「誰もいませんから……ね?」
カフェオレのCMに出ることになったクリスさんと、カフェオレでほっと一息つけると思ったら大間違いなお話です。
@toasdm
自然光に近い照明が、ベッドルームを模したスタジオに据えられた、窓枠のレースのカーテン越しに降り注ぐ。床に張られた明るい木目のフローリング素材にクリスさんが素足で降りて、歩く動作に合わせてカメラがスライドレールの上を滑る。
場所を移してキッチン、真っ赤なケトルが湯気を上げ、クリスさんはそれを手に取ってあちち、と熱そうな演技をする。実際は、そんなに熱くはないはずだ。ケトルのカラーに合わせた真っ赤なカップにサッとパウダーを入れて、ケトルからカップに湯を注ぎ、スプーンでくるくると混ぜる。
さらに場所を移してダイニングテーブル、肘をつき、両手でカップを持って傾けて、一口すする。ほぅ、っと吐いた息がカップから立ち上る湯気を向こう側へと穏やかに流して、クリスさんは髪の毛を耳にたおやかにかけてにこりと微笑む。そこで、オッケーです!の声が響き、スタジオ内の緊張感が一段階落ち着く。
「お疲れ様でした!」
「はぁ……緊張しましたよ」
くすくすと、まだほんのり緊張感を残したクリスさんが、カップを片手にセットから降りてくる。ベッドルーム、キッチン、ダイニング、全てがひとつのスタジオ内に組み立てられたそこそこ広い空間で、クリスさんのいるところだけが輝いて見える。本人が気付いているかどうかはわからないけれど、クリスさんはただそこにいるだけで、アイドルなんだなぁ、と実感した。
「この後はナレ録りですね」
「ええ、ざっとVTRを確認してから、問題がなければ録音です」
出来が気になるのか、先ほどからクリスさんはちらちらとモニタを確認している。映像監督がこちらに気付いて、両手で大きな丸を作って合図してくれたから、多分オッケーなんだろう。私はクリスさんと顔を見合わせて、モニタの前に向かった。
「なるほど……」
仮編集された映像はたった三十秒程度のものなのに、クリスさんの魅力も、コマーシャルのインスタントカフェオレの魅力も十二分に伝わってくるような、素晴らしい出来だった。三十分の休憩の後にナレ録りです、と指示が出て、クリスさんはスタジオの隅のソファに腰掛けた。
「これ、美味しいんですよ本当に」
コマーシャルの為ではなく本当に美味しそうに、クリスさんはカフェオレをすすっている。
「苦味と甘みのバランスがよく、ミルクのコクも感じられるのです」
同席しているメーカー担当者さんがパッと顔色を明るくして、すぐ手配します、とスタジオを出て行く。
「ふふふ、もしかしたら商品のおすそ分けがあるかもしれませんね」
「本当ですか?! だとしたら、とても嬉しいですよ!」
自腹で箱買いするつもりでいました、とはにかんだように微笑むクリスさんの為に獲得してきたこの仕事は、カメラが苦手だと言うクリスさんが少しでも緊張せずに済むように、とスタッフを最少人数で回してもらっている。私なりの配慮だ。気がつけばスタジオには、私とクリスさんだけになっている。
「プロデューサーさんもおかけになりませんか?」
「あ、いえ、私は、えっ!?」
少しくらいなら大丈夫ですよ、と立ったままの私の腕を引き、クリスさんはやや強引に私を隣に座らせる。
「誰もいませんから……ね?」
耳元で甘く囁くクリスさんの吐息は、ふんわりと甘いコーヒーの香りが漂っている。
「あなたも一口いかがですか?」
言ってカップを差し出すクリスさんに肩を抱かれて、私は緊張で目線が泳ぐ。
「あ、でも、あの、間接キス……」
「そんな……ふふ」
でしたら、とクリスさんはカップに口をつけて、私をさらに引き寄せて、そして――…。
「ん、っ!?」
甘い熱が唇から、ゆっくりと喉に注がれる。思わず見開いたままの目に意識を集中すると、軽く上から覆い被さるようにクリスさんが、私のことをじっと、妖艶な目つきで見下ろしている。
「…………間接ではなく、直接なら問題ないでしょうか?」
ふふ、と悪戯そうに微笑んで、ゆっくりと顔を離したクリスさんが私を解放する。
「こ、こっちの、方が、問題あるかと」
「おや、そういえばそうでしたね」
悪びれた様子のないクリスさんが残りのカフェオレを飲み干して、テーブルにカップを置いたのとほぼ同時に、スタジオに人の気配が戻ってきた。慌てて立ち上がり頬の赤みを隠すようにずっと、カフェオレのパンフレットを読んでいた。
クリスさんは、ニコニコしながらそんな私を見ていた。ナレ録りは、すぐ、始まった。