@ayame0601s
自宅に着くと髭切に手を取られ、強制的に家の中へと連れて行かれた。
彼の歩みは速く、足がもつれそうになりながらも精一杯ついていく。投げ捨てるように脱いだ靴は、玄関に散乱した。それを直す暇も貰えず、引かれるままに歩みを進める。
私を掴む手も、進める歩調も、決して穏やかではなく、苛立ちが伝わってくる。
普段は冷静な振る舞いをする彼から、滲み出ている感情。それは誰が怒るよりも、恐らく膝丸が怒るよりも恐ろしく、身体は震えて息は詰まる。怖い。言葉通り、命に関わる程の危機感が押し寄せてくる。
「ひ、髭切さん、」
恐怖に耐えながら彼を呼んでみるも、返事はおろか、こちらを見ようともしない。
歩みを止める事もなく居間を通りすぎ、階段を上る。引かれた手を振り払う事なんて出来ず、恐怖心に支配されるまま辿り着いたのは、今まで入った事のない部屋だった。
些か乱暴にドアが開けられ、室内へと入っていく。そこは私の部屋でも、膝丸の部屋でもない。つまりは髭切の部屋なのだと理解すると同時に、手を一層強く引かれ、体勢を崩した。
ベッドへと前から倒れこみ、スプリングが軋む。咄嗟に出した腕で体勢を保とうとしたその時、背後で感じた気配に、息を呑んだ。
起き上がる隙も与えられず、後ろから上に乗られ、突如、首に感じる圧迫感。
ネックレスが背後から引かれ、私の首を締め付ける。
「──っ!」
後ろに引っ張られ、チェーンが首に食い込んだ。
しかし、苦しい、と感じたのは一時だった。チェーンが切れた音と共に圧迫がとれ、直後、ネックレスが放り投げられたのか床に落ちる音が耳に届く。
けれど、それだけでは解放されない。
髭切は私の髪を掴むと、顔を横に向けさせる。その乱暴な行為と恐怖に喉がひきつった。そしてタートルネックの襟首がぐっと下に引かれた、その刹那。あらわになった首筋に咬みつかれ、身体が硬直した。
「ぃッ!」
痛い──! 走る疼痛に、小さく悲鳴が漏れ出てしまった。
髭切の歯が皮膚に食い込み、鋭い痛みが脳へ駆け抜ける。
耐えるように目を瞑った。頭は固定され、動けない。痛みと恐怖で、食いしばった歯が震える。瞑った目に、じわりと涙が滲んだ。
痛い。──怖い。
更なる激痛が来るのではないかと、目も口も更にぎゅっと閉じた。手のひらも強く握り、体を強張らせて襲ってくるであろう痛みに備える。そうでもしないと、恐怖にかられて泣き叫びそうだった。
彼は物凄く怒っている。もしかしたらこのまま、殺されてしまうかもしれない。
あまりの恐怖に、そう身構えたものの。痛みは、それ以上襲ってこなかった。
髭切の口が、私から離れる。それはゆっくりとした動作だった。それでも目を開ける事なんて出来ず、ひきつる呼吸を抑えるように息を殺し、身構え続ける。
咬まれた箇所がズキズキと脈を打つ。また、咬みつかれるかもしれない。
しかし、一向にその気配は来なかった。
きつく閉じた瞼を、恐る恐る開ける。頭は固定されたままで、上にいる彼が退く気配はない。
どうしたのだろうか──何も来ない事に若干安堵しつつ、彼の様子を窺おうとした、その時だった。
「脱がすよ」
「なっ、ぇ、──っ」
ただ一言だけ言われると共に、服に手をかけられ、そのまま剥ぎ取るように脱がされてしまった。
タートルネックが首に詰まり、息が出来なくなるも、それは一瞬の事で。脱がされ、服は投げ捨てられて、あっという間にインナーだけになってしまった。
突然の事にひどく動揺してしまい、髭切へと振り向こうとするも。彼は私の右手首をベッドへと縫い付け、再び頭を固定するように上から押さえつける。
けれどそれは、先程のような荒々しいものではなかった。
押さえつけられるというよりは、ただ添えるように。頭と手首を緩く拘束され、その体勢は先程と同じ、首筋を露出するような形だった。
髭切の唇が、後ろから静かに落とされる。
薄く開けられた唇が、柔らかく首筋に触れた感触。そこから冷たい舌が這わせられ、滑りを帯びたその感覚にぞくりとした。
「──っん」
悲鳴とは明らかに違う、鼻から抜けた声を微かに漏らしてしまい、咄嗟に抑えた。
突然の事に困惑するも、髭切はそんな私に構う事なく、食むように唇を何度も寄せる。
合間に触れる舌は、まるで首筋に深い口づけをされているようで。湿った音が耳に届き、ぞくぞくとした甘美な痺れが背筋を走る。
頭を固定していた彼の指は髪に絡ませ、手首を拘束していた手は、私の手の甲を覆うようにして重ねられている。
背中に感じる彼の重みと、何度も落とされる口づけは先程と打って変わって甘く、咬まれた痛みは徐々に快楽へとすり変わっていった。
頭は混乱しつつも、彼の出す艶やかな空気に呑み込まれていく。
咬まれた部分を舐められれば、それだけで目眩がするほどの快感に襲われ、耐えきれず吐息が溢れてしまった。
「っ、は、……っ」
この強くも甘い感覚は、血を吸われているのだと。頭では分かっていても、襲ってくる快美な刺激に抗う事は難しかった。
髭切はまるで焦らすように、ゆっくりと舌を這わせる。その度に熱が身体の中心に集まり、下腹部が切なく疼く。
情事へ誘われているのだと身体は勘違いし始め、呼吸の震えはもはや恐怖や痛みからではなく、全く別の理由からだった。
視界に映る髭切の手首には、まだ黒い筋がうっすらと残っていた。けれどそれが、目の前で段々と消えていく。血を飲んでいるからなのだろうか。咬みつく事を止めたのは、彼の優しさからなのだろうか──思考が溶け始める中でそう思っていれば、髭切の手が脇腹へ添えられ、身体が大袈裟なくらい跳ねてしまった。
「あっ、……!」
彼の手がインナーの下へ潜り込み、そのまま肌を滑りながら上へと伝っていく。ひんやりした指先に身体のラインを撫でられ、くすぐったくも甘い感触に見悶えてしまう。
首筋に口付けながら、彼は私の脇腹を撫で上げる。肌の感触を味わうかのようにゆっくりと上へと這わせられるにつれ、先を期待するように熱がこもっていった。その滑らかな手が胸の膨らみへと達し、下着に触れた、その時。そこでやっと、はたと我に返った。
「ぁ、やっ……待って、ください」
拘束されていない手で、何とか彼を制止する。蕩け始めた理性は、予想外の出来事になんとかその形を留めた。
まさか……まさか、彼の手が肌に這わせられるとは思ってもいなく。羞恥心から顔に熱が集まり始め、理性が戻った頭は混乱していた。
「あ……あの、髭切、さん」
乱れた呼吸のせいで、声は震えてしまった。何とか呼んでみるも、その先の言葉が出てこない。
髭切は手を止め、首筋に触れていた唇も静かに離した。
「なに」
すぐ背後で聞こえた声は掠れ、けれど素っ気ないものだった。彼の声はいつもと同じなのに、無機質なものに聞こえる。その声色に、息を潜めていた恐れの気持ちが、再び姿を現し出す。
喉はカラカラに渇き、少しでも潤す為に唾を飲み込んだ。
「あの……ごめん、なさい。勝手な事を、して」
語尾は情けないくらい弱々しい。それでも、何か言わなくては、と……謝らなくては、と、その気持ちに急かされるまま口を開いた。
彼が怒っている理由は分かっている。怒る気持ちも、分かっている。私は彼らに飼われている身で、黙って勝手な事をした。自覚しているからこそ、それに対して謝らなくてはいけない。謝ったところで、今更遅いかもしれないけれど。
沈黙が落ちる。ここから彼の表情を窺う事は出来ず、背後からかかる無言の圧に押し潰されそうになる。心臓は緊張から拍動を速めていき、胸の内側から打つその音しか聞こえない。
そんな中、彼はやっと口を開いた。
「人間
は」
髭切が言葉を落とす。
「いつもそうだ。こちらが隙をみせれば、すぐに裏切る」
その声は淡々としているようで、けれどどこか、寂しげなものに聞こえた。
思わず、言葉に詰まる。それは、私が想像していた返事とあまりにかけ離れたものだった。
背中に感じていた重みが、ふっとなくなる。髭切が離れていく、と思っていれば肩を掴まれ、体の向きを変えさせられた。
仰向けになり、天井を背にした髭切の顔が視界に映る。
彼の柔らかい髪が垂れ、そこから覗く顔に、いつもの笑みなど微塵もない。
髭切は私をただ見下ろす。その琥珀色の瞳は、何故か悲しそうにも見えて。不意に胸が軋み、思わず目を逸らしてしまった。
「ちゃんと、こっちを見て」
声が降ってきたと同時に、顎を掴まれた。そのまま無理やり、髭切と視線が合うよう顔を向かされる。
言われた通り、恐る恐る彼と目を合わせた。髭切は私を見据えている。
「僕が君を飼う事にした理由を教えてあげようか。君が、嘘をつけないと思ったからだよ」
「……」
「大抵の人間は、すぐに嘘をつくからね。保身のためとはいえ、そういうのは必ず裏切る」
髭切は一度、そこで言葉を切った。君はそうじゃないと思っていたのに、と、私を見つめるその目に言われているような気がして、胸が締め付けられる。
「さっき、目を逸らしたのは何故? 裏切った自覚があるからかい」
「……っ、裏切ってなんて」
ない、と、果たして断言できるのだろうか。彼らの正体を言うなんて事はしていないけれど、私は彼らの忠告を無視して……仕事だと嘘をついて、鶴丸に会いに行ったのに。
言い淀んでしまえば、髭切は「ふぅん?」と口の中で呟いた。
「まぁ、もういいやそんな事は」
そう呟いた彼は、口元に自嘲めいた笑みを乗せる。
「もう、いいんだ」
そう言うなり、ぐっと距離を縮められ、息を詰めた。
彼の影が落ちる。垂れた髪が、彼の吐息が、かかりそうなほどの距離にどきりとし、緊張から強張った。
「君を飼っている根本的な理由は、そこじゃない。ちゃんと、それらしい事をしてもらおうか」
髭切は薄く笑む。その表情はいつもの、表面的な笑みだった。
「僕はしばらく、まともに食事をしていなくてね」
彼は目を伏せると、私の首筋に手を添えた。静かに撫でるその動作は、まるで品定めをしているかのようで、先を予測して身体が竦む。
髭切は再び私と視線を合わせると、目を細めて微笑んだ。
「今日は、しっかり付き合ってもらうよ」
それから先の記憶は曖昧だった。容赦なく与えられる快楽に思考は溶けきり、抵抗などほとんど出来なかった。
触れる彼の唇が、彼の手が。落ちてくる彼の声が。全てが媚薬のように身体の奥深くへ浸透し、抗いきれない熱に犯され、理性はとうに擦りきれていた。
けれど、それはあくまで「食事」のためなのだと。彼らは食事のために情を交わすのだと、そう思えば愉悦を覚える身体に反して、胸の痛みに気づいてしまった。
彼らの言う「食事」は、首筋にただ触れただけの微かな量じゃ、到底足りないはずだったのに。
この行為が、彼らの言う「食事」だというのに、それを強要された事は今まで一度もなかった。
それはきっと、彼らなりに私を気遣ってくれていたからだと、そう気づくも既に遅い。
霞む視界は、貧血からなのか、耐え難いほどの快楽からなのか、分からない。
ただただ、胸の奥の方がちくりと痛みを発している。
髭切はもう、私の事を「食事」の対象としか見ていないのだと。
体を合わせながらそれが伝わり、実感させられてしまった。
幾度となく襲ってくる快美の波にのまれ、そのまま溺れれば、いつの間にか意識を失っていた。
そして気がつけば、布団の上にいた。ベッドではなく、布団の上だった。ぼんやりした頭で何とかそれだけを認識し、何度か瞬きをしてから辺りを見回す。
視界に映る、見慣れない天井。少し顔を背ければ、目と鼻の先には畳が広がっていた。
畳なんて、久しぶりに見た気がする。実家にあるくらいだ。ゆっくり息を吸い込めば、い草の香りが鼻を掠めた。
ここは、一体どこなのだろう。
段々と覚醒するにしたがって、疑問がはっきりと生まれてくる。見える範囲で視線を配らせても、全く見覚えのない室内。
とりあえず、起きなくては。そう思い、体を起こそうにも、ひどく怠かった。起き上がるのを躊躇うほど、全身が重たい。
このまま、再び眠ってしまいたい──そう思いながら瞼を閉じる。しかし、意識がなくなる直前の事を断片的に思い出し、閉じた瞼を勢いよくこじ開けた。
そうだ、私は。彼と。
一気に思考がクリアになっていく。と同時に、顔へ熱が集まった。けれど、どことなく感じる虚無感に、心は切なく軋んでいる。
胸の内は混沌としていた。自分でもどう表現すればいいのか分からない。ただ何故か、どうしようもなく悲しかった。
落ち着かせるように、深く深呼吸をする。
記憶は霧がかかり、昨日の事はまるで夢だったかのようにも思える。鶴丸と会った事でさえ。その後の、髭切との事も。けれどこの身体の気怠さは、きっと……そうなのだろう。貧血もしているのかもしれない。あの時、膝丸に血を吸われた時のように。
確かめるように身体を無理やり起こせば、案の定、頭から血の気が引いた。しかしそれは、あの時ほどひどくはない。
視界が揺れたり、倒れ込むほどの目眩には襲われず、目を瞑って数秒耐えれば何とか姿勢を維持できた。
そこまでひどい貧血は、ないのだろうか。
少し不思議に思いながらも、そのままゆっくりと立ち上がる。ふらつくも、何とか歩けそうだった。
窓からカーテン越しに柔らかい光が入り、室内に充満している。
そっとカーテンを開ければ、そこから見える風景は知らないものだった。本当に、此処はどこなのだろう。目に入るもの全てが真新しく、不安に駆られた。
とりあえず、部屋を出て確かめよう。そう決意し──ふと、姿見の前で足を止めた。
三面鏡になっているその扉を、静かに開ける。寝起きの状態を少しでも確認しておきたいがためだった。
鏡面に映る自分は化粧が崩れ、疲れが滲んでいる。髪は乱れているも、手櫛で整えれば比較的マシにはなった。見た事のないジャージを着ている。私の体型よりも大きいそれは、メンズの物に思えた。袖も裾も、ご丁寧に折り込んである。
誰の物なのだろう……一体、いつの間に。そう思いながら眺めれば、ふと、首筋に目を止めた。
膝丸に咬まれた痕は依然として残っている。肉を抉られたそこは、いまだに痛々しく見える。
しかし、その逆側。
そこには、歯形が微かに残っているだけだった。
炎症で少し赤くなっているものの、すぐに消えてなくなりそうなほど、うっすらしたもの。皮膚が裂けたかと思っていたけれど、そんな事はなかったらしい。
それに、あんなに血を吸われたというのに。
その痕は、全く残っていなかった。
身なりを多少整えたあと、部屋を出るべく、和室の襖をそっと横へずらす。廊下はフローリングだった。隣には、扉の閉まった部屋が一室あり、すぐ目の前には階段が一階へと続いている。
一戸建て、というにはこぢんまりとした造り。そして一階から、テレビの音が聞こえる。
誰か、居るらしい。
無意識に唾を飲み込み、何となく音立ててはいけない気がして、忍び足で階段を降りていった。それでも、キシ、と軋むものだから、その度に心臓が跳ねる。
階段を降り、音のする方へ視線を向ければ、奥の部屋が開け放たれていた。そこに誰かいるのだろう。兄弟、なのだろうか。あの家には居られなくなって、ここへ引っ越してきたのだろうか──そんな事を考えながら、緊張しつつそっと室内を除きこんだ。
そして部屋の内観を確認する前に、視界に映った人物に唖然とし、目を見開いた。
「ああ、おはよう。もう体は大丈夫なのか」
テーブルでパソコンをいじっていた彼は、顔を上げると私を見やった。
そのオリーブ色の瞳と視線がかち合えば、彼は柔らかく目尻を細める。
「久しぶりだな。疲れただろう。とりあえず茶でも飲むといい」
そこに居たのは髭切でも、膝丸でもなく。
以前に紹介された、彼らの友人である鶯丸だった。