@ayame0601s
このまま、鶴丸と。
言われた言葉を頭の中で復唱する。まさかそんな事を言われるとは想定していなくて、動揺から理解がほんの少し遅れる。
このまま、鶴丸と一緒に。
あの兄弟から離れて。
「きみが一緒に来てくれるなら、安心するからな。そうしてくれたら、もう彼らに近づく必要がなくなる」
「そう、なの?」
「ああ」
鶴丸はきっぱり言う。
正直、混乱していた。彼の口から出てくる情報が頭の中でもつれ合い、そこから生まれる感情が胸の中で絡み合う。
気持ちの整理が追い付かない。それに、どこか引っ掛かるものもあった。
あの兄弟は、本当に鶴丸の、親の仇なのだろうか。
そうなると、その問題は。たとえば私が鶴丸について行ったとして、その後は。仇を討つなんてつもりは、全くないのだろうか──。
質問しようとして、出かけた言葉を呑み込んだ。この質問は危ない。あの兄弟を吸血鬼と仮定するからこそ、その姿が変わらないものと仮定するからこそ、成り立つ質問だからだ。
鶴丸が両親を亡くしたのは、彼が幼い頃だと聞いている。
私達と見た目年齢がそこまで差の無いあの兄弟が、普通、当時の仇だとは考えにくい。人間なら。
「光坊だって居るんだ。毎日、美味い飯を作ってくれるぞ」
そう言ってニッと笑うものだから、つい釣られて頬が緩んでしまった。先日の電話で、光忠の所にいると言っていた言葉を思い出す。
鶴丸と光忠と、私と。
彼らの性格はよく分かっているため、安心感はある。それに楽しいだろう。
そもそも、あの兄弟から逃れたいと思った事は、何度もあった。今まで感じた事のないような恐怖を経験し、監視された息苦しい生活。常に命を握られているという、恐怖の対象以外の何ものでもないはずだった。
もし、誰かに助けて貰えるのなら。その救いの手を、今、鶴丸が伸ばしてくれている。
「わ、たしは……」
声が震える。
もしこのまま鶴丸の手を取ったなら、どうなるのだろうか。
頭を必死に動かして、想像を働かせた。鶴丸は、私の答えを待っている。
見慣れたその黄金色の瞳は、今まで見た事がないほど真剣で、切迫したものだった。
「私は……行、かない」
行けない。出そうになった言葉をすり替える。
行けない。行けるはずがない。仮に、鶴丸と一緒に行く形になったなら。あの兄弟から離れる、なんて生易しい表現ではすまない。
あの兄弟から逃げるという事。
そんな事をしたら、殺される。確実に。
私は、あの二人の事を知りすぎてしまっている。
「鶴丸、心配してくれてありがとう。私は、何も酷い事なんてされてないよ」
あの兄弟だけじゃない。鶯丸の事もそうだ。存在が知れる事を危険としながら、私にこれだけ明かしているのは、私をいつでも殺せるからだ。
どんな事をしてでも。手段を選ばず。
そうなったら、鶴丸について行った時、もちろん一緒にいる鶴丸も……光忠にまで、危険が及ぶはずで。
その結論に至れば、思った以上に冷静になってしまった。
「それに私は、無理やりあの二人と居るわけじゃない。私が望んで、二人と居るんだよ」
鶴丸は目を見開く。その後、疑わしげに眉を寄せた。
私は今、どんな顔をしているのだろうか。上手く笑えているだろうか。分からない。けれどもう、あまり気にならなかった。
私は、鶴丸とあの兄弟を天秤にかけて、兄弟を取ったのだ。自らの意思で。
その選択が、一番いいはずなのだから。
「きみこそ、正気か?」
鶴丸の瞳に、明らかな心配の色が浮かぶ。
彼のその、何でも見透かしてしまうような瞳が怖かった。けれど、だからこそ今、彼はその瞳で私の決意を感じ取ったのだろう。
鶴丸はまるで引き留めようとするかのように、私の名を呼ぶ。
「なあ、きみは人間だろう」
その声は芯の通った、私に言い聞かせるようなものだった。
「彼らと俺達は違う。そうじゃないか」
鶴丸はじっと私を見据える。目の前の友人は、私の事を心から心配してくれているのだ。まだ間に合うから、この手を取れ、と。真剣な眼差しから、そう促されているように感じた。
胸の詰まる思いがする。
──鶴丸、ごめん。
友人のその伸ばされた手を振り払うように、頭を振った。
「私達は人間だし、彼らも、人間だよ」
押し通す。吸血鬼なんておとぎ話の存在なのだと。空想の産物だと。
おそらくほとんどの人間がそうであるように、「常識」とされる固定観念を貫き通す。
鶴丸は口をつぐんだ。次に発する言葉を探すように、あるいは頑なな私の真意を探るように、険しい顔つきで見返してくる。
沈黙が落ちる。
レストラン内の音楽だけが、私達の心境を無視して、穏やかに流れている。
「それなら、俺は──」
鶴丸が口を開いた、その時だった。
個室のドアを叩く音が、鶴丸の言葉を遮るように鳴り響く。
コンコン、という木製の小気味良い音は、この狭い室内にやたらと反響した。
鶴丸は訝しげに、ドアへと視線をやる。つられるように、私も目を向けた。
扉は開かない。こちらの返答を待っているようだった。コンコン。もう一度、戸が音を鳴らす。
「どうぞ」発した鶴丸の声は落ち着いていた。
「お食事中、失礼いたします」
姿を現したのは、先ほどの案内人だった。案内人は鶴丸の位置を確認すると、人一人分開かれたドアから一礼した。
「申し訳ございません。今、よろしいでしょうか」
そう断りを入れたその言葉から、取り込み中だと感じた事が窺えた。
それはそうだろう。本来なら向かい合って食事をしているはずの鶴丸が、私のすぐ隣で、しかも膝をついているのだから。
それをどことなく気恥ずかしく思う私に反して、鶴丸から警戒心が伝わってきた。
「食事中は、邪魔をしてほしくないと言ったはずだが」
鶴丸の言葉に若干の棘がある。それは怒っているわけではなく、神経を尖らせているように感じた。
「大変申し訳ございません。五条様にどうしても用事があると、仰られている方が」
案内人は申し訳なさそうに言う。
「五条様が無理なら、シェフでも良い、と……。それを伝えてほしいと言われまして」
続けたその言葉に、鶴丸が微かに反応する。こちらに伝わるほどの緊張感に、息を呑んだ。
ただ事ではないのだろう。鶴丸の纏う空気が、確かに変わった。
張りつめた雰囲気に、嫌な予感が生まれる。
「名前は?」
「それが、ただその事だけ伝えてほしいと仰られてまして」
「その人は、今どこに?」
「受付でお待ち頂いています」
「……それなら、こちらから伺うと伝えてくれますか」
鶴丸は静かに言った。声のトーンは明らかに低い。
鶴丸の言葉に、「かしこまりました」と案内人は頭を下げる。そしてこの場を去ろうと方向を変えた直後、何かに気付いたように唖然する横顔が見えた。
「お客様、今そちらへお伺いしようと……」
案内人が、誰かに向かって口を開く。開け放たれたドアからは、案内人の目線の先が見えなかった。
鶴丸から伝わる緊張が濃くなる。それともこれは、私自身の緊張かもしれない。
時に、直感は驚くほどよく当たってしまう。
「ああ、すみません。見学させて頂いていたもので」
声が、耳に届く。
「面会の承諾を得られたようで安心しました。あとは大丈夫ですので。ありがとうございます」
穏やかなその声色に、心臓が警報を鳴らすように速くなっていく。
鶴丸はゆっくり立ち上がった。そして声のする方を注視する。
案内人は私たちを交互に見ると、どうすればいいのか迷っているようだった。けれど結局頭を下げて、その場を後にした。
そのすぐ直後、すでに開いているドアをノックすると共に、客人は姿を現した。
「食事中に悪いね。邪魔するよ」
口元に笑みをたたえたその人は言った。目を細めるその表情は、一見すると柔らかく見える。
髪を片耳にかけ、ワイシャツにVネックのセーターというその姿は初めて見るもの。しかし片手にまとめたキャメルのトレンチコートは、見覚えがある。
──なぜ、ここに。
疑問の言葉は外に出すつもりもなく、胸の中で留まる。懸念していた最悪の事態に、血の気が引いた。
なぜも何もない。
彼は、私の後をつけたのだろう。
「ああ、そうだな。悪いと思うなら、気を遣ってほしいもんだ」
鶴丸が言う。斜め前に立つ彼の唇は、弧を描いていた。
鶴丸は、この状況でも笑みを作る。けれどそれは、入り口に佇む人物も同じだった。
この場の空気が一気に張りつめる。
「まあ、そうしたいのは山々なんだけど」
コツ、と靴の音がやけに響いた。
「せっかく会えたんだ。挨拶をしておこうと思って」
髭切は一歩、部屋へと歩みを進める。それと同時に、鶴丸の肩がほんの僅かに揺れた。髭切は鶴丸の様子を観察した後、笑顔を保ったまま続けた。
「弟が世話になったね」
途端、ぞくりと冷たいものが背中を走る。全身に鳥肌が立ち、内臓が締め付けられるような感覚。
髭切は鶴丸から視線を外さない。微笑も崩さない。けれど彼から発せられる空気が、非情な雰囲気を感じさせる何かが、背筋を凍らせる。
鶴丸をちらりと見上げる。彼は、私とは反して平然としていた。鶴丸は恐怖心などないのだろうか。それどころか、彼は口角を更に上げると、冷ややかに笑った。
「あれはきみの弟か。随分とやんちゃ坊だな」
「そう? それを言うなら君もだろう。それに」
髭切は鶴丸を覗きこむように小首を傾げる。
「大分、詮索好きだね」
その声は挑発的だった。詮索、という言葉に、鶴丸へ視線を向ける。
鶴丸は、一体いつから──。
「その言葉、そっくりそのまま返すぜ」
対する鶴丸も、皮肉っぽく返す。
「詮索好きは、お互い様だろ?」
鶴丸のその言葉に、髭切は、ふふっと微笑を溢した。
「知ってたんだ?」
「まぁな」
「随分探したよ。あぶり出しても良かったんだけど、今はあまり目立つ事をしたくなくてね。ただ、詰めが甘いなぁ」
そう言って、髭切は視線だけを私へ向けた。反射的に身体が縮み上がる。
髭切はそれ以上言わなかった。けれど何を言いたいかは、痛いほど伝わってくる。
鶴丸と髭切を会わせたのは、私のせいだ。
「で?」鶴丸が口を開く。
「俺を殺しに来たのかい」
「そうだね。本音を言うなら」
髭切は鶴丸から視線を外すと、背後のドアノブに手をかけた。それとほぼ同時に、鶴丸の腕がポケットへ向かって静かに動くのが、視界の端に映る。
「ここで殺り合うつもりはないし、よく考えた方がいいよ」
こちらを見ずに髭切が言う。パタン、とドアの閉まる音が部屋に響いた。
「カメラ」短くそれだけ言うと、顎で軽く指し示す。カメラ──防犯カメラの事だろう。思わずそちらを見ようとして、ぐっと堪えた。
鶴丸は終始、髭切から視線を逸らさない。
「それなら、何しに来たんだ」
鶴丸は低く唸るように言う。
「本音を堪えた交渉。と、忠告」
そう言いながらこちらへ近づいた髭切は、鶴丸の目の前へ来ると立ち止まり、ズボンの後ろポケットから何やら取り出した。
紙……いや、写真だ。それを鶴丸に見せる。
座っているこちらからだと、その写真に写っているものは見えなかった。
鶴丸はしばらく凝視した後、奪うようにそれを取った。
「──っ」
「ねえ。それ、鬱陶しい。雇うならもう少しマシなのにしなくちゃ」
「……」
「まだ何もしてないけど、君の返事次第かな」
二人の会話が見えない。けれど嫌な予感はじわりと伝わってくる。
『生け捕りにしようか』
いつか髭切が言っていた言葉が、唐突に頭を掠める。あの時は、カルト集団に対してだったけれど。彼らは、「生け捕り」という行為を、平然とやってのけるのだ。
鶴丸は、写真へ落としていた視線を静かに上げる。動揺が見られたのは、髭切から写真を奪い取るその瞬間だけで、すぐに落ち着きを取り戻したように思えた。
「交渉内容は?」
「もう僕達を詮索しない事。一切。あいにく、君達に構っている暇がなくてね。そうすればその写真の彼もそのまま返すし、君の懸念する事もしないでおこうか」
そう言って、髭切は私を見下ろす。その一瞥は冷たい。
「ああ、あと、ここのシェフ」
「シェフ? 関係ないだろう」
「最近新しく入った子がいるみたいだけど、男前だねぇ。歳は同年代くらいかな」
言いながら、右目を隠す動作をする。それを見て、まさか、と脳裏に一人の人物が浮かび上がった。
男前、同年代、……隻眼。
そもそも、私の料理はわざと味がおかしくされていた。そんな事、いくら鶴丸がここの常連とはいえ、通用する要求なのだろうか。
もしその料理を作ったシェフが、鶴丸の知り合いなら。それも、要求を承諾できるほどの仲なら。
まさか、光忠……?
鶴丸を見やる。その際、拳を強く握っている様子が視界に入った。見上げれば、ここから見える横顔は、笑みなど一切ない。
「どうかな。悪くないだろう?」
髭切の声は終始落ち着いたものだった。その冷静な態度が、彼の冷たさをより一層、強調させて見える。
鶴丸は静かに息を吸い込んだ後、口を開いた。
「分かった。いいだろう」
低い声だった。その表情に、不快の色を滲ませている。
「よかった。交渉成立だ」
髭切は微笑むと、「さて」と続けて私を見た。彼に視線を向けられるたび、身体は畏縮してしまう。
「帰ろうか。おいで」
そう言って、顎を軽く引いて隣に来るよう促した。
思わず鶴丸へ目を配らせようとして、ぐっと堪える。まるで鶴丸に頼るような素振りは、見せない方がいいだろう。
ゆっくり立ち上がって、髭切の元へ近づく。怖い。これから、どうなるのか。この感覚は、彼らと出会って間もない頃に抱いたものと、全く同じだった。
髭切の隣まで行くと、彼はふと私の胸元に視線を落とす。
「おや……それ、どうしたんだい?」
目線を落としたまま問われ、何の事かと、私も自分の胸元を見た。そしてハッとする。
鶴丸につけられた十字架のネックレスが、光を反射していた。
「俺が彼女にあげたんだ。ただのネックレスだ、問題ないだろう?」
鶴丸が言う。それは髭切を挑発しているようなものだった。
十字架──吸血鬼が苦手とするもの。確か、以前に髭切も言っていた気がする。そしてこれも、きっと銀で出来たものだろう。
髭切はネックレスを見つめながら「へぇ」と微笑を溢す。
そして私の首元からネックレスの下へと手を滑り込ませ、撫でるようにそれをすくい取った。
「もちろん問題ないよ。素敵じゃないか。その辺の安物と全然違う」
目を伏せて微笑むその表情は、とても穏やかなものに見えた。
彼は素手で、おそらく銀の十字架を撫でている。
その様子に不自然なところは何もなく、「それじゃあ」と言いながら、彼は静かに手を離した。
「僕達はもう行くよ。約束、忘れないでね」
髭切は鶴丸へ向かって言う。その時、私の手にヒヤリとしたものが触れ、びくりとした。髭切の手だった。彼は私の手を握ると、踵を返してそのまま引いていく。
去り際、鶴丸を見やる。
眉を寄せた彼は目を見張り、腑に落ちないものを見ているかのような表情を、私達に向けていた。
髭切にそのまま手を引かれ、レストラン内を足早に歩いていく。入り口にいた案内人が私達を見て驚き、何かを言いたげな顔をしていた。けれど案内人が口を開く前に、「もう話は終わりましたので」と髭切が横目で言って過ぎ去る。結局何も言葉は飛んでこなく、そのままレストランを出た。
髭切の速い歩調に、小走りでついていく。握られた手は冷たく、痛いほど強いものだった。怖い。けれどもう、ただついていく事しか出来ない。
停車している一台の車へ近づくと、髭切は助手席を開け、そこへ私を強引に押し込んだ。バタン、と強く閉められたドアに、身体が竦む。その些か粗暴な行為は普段の彼から想像がつかず、まるで怒りをあらわにしているかのようだった。
恐怖心が膨れ上がる。その後、運転席へ乗った彼はドアを同様に閉めると、いきなりうずくまった。
頭を垂れる彼は、袖を粗雑にたくしあげると、自身の右手首を強く握る。
耳にかけていた髪がさらりと落ち、その直前に見えた彼の横顔は、何かに耐えるような苦悶の表情を呈していた。
突然の事に驚き、唖然とする。どうしたのかと、ふと彼の手元へ視線をやって、息を呑んだ。
彼は左手で、自分の右手首を強く握っている。その右手首から腕へ向かって、黒い幾つもの筋が広がっていた。
それはまるで、血管の走行に沿うかのように──血管自体が黒く染まっていくかのように、どんどん上へと広がっていく。
目の前の光景が信じられず、言葉を失った。話しかける事なんて到底出来ず、ただただその様子を見守るしか出来ない。
黒い筋が走る右手も、それを握る左手にも力が入り、ひどい痛みを伴うのか小刻みに震えていた。
髭切は浅く息を吐き出す。それは、あまりにも苦しそうなもので。どうすればいいのか狼狽えた。けれどやはり見ている事しか出来ない。
しばらくすると、彼は大きく深呼吸した。その息は、微かに震えている。
「あ、の……大丈夫、ですか」
恐る恐る声をかける。黒い筋は、その広がりを止めているように見えた。
髭切は息を整えるようにもう一度深く呼吸をすると、ゆっくりと顔をあげ、静かにこちらを向く。
彼の頬に汗が伝い、表情は疲れきったような、けれどひどく冷めたもの。その様子に緊張したのも束の間、彼は嘲るかのように薄く笑った。
「やってくれたね」
鼻で笑うように言うも、声色はどことなく弱々しい。何に対して言われているのか確証が持てず、返事が出来なかった。
髭切はシート凭れて脱力すると、息を深く吐き出す。
「なるほど。彼はやっぱり危ないな」
呟く独り言に、不安が広がる。鶴丸の事だ。彼をどうこうするつもりなのだろうか。
けれど先程交渉したばかりのはず……と、交渉内容を必死に思い出して、気付いてしまった。
鶴丸が髭切達を詮索しない代わりに、交わした約束は。
そこに、果たして鶴丸の身を保証するような事を、髭切は言っていただろうか。
「君はさ、彼の事より自分の事を心配した方がいいんじゃない?」
ちらりと、私に視線を配って言った。一瞬のその視線は射るように鋭く、投げつけられた言葉の意味を理解した途端、不安と恐れの気持ちが心臓を締め付ける。
髭切はポケットから携帯を取り出すと、電話をかけ始めた。
「そっちはどう? ……うん。そっか。了解」
短いやり取りで終わり、彼は電話を切る。
電話先は、膝丸だろうか。そっちは、とは、一体……。
鶴丸は、大丈夫だろうか。
髭切は車のエンジンをかけ始める。ハンドルを握る右手にはまだ黒い筋が残っているものの、その色はだいぶ薄くなっていた。
彼はもう何も言わない。車を発進させ、エンジン音だけが耳に届く。
口を閉ざして車を走らせる彼から静かな怒気を感じて、膝の上で握る手の震えが止まらない。
なんとか鶴丸を遠ざけたい一心で起こした行動は、最悪の結果になってしまった。