがなにも言わなくなるから声をかけることができない。もともと寝付きはよいほうなのに、この三日間はどうしても、先に景ちゃんの寝入った息が聞こえないと眠れなかった。寝言がうるさいことも寝相がわるいこともなく、ただ静かに眠りに入っていく呼吸を傍で聴いているうちに、それに引っ張られるようにしてすうっと睡眠に沈み込んでいく。夢はいつも見ない。
 たった三日間しかいっしょにいられないから、話したいことはたくさん、両手からこぼれ落ちるほどあるはずなのに、それらは伝える前に消えていってしまう。ひとになにかを伝えるのはこんなにも遠くてむずかしいことだと、景ちゃんに出会うまで私はちっとも知らなかった。


《続》

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『デイライト・シグナル』より抜粋


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