@kyuri_akita
「あつい」
そう口からぽろりと零れた。
「そうだねえ」
笑い混じりの言葉は諦観を含み、ことさら反抗の意思はなかった。
仕方ないという言外の意味を悟り、彼は小さく息をつく。
じわりと立ち込める湿度によって、体感気温は実際の気温よりも高いに違いない。それを忌々しく思いこそすれ、歓迎はできそうになかった。仮に夏はそういうものなのだとしても、ただ熱い空気の中では納得する理由を探すのさえ難しくさせる。
慣れない空気には呼吸さえつまりそうだった。熱い空気は、すぐになれるような類のものではない。
空気中に立ち込める水分の多さが、暑さを際立たせていた。
水分は空気に多く含まれるだけで、息さえ苦しくさせるような気がした。窒息に似た熱気は絞殺のようで、外界の殺意は凶悪だった。
それはゆるやかに首が絞められているような。
あるいは水の中に落ちたような。
入水してしまった体は、空気を欲したところで息さえできない。捉えどころはなく、息さえままならぬ暑さは臓腑から空気をなくすようだ。
たらりとこめかみを伝う汗を拭くことさえ億劫になる湿度だった。
じりじりと昼になるにつれ増す湿気に、ぼんやりと川を眺める。きらきらと光る水面はそれだけで十分に太陽の機嫌の良さを感じさせる。とはいえ、その機嫌の良さも、悪さを知らねばひたすらに忍耐を必要とした。
「夏だもん」
しかたないね。
そういう彼の言葉に異論はなかった。
夏。
夏である。
空には目が眩みそうな鮮やかな青が広がっていた。
隣にいる少年は、太陽の下でも苦労した様子もなく笑う。
そのことが、なぜかいつも見慣れないものを見るような気分にさせるのだった。
その理由をきちんと彼は把握することができずにぼんやりとしてしまうのだが、一番の理由は、彼自身がこの暑さに一向に慣れないせいだろうと思っていた。
彼はといえば、外にいるだけで目眩がしそうなほど労力を割いている。外にいること自体がひどく体力を消耗させていた。
だからこそ。
なるほど、あそこはずいぶん快適だった。
と。
そう思ってから、はて、と彼は首を傾げた。
(あそこ?)
あそこはどこだ、とぼんやりと考えた。
思考はもやがかかったようではっきりとしない。たびたび訪れるくらりとしためまいのような思考のまとまりのなさは、やはり水の中に沈んでいるような違和感を植え付ける。
なにか、ちがうような。
忘れているような。
小さな違和感に眉根を寄せていれば、ばさりと頭に何かがかぶさった。
「うわ」
「そんなに暑いの?」
しかたないなあ、と少年が日に焼けた顔で、くしゃりと相好を崩した。
「帽子、貸してあげる」
麦わら帽子の下から、見慣れた友人の顔を見上げた。にこりとした好意に、ありがとうと返す。
わずかでも日光を遮れるのはありがたかった。
少しばかり体が楽になったような気がして、小さく息をつく。
「あっ魚釣れた!今日は川魚食べれるよ!」
ほっと竹竿を引く友人の姿に、やった、と小さく笑う。今日は一匹もとれていなかった。あまりに小さいものは川へ返しているため、竹竿を引いた先の魚に期待を寄せる。
友人ほどうまく釣りができないので、彼は川の中に足をつけて涼んでいた。太陽の光は痛いくらいの温度があるものの、静かに流れる川の水はひんやりとしている。
ぱしゃ、と水面から上がった魚は、川魚にしては大きかった。
その姿を見て、これで今日のごはんは新鮮な魚だね、と友人に笑いかけようとした。
向こうも魚が釣れたことでこちらに顔を向けた。
その瞬間、柔らかった友人の顔色が変わった。
「に、…ニーナ!」
笑っていた顔から一転、彼の顔が引きつった。青い顔になった友人に首を傾げて、どうしたの、と問う。
鋭い視線は背後に縫い付けられている。その視線を追って振り返ってみれば、長い脚が見えた。
「・・・」
そのまま視線を上げていけば、見慣れない大きな男が背後に立っていた。
がっしりとした肩幅と彼の二倍もありそうな太い腕は、日に焼けている。この暑さの中、顔色一つ変えず、鋭い目つきをした男が、彼を見下ろしていた。
眼をすがめた男は、端的に言えば顔が怖い部類に入るだろう。整っているというには目つきが鋭すぎるし、醸し出す空気は凶悪だ。
現に友人は、今にも回れ右をするべきだとでも言いたげに口をパクパクとさせていた。今すぐ逃げ出さないのは、彼がじっと巨大な男を見上げているからだろうか。
男は餓えた獣のように殺意に似た凶悪さをまき散らしていた。そんな男が、怖いかと言われると彼は首をかしげてしまう。
なぜだろう、と反射的に思う程度には、彼もこの男の凶悪さと恐ろしさを感じ取っていた。
気を抜けば食べられてしまいそうだ。そういった、食欲と殺意がまじりあったような恐ろしさはある。この男は間違いなく捕食する側だ。
けれど不思議と、この男の雰囲気とは裏腹に、なぜか安心を覚えた。鋭い眼も、その太い腕も、自分を傷つけないだろうと、そんなことを傲慢に似た感情で思う。
「・・・こんなところにいたのか」
視線を彼に止めた男は、ぽつりとそう零した。
その言葉にへらり、と顔が崩れた。反射のような自分の態度に、彼は半笑いのまま首を傾げてしまった。
「探したぞ」
その言葉と共に、大きな手が伸びてきた。
「・・・ま・・・」
その手をどうすべきか、とっさに判断がつかなかった。冷えた頭では、見知らぬ男が自分をつかもうとしているのだから、逃げるべきだと思う。
けれど、暑さに参ってしまった体はうまく動かない。そのうちに頭さえぼんやりとしてきて、口を開いたまま、動きを止めてしまった。
「にーな!!」
名前を呼ばれてはっと振り返った。
その瞬間、ばしゃあん、と彼に手を伸ばした男に水がかかった。ぐい、と体を引かれて、よたつきながら、その力のままにふらふらと歩きだす。
ばさ、と歩き出した拍子に帽子が落ちた。
「あ・・・」
拾おうとしたことさえ許されず、ぐいぐいと引っ張られていく。その力に流されて歩き出せば、小麦色に焼けた友人は焦ったような顔で、こちらを見ていた。
「あの、」
「にーな!だめだよ!知らない大人に声かけられたら逃げていいんだよ!あのひとこわいもん!!」
「そう、・・・」
彼は、そうだね、と返した。後ろは振り返ってはいけないのだと、その言葉に納得もする。
友人がせっかくバケツに入っていた水も、魚も放り出して腕を引いてくれた。だからその言葉に従って逃げるべきだ。
引かれる手に導かれるまま、走る。
歩きなれない森の中は、足の裏で地面を踏むだけでじくりと熱を持つ。
はあ、と息を切らせながら森の中を、奥へ奥へと走っていく。
「ねえ、」
どこまで行くの、と続けようとした言葉は、目の前の悔しそうな横顔でかき消された。
ぎしり、と明るく笑う友人の顔が軋んだような気がした。
無邪気さは鳴りを潜め、細めた眼に、ぎょろりと暗い暗雲がのぞく。
「くそ、あいつ・・・!」
町に戻ろうと進路を変えようとしては、振り返ってそれをあきらめる。ぐいぐいと腕を引かれる先に何があるのか、彼は知っていた。
「・・・っ、は、そ、っちは、」
奥へと駆けるまま、彼は一瞬振り返った。
その瞬間。
何も見なかったことにした。
(なんだあれ)
先ほどの凶悪な男が凶悪さを増して迫っていた。
野生の獣かなんかかと思いたくなるほどに早い。
彼は足もがくがくとしていて、限界に近いというのに、二足で走っているのが理解できないほど速い。森の中でどうしてそんなに早く走れるんだ、と息を切らしながら顔をしかめて、ああ、まるで童話のようだと思考がそれた。
(ここから穴に落ちるのか)
いや、この先にあるのは泉のはずだと、思考を戻す。
(あれ)
ふと、グラグラと揺れる頭が疑問を生んだ。
(いちども、ここまで来たことがないはずなのに)
どうして、自分はこの先が泉だと知っているんだろう、と動かす足がぐらついた。
「うわ、」
限界を迎えた足がもつれた。べしゃりとこければ、握られた手が離れる。
「ニーナ!大丈夫!?」
うん、とうなずいたところで、すでに自分たちは泉に到着していたと知る。泉というにはあまりにも深そうな水たまりに、ぼんやりと視線を向けた。
「立て・・・る・・・」
友人の語尾が消えて、にらんだ眼が背後に向いた。地面に座り込む彼のもとまで、影が伸びる。
先ほど見た光景を思い出し、うつむいて動かずにいれば、さらに影が伸びた。
近づいている。
このまま向き合わずにいるのも、恐ろしさをいたずらに生むだけだと、彼はそろりと振り返った。怯えた眼のまま見上げた男は、相変わらず後ろに立っている。巨大な狼が小さな兎を見つけたように、男はかがみこんで彼の顔を覗き込んだ。
冷ややかに見つめられて、言葉を探す。捕まって食べられてしまい砂恐怖に、体を固めたまま動けなかった。
ぱかり、と男の口が開く。
何を言われるのだろうかと怯えた彼に、男は小さく息を吐いた。
「・・・帰るぞ」
吐息交じりに小さくささやかれた言葉に、ぼかんとしてしまった。
「・・・かえる・・・?」
どこに。
どこへ。
ずきりと頭が痛んだ。
言葉の意味があいまいで、はっきりとしない。
ずきずきと痛む頭に靄が深くなる。
「帰らないよ」
友人の断言する声が響いた。
「ねえ、そうでしょう?明日も一緒に遊ぼう。明日は虫取りをするんだよ。探検でもいいよ」
とろりと絡みつくような蠱惑的な言葉が頭を狂わせる。
帰るという言葉を断ち切るような、夏日に思考をやられたようなしびれが走った。
「好きなことして遊ぼう?明日も明後日も明々後日もずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと」
意味が分からないと、助けを求めるように目の前の男を見上げた。友人が正しいような気もする。けれど本当にそうなのか、深く考えられない。
困惑したまま、縋るように見上げた男が、なぜか難しい顔をした。
「・・・読書はいいのか」
その言葉に、ぱきりと何かを折られた気がした。
大きく目を見開き、思わず男を見つめる。
「・・・読書」
オウム返しにつぶやいた言葉に、ばきりと砕かれて、ごうと頭の中に文字があふれた。嵐のようなそれは、波間の砂を削るようにがりがりとノイズを立てる。
文字。
本。
言葉。
意味。
羅列。
知識。
読書。
「あ・・・」
ばきりと思考にひびが入った。
おかしい。
ここはおかしい。
本がない。本が。本が。本が。本が。本が。
「・・・本が」
ただその事実が、自分という存在を確定させた。所詮は上塗りされたあいまいな事実と日常だ。それらは偽りでしかなく、自分があいまいにされ続けることに耐えきれるはずもない。
ぶわ、と風が吹いた。
ばきりと思考の中に亀裂が走る。思い出し続ける記憶に、頭が焼け焦げてしまいそうだった。ただ、その記憶さえも、暴走しそうな力と欲望を押える手助けにはなった。
常日頃から満たし続けていた欲求が絶たれ、すでにひと月はたとうとしている。のど元までせりあがってくる気持ち悪さに、うぐ、と呻いた。
足りない。足りない。足りない。
何もかもが足りない。
その事実に、彼は笑いそうになった。
ひと月の間に過ごしたひと夏は、彼に自由な表情をさせるまでになっているのだ。その事実が、彼自身をこの夏が経過する前とは別物にしている。
記憶があいまいにされているとはいえ、人並みに楽しいとも思ったし、寂しいという気持ちも感じ取った。
ひと夏はただ本に触れないという事実を与えて気持ち悪くするものではなかった。
もちろん、得られた理解もある。
感情は理屈ではない。好きも嫌いもただそう感じるだけ、というもので、こういう理由で、というのはあまり関係がない。そういったことを、ただ純然たる事実として、受け止めるだけの理解は得られた。
「・・・げ、ぇえ」
それでもはい出る気持ち悪さに、彼が限界だった。のど元までせりあがってくる胃液が、彼に吐き気を訴える。
彼の色素の薄い青い眼が光った。
足りないからこそわかることもある。
(ああ、)
あの日。
勇者になって、力を与えられた日。
ただ本が読みたいとこぼした。
自分を意図して勇者にしようとし、それが偶然から本物になった。
そこから何も知識のない自分が、ただわからぬままに、君臨した。与えられたその場所で、ただ得るだけの文字の知識は、入っていても実用には及ばなかった。
そこに、実体験が含まれた場合の想定を、彼は全くしていなかった。
(こういう、ことか)
知識が勝手につながっていく。得られる情報が濁流のように事実と事実を結び、勝手にただ一つの答えを作り出す。
なんてことだと笑いたかった。顔はその通りに動き、ただ知識の水だけを吸収した頭は、彼を狂わせてしまいそうだった。
外へでてみろと、そういう友人たちの言葉が、よくわかった気がした。
「う、ぅぅ・・・」
気持ち悪さに倒れ伏しそうになれば、ひょい、と自分を持ち上げる手があった。
「・・・大丈夫か」
言葉少なに心配そうな目をする凶悪な男に、彼は口の端を持ち上げて笑って見せた。
ぐるぐるとのど元までせりあがってくる吐き気に、いっそ泣きそうだった。だから素直に、彼は泣きつくことにした。
恐ろしいというよりも、精悍な顔をした男は、子供好きなのだ。甘えてもただ受け止める男は、お人よしのようだと、彼の人となりを初めて観察した。
「・・・がえりたいぃ・・・」
泣きそうになりながら訴えれば、男は無表情にうなずいた。
「ニーナ!!」
怒りの混じった声に、彼は泣きそうになりながら振り返った。
「・・・ちがうよ」
ただ楽しく思った日を思い出し、返事は力なかった。
たらりと汗が垂れる。夏の暑さで生じる気持ち悪さだけであれば、日の焼けた友人に夜の布団に転がるような寂しさを向けることもなかったのだろう。
「そんなことない!」
友人の叫びに、確かに楽しかったとこのひと月を振り返った。海でも泳いだ。彼の傷だらけの体を見て痛そうだと顔をしかめていたのを覚えている。日焼けに苦しんだのもいい思い出だ。
けれど、これは真実ではない。
偽りが作り上げた、幻であいまいな夢なのだ。
ぐるぐると知識がつながって、砕けた思考中で、正確な事実だけをはじき出す。
「ぼくは、にーなじゃない」
げえ、とえずきながらそういえば、大きな手が背中をさすった。
人の手はあたたかいと、そんなことを思う。さすられると気持ち悪さが安らぐような気がした。自分の体が冷えているのか、あたたかい体に身を預けたくなってしまう。
思い出される情報量と理解の多さに頭を焦がしそうになっても、やめようとは思えなかった。これを祝福とは到底言えそうにないと、笑えるような気分になる。
そうしたことを思えるのは、ひとえにこの少年のおかげだった。
だから、殺そうとは思わなかった。本来ならば殺してもよいほどに自分の邪魔をしている。こうして気分が悪いぐらいにそれをしないでいただけだとしても。
湧き出る衝動に近い欲が、のど元を焦がすように臓腑を暴れまわるのが、その証拠だった。
「・・・僕は、勇者なんだよ。魔王」
日焼けをした友人の顔がぐしゃりとゆがんだ。
引き留めることをあきらめたのか、ぼこ、と人の形が損なわれそうに頭が歪む。
そんな姿は見たくないと、彼は顔をそむけた。
「・・・何もしなくていいのか」
「いいんだよ、がろーさん」
彼の気遣いに、顔をそむけたまま答える。
「なんで・・・なんで・・・」
ぶつぶつと聞こえる声は、聞こえないほうが良い声だ。友人だった彼を言葉で壊すのはたやすく、ひと夏で得た情報と彼の知識で、真実を語ればよいだけだった。
けれど。
なんとなくでも、それをしたくないと思う心に従うことにした。
そうかとつぶやいた男は、友人に背を向けてしまった。そしてためらいなく泉の中へと足を踏み入れる。
落ちるはずのない体は、どぼりと水の中へ沈んだ。焼けこげそうな頭にはひんやりとした温度が心地よい。
友人であったものの狂おしい声が水の膜越しに響いた。
寒いと思う体が、ゆらりと沈んでいく。
水面が光に反射していた。きらきらとしていたそれを、きれいだなと思えるようななった自分が、彼には心底不思議だった。
水は青かった。自分の目は空のようだと喩えられたが、水のような色というのが正しいのではないかと思う。
(空の青さを反射しているから水は青いんだった・・・)
とん、と水の中で頭に手が触れた。大きな手が自分の体を抱えて、頭をなでている。ゆらりとした水中で、目を向ければ、相変わらず膝の上に座っても怒らない友人がそこにいた。
一人でなくてよかった、と心底思いながら、書館は重たい瞼を閉じた。
それはひと夏の終わりだった。
水の冷たさが、季節の移ろいを訴えている。
秋は、もうすでに始まっていた。