X以外のSNSでの投稿にはPrivatter+がおすすめです
Xフォロワー限定公開・リスト限定公開の停止について

炎のユレアン 8

全体公開 12289文字
2018-09-30 22:49:26

タイトルの意味がそろそろわかるます。

『リヒトール』
『スルザダヨ』
『ヨカッタネ』
『スルザモツレテク?』
なんだっけ、とリヒトールは首を傾げた。
彼らの言っていることが、うまくわからなかった。よく聞いた名前のような気がするのに、それがなんなのか、リヒトールには思い出せなかった。
スルザ。
はたしてそれは、なんだったのだろう。
なんてことない名前なのかもしれなかった。
だが、それがなんてことないのかどうかすらわからない。
ふんわりとしていて。
ぼんやりとして。
判別がつかない。
まるですべて価値がないのに、同時にとてつもない宝のような。
そんな気がする。
見下ろす地上に、余計なものが残っている。
それは鉄の装甲をまとう、異国の人間だ。
『母』が作り出した人形と、与えた人間以外の異物。
望まれた国に入り込む、いらないもの。
ここは、かくあれと作られた国なのに。
いらない。
原初、『母』が望んだもの以外は。
余計なものは朽ちてしまえと命じた。
『リヒトール』
『スルザハ?』
だからなんのことなのだと、顔を覆った。
わからない。
わからない。
そんな名前はわからない。
『皆、やや子にそう詰め寄るでない』
『それ』はリヒトールの前にふわりと降り立った。
乳白石でできたような、白い肌。それは滑らかに作られた彫刻のようですらあり、人間と称するには人間味が足りなかった。
黒い髪は、絹のように細い。
同じ色の目は闇を垂らしたようだ。くるりとした目を縁取る長いまつげが、白い肌に影を落としている。
『起きたばかりなのだぞ。まだ右もわからぬ赤子のようなものよ』
少女のような姿だが、まるで母のように柔らかい声で周りをたしなめた。
「・・・かあさま」
舌足らずに呼べば、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
『ああ、ああ、好きにするが良いぞ。次の王権はお前にやるでな。私の力も世界も、お前にやろうぞ』
好きにしていいと、『母』がいう。
『新しい人形も作るのもいい。あれらはとうに壊れかけているでな』
リヒトールは地上にいる砂の巨人を視界に入れた。
かろうじて人の姿を保つ砂の巨人は、それぞれ敵を薙ぎ払っている。
それは、はるか昔に『母』が作った人形だ。
『セフルハダメー』
『ダメ』
『イラナイ』
「せぇ・・・ふる、」
それは何だったか、とリヒトールは声を上げた。
わからない。
あいまいで。
ぼんやりとしていて。
判別が、つかない。
へいか、と声が聞こえた気がした。
それは確かに自分を呼ぶものだった。
「な、んだっ・・・けぇ・・・」
『よいよい。かまうでない。ほれ、まだ我らの世には不要なものぞある』
ああ、そうだった、とリヒトールは口を開いた。
詠がこぼれる。口からこぼれる力は、『母』を呼ぶためだったはずだ。
もういるのなら、いらないはずなのに。
けれど、この地にはいらないものがあるから。
それを全て片付けないといけないのだ。
『うむ、まだ足りぬ』
もっとだぞ、と『母』は両手を広げた。
『さあ、お前は王たるぞ。母が赦す』
白い布が、ひらりとはためく。
『母』の袖はいつ見ても長かった。
『もっと、その心で臨むのだ』
そうだ、とリヒトールはのどを震わせた。
『すべてを捨てて』
そうだと、リヒトールは見下ろす。
『すべてを救いたいと』
かくあれと決まった国なのに。
余計なものがたくさんある。
こんなのはいらないのだ。
そんなものがあっては、『母』のユレアンが壊れてしまう。
『ほれ、ややこ、支配を』
広げよ、という言葉に、リヒトールはうなずいた。
そうだ、この地は自分が守るのだ。
何もいらない。
すべてなくなってもいい。
ただ愛する者が、笑うために。
そのためならば、何を捨てても・・・。
「アォーン」
その叫びは、思考に割り込むような声だった。
「・・・?」
ぐさり、と思考にひびを入れられたような。
リヒトールは、そうだとうなずくことができなくなった。
———!!!」
叫ぶ声がする。
きん、とはじけるような声で。
「か、かあさま・・・」
聞こえていたはずの彼らの声が遠ざかった。
『・・・』『・・・!』『・・・?』
どこだ、なんなのだと、視線を巡らせた。
すでに自分のものでない視点は、びゅお、と流れた風の中で。
赤い、髪をとらえた。
古いものから新しいものまで、ひょろりとした体は傷だらけだ。顔に走る大きな傷は、小さな少女の人生の壮絶さを物語っている。
大きな傷は、顔を引きつらせていた。うまく表情を作れない顔は、すこしいびつに彼女の感情を映し出す。
すう、と小さな口が、息を吸う。
「いくな!!!」
吐き出された声が届いた。
きらきらと輝く色すら見える。
生まれたばかりの赤子が泣くように。
命を削るような叫びだった。
こぶしを握り締めて、声を大にして命を絶叫する。
それほどに。
風がとらえた声は、リヒトールを揺さぶった。
耳元で叫んでいるように、がんがんと響く。
「・・・」
細い脚は、地上をかけていた。
赤く染まる地面を二足で走る。
何もいらないと思う。
何も見えなくていい。
何もわからなくていい。
それでも救いたい。
何が消えても、それでもいいと願った。
だから光は消えた。
だというのに。
とうに光を消してなお、輝くものがある。
一直線へこちらに走る赤さ。
それは、立ちはだかる敵さえ薙ぎ払ってみせた。赤い血が噴き出る。槍は振り払うごとに足を進めて敵を払った。
そんなものは、障害ではないとでも言いたげに。
ただ、こちらをまっすぐに見つめる。
その、金の双眸が。
前を見る。
「・・・っ・・・り、い、とーる・・・!」
どくりと、頭で音が鳴った。
ずくり、と自分の体が貫かれたような。
痛みを感じた。
「・・・いたい」
いたい、とリヒトールは頭を抱えた。
ぐしゃり、と髪が乱れる。
つかんだ指先が、びりびりとしびれた。
「おれが行く!!」
だから、ここにいろと叫ぶ声が届く。
「行くな!!」
「・・・っ、ぅ、・・・かあさま、いたい・・・」
見たくない、と思った。
見たくない。
聞きたくない。
耳障りだ。
声のすべてが突き刺さる。
なぜそう思うのか。
わからない。わからないけれど、リヒトールはいやいやと首を振った。
「・・・ぁ、か、あさまあ・・・」
いやだと、そう思うのに。
それでもリヒトールは、それを追った。
赤が駆ける。折れそうな足で、地面を蹴る。
駆け抜ける途中で。
砂の巨人の一匹が、それをとらえた。
ぞろり、と砂の手がそれをつかむ。ばたばたともがくその様は虫のようだった。
「だ、・・・?」
何を言おうとしたのか、勝手に口が動いた。
手が伸び、何かを動かそうとする。
その瞬間。
何を、とリヒトールは動きを止めた。
動きを止めた間に砂の巨人が何かを少女に言う。そうするとそれの抵抗はなくなった。少女は体を丸めて、こちらを見据える。
巨人が赤い子をつかんだ手を振りかぶった。
何をするのかと思えば。
振りかぶったまま、こちらへと赤い子を投げた。
「は・・・」
着地はどうするのだ。
なぜ投げた。
とか。
リヒトールは、考える前に叫んでいた。
「かぜ!!」
赤い子が、こちらに来る。
巨人に投げられる勢いそのままに。
自分が見ている視点ではないので、距離がよくわからなかった。
びゅおう、と風を切り、飛んでくる。
リヒトールは深く考えずに風を呼んだ。勢いを落とし、そのままこちらに来れるように吹かせる。
『・・・おやまあ』
リヒトールはただ夢中で、両手を広げた。
跳んでくる彼女のために両手を広げれば、金の双眸はふ、と丸くなった。
ばくん、と心臓がはねた気がした。じんわりと動き出す体に、指先に血が巡る。びりびりとしびれてしまいそうで、どきどきとする体は、いますぐ死んでしまうような不安に駆られた。
「・・・帰ってきたぞ」
え、とリヒトールは思わず体を固めた。
どすん、とリヒトールの腕の中に、彼女が飛び込んでくる。硬い体は柔らかさがないが、血と汗の香りがした。
それはそばでうなる、あの獣のような。
ぶわ、と顔が熱くなったのがわかった。手を回そうとして、けれどそうすれば拘束しているようで、嫌がられるのではないのではないかと、手が動かなかった。
「・・・お、おかえりなさい・・・っ」
リヒトールは思わずそう言ってしまった。
「ああ、リヒトール」
その声に、ぞわりとした。
は、ぁ、と吐いた息に熱があって、リヒトールはたまらなく寂しくて涙さえ出そうになった。
「・・・なんで」
これはなんなんだろう、とリヒトールは涙声で呟いた。
「おそくなった。だから問いかけに来た」

「・・・お前は、これでいいのか?」

(これで・・・)
これで、という言葉に、意識がはっきりとした。
高いところから見下ろした景色に、言葉が出ない。空が暗い。なぜか黒く染まっている。地上では人間たちが殺しあっている。川辺には死体が浮かび、黒く濁っている。砂でさえ血に濡れていた。
いつも、はるか上空から眺める美しい国は、そこにはなかった。
「・・・っ」
上空から見下ろした自分の後ろには、ひとり、人間がいた。
セフルは屋上に血まみれで倒れている。いつそんな状態になったのか、リヒトールにはまるで思い出せなかった。
それ以外に、リヒトールをにらみつける青年がいた。
傷だらけの赤い子は、鋭い目つきでリヒトールから離れた。小さな体が、かばうように前に出る。
「・・・ようやく、止まったのですね、リヒトール様」
彼は声で誰かを判別した。視界は相変わらず、自分の目からのものではなく、はるか上空から見えている。
もとから見えぬ自分には、人の姿を見たとて、どれが正解かわからない。
「・・・ユージンの・・・従者の・・・クウリ?」
はい、とうなずく青年に、リヒトールはようやく振り返った。
「ああ、やはりあなたも、赤い色なのですね・・・」
どうしてここに彼がいるのか、リヒトールにはわからなかった。困惑のままに首を傾げれば、ふん、と目の前から鼻を鳴らす音がする。
「なるほど・・・俺たちは、外部から中に侵入したのだと思っていたが・・・あれは、内部にいたものが、外に出て連絡をとっていたと、そういう穴だったわけだな」
目の前には、赤い髪の傷だらけの少女がいるはずだった。聞きなれない粗雑な口調は、低い声で、相手を威嚇していた。
「・・・あなたは、なんなんですか?」
不思議そうなクウリの声に、戻らない視界から彼女を眺めた。
傷だらけの赤い髪をした少女は、一度だけリヒトールを振り返る。
金色の目をまっすぐに見つめることすらできなかった。リヒトールは、その場にいても、その場ではないどこかの目に頼っている。
「・・・なんだ、俺を忘れたのか?何度もあっているだろう、リヒトール、さまの、そばで」
彼女は再び前を向くと、ひどく平坦にそう言った。
リヒトールは自分のそば?と首を傾げた。
こんな少女を侍らせた記憶はない。
常にそばにいたのは、四つ足で、怖がりな獣だ。
「・・・あの、犬ですか」
忌々しげな声に、リヒトールはぎくりとした。
あわわ、と両手で口を押えると、そんなリヒトールを気にした様子もなく、おう、と少女が堂々と返事をした。
つまり。
つまり、とリヒトールの頭の中で事実ががちゃりとつながる。
「す、すすすす、スルザは女の子なんですか!?」
「・・・話がややこしくなるから、静かにしてくださいますか、リヒトール様」
あきれたようなスルザの声に、ひえ、とリヒトールから引きつった声を上げてしまった。実質的に肯定する言葉に、リヒトールはうわあ、と声を上げる。
「ぼ、ぼぼ、ぼく、ぼく」
ひええ、とリヒトールは頭を抱えた。
あったかいと一緒に寝たし、体も洗った。いや、自分は見えていないからセーフなのか、いいのか、とぐるぐると事実が頭をめぐる。
今までの日々を振り返れば、謝らないといけないような気がした。でも謝ることが正解なのか、その判別もつかない。
ぶわ、と熱を持った顔に、いっそうずくまりたいような気分になりながら、口を開閉させた。
「・・・俺は、お前を見つけるために、このひとのそばにいただけだ。もとから、この国に何かを仕掛けられることはわかっていた」
スルザはリヒトールにもわかるように言っているようだった。
その言葉に、リヒトールはぴたりと動きを止める。
「お前が、この軍勢を呼んだのか」
スルザの問いかける硬い声に、リヒトールは顔を上げた。上空からの視点はゆらりと揺らいだ。
「・・・はい」
肯定の言葉に、どうして、とリヒトールは思った。
何もかもがどうして、と尋ねたかった。なぜスルザがそばにいたのか。それは全部仕事だったのか、なぜ犬の姿だったのか。
そうか、とスルザは天気を聞いたような声音で、相槌を打った。
「なぜ、も、どうして、も、どうでもいい。それは俺の仕事ではない」
「・・・僕を殺しますか?」
クウリの一言に、リヒトールは叫びそうになった。口元を押えてかろうじて耐えたそれに、いや、とスルザが答える。
ほっと、リヒトールは小さく息を吐く。
「殺さない。四肢を折り、お前を王の前へ差し出す」
ごきり、と音がした。何がどうなっているのか、見えないリヒトールではわからない。
だからまだ見えなくなってはいけないのだと、視点を維持した。上からの視点では、首を傾げたスルザが、ひどく面倒そうな顔をしていた。
けれどその目は、爛、と光っていた。
暗い天気のもとでさえも煌々と輝く黄金色は、ひどく残酷に見えた。まるで首切り鎌をゆっくりと振り上げたような、刃物の輝きを見ている気がする。
その双眸は、ゆらりと光をくゆらせて、相手を眺めた。
「この善き国で興した暴虐は、善き王に裁かれろ」
ふ、とクウリの口元が緩んだ。
だというのに、それと反するように憎たらしいものを見るように細められた口元が、表情をいびつにさせた。ぐちゃりと果実を踏み潰したような気持ち悪さで、笑顔を作る。
「・・・ああ、そうだ。この国が、残って居たらな!」
呪詛のような言葉に、リヒトールはざわりとした。走る胸騒ぎに、ぐらりと視界が揺らぐ。
クウリのひとりごとに反応することなく、スルザが動いた。
ひゅ、と姿を消したような速度でクウリに迫ったスルザの手には、一振りの剣があった。片手で振れるほどの剣が、首めがけて走る。
「こ、」
かあん、と金属を跳ね上げる音がした。
殺さないで、と出しかけた声は金属音に阻まれて飲み込まれる。ごくりと唾とともに言葉を飲み込めば、スルザはさっさとリヒトールのもとまで戻ってきていた。
スルザは絶対にリヒトールの前から離れようとはしなかった。小さな背中は常に自分を守るように、敵の前に立ちはだかる。
「え・・・」
状況を把握するために、『目』を強く意識する。
スルザが片手に持っていた剣はすでに握られていなかった。何かに跳ね飛ばされたことは音からわかる。
何に、と視野を広げ、その異形にのどが干上がった気がした。
「・・・四肢を折るのでは足りん」
スルザのつぶやきに、やめてくださいとリヒトールは叫びそうだった。
クウリの体、背中から、太く長い手のようなものが伸びていた。それは大きな竜のしっぽのような、見たこともない触手だ。ぞろりと背中から延びるその手は、きらきらとしていてぼんやりとしている。そこにあるととらえきれないものの、かろうじてあることが分かるというレベルだ。
その事実に、リヒトールは眉根を寄せた。
『リュウダ』『カワイソウ』『ツカワレテル』『ヤダー』
けらけらと笑い交じりの透明な声に、リヒトールはクウリには何かを入れられていると理解した。
それも、通常の目では見えぬような。
そんな、神に近いものを入れられている。
「まったく、卑しい奴隷風情が、善き王などと・・・。こんなに愚かしい王も他にいないことでしょうよ」
く、と憎たらしいようにのどを鳴らしたクウリが、首をかしげる。
その一言に、ぴたりとリヒトールの体が固まった。
「あの目があれば、いくらでも支配できるというのに。その血がいる子すら、わが国に横さぬとは、繁栄を恐れる愚かな王です」
ひやり、と臓腑が冷えた気がした。
ああ、やはり異国から輿入れしたユージンの母の国の策略らしいと、リヒトールは笑う。
自分の仕事はこういうことを知ることであり、それをコントロールすることだ。その手腕が足りていないと、こういう事態になる、と苦々しく目を伏せた。
「愚かしいですか、兄上が」
思わずリヒトールは、そう問いかけていた。
ざわりと感情を波立たせるリヒトールの言葉を、クウリは鼻で笑った。
「まったくです。あなたは種馬ぐらいしか能のない失敗のようですしね」
あざける言葉に、ぐらりと視界が揺らいだ。
ふつふつと煮えたぎる馴染みのない自分の感情を、リヒトールは笑う。
兄を愚かしいという。
平和にその力を傾け続け、心血を注ぐ。その心の重さを嗤う言葉に、リヒトールは、ああ、まったくこれだから理解の及ばぬものは嫌いだと心の底から思った。
等しく、すべてに幸あれと。
均しく、穏やかに愛せと。
そう願う神の戒律を、かなぐり捨てて。
ざわりと水面に波が立つ。
その向こう側には、闇に勝るとも劣らない深い黒い眼の『母』がいた。
ゆるりと微笑む姿は捉えどころのない星のようだ。乳白色の石で作られた滑らか細い腕を、『母』は音もなく差し出してくる。ふふ、と漏れる笑い声は、夜の砂漠で風に吹かれる音のようだ。
『ああ、かように泣かずとも好い。母が、赦す故』
ぐつぐつと煮えたぎる心も、それでよいと母が笑う。尊重すべき戒律を、すべてかなぐり捨ててしまったとして、かまわないという。
自分の一番大事なものを見下すその態度が赦せない。痛い目にあわせて殺してしまいたいと、リヒトールが覚える感情はひどく暴虐だった
赦されるはずもないのに。
ゆるす、と柔らかい声がいう。
「あにうえ・・・」
破るべきではない。
そんなことは、だれも望んでいない。
そう、リヒトールだって思う
それでも。
「・・・あにうえ・・・」
愛した人と、国を天秤にかけて、すべてを守ると決意した。
そのために己自身も犠牲にした。それでどれだけ苦しんだのかは、ただそばにいた自分がよくわかっている。愛することすら許されない王族とこの血が、その戒律に苦しみながら愛しぬいた兄の一途さが、リヒトールには偉大に思えてならない。
どれだけの苦悩を抱えていたのか、リヒトールには量りきれなかった。愛した人をなくして、それでもなお、悲しみを覚えることのないよう努めながら生きていかねばならないのだ。
我らはかくあれと定められた一族であり。
神はそうせよと仰せだ。
それを痛ましく思うことすら、リヒトールには許されない。
兄を慰める言葉すら、口にはできない。
相談に乗ることも、できやしない。
そんな中で、血を吐くような決意を、兄はしたのに。
その決意をした兄を笑うことが、今のリヒトールには許せない。
「ごめん、なさいぃ・・・」
どうしても。
できることならすべきではないと、長年にわたってしみこまれた意識に苛まれて、たまらず口にした。
『佳いぞ!!母が赦す!!さあ、ありゃせい!ややこ、王権はそなたのぞ!』
その声に、息を吸った。
金色の目が、こちらを見た気がした。
—————!!!!!」
鳴き声交じりの謝罪が、絶叫に変わった。
詩ではない。許せないという怒りが風になり、あたりを切り刻む。
死ねばいいと、リヒトールは心の底から思った。
「へいか!」
「・・・ちッ」
自分の声で、ほかの声もわからない。
それでも。
(ゆるせない・・・)
くそ、と声がした。少し低めのかすれた声は、獣だと知った彼女の声だ。
それにつられて、からん、という音に、わずかに意識がそれた。
「行くな!リヒトール!!」
きいん、とスルザの声がした。
はっとして視界を取り戻せば、リヒトールの前に、スルザがいた。
ど、と体がぶつかったスルザには、最初に落としたスルザの剣が腹に刺さっている。その剣を手にしているのは、クウリだ。
「え・・・」
血まみれて切傷だらけのクウリが苦悶の表情を浮かべていた。
同じように新たにできた傷だらけの細い体が、リヒトールに寄りかかってくる。反射的に、体を支えようとリヒトールは手を伸ばした。
「ふざけるなよ・・・」
だが、低い声でスルザはリヒトールの手を払った。
「争いのないことの、何が愚かか!」
怒号とともに、スルザが踏み込んだ。
よろよろとするクウリの顔面に、拳を叩き込む。ばあん、とぶつけられた衝撃で、クウリが倒れこんだ。
(え、ええええ)
細い体に大人一人分を吹っ飛ばす力があることに驚愕して、リヒトールは視界を戻した。というより、戻ってしまった。
いまだざわざわとする心はある。けれど、はー、と大きく肩で息をするスルザから、リヒトール以上のざわめきを感じて、少し冷静になった。
彼女ときたらその腹には剣が刺さっているというのに、金色の目をぎらぎらと燃やしながら、大きく息を吸い込んで、拳を握りしめる。
「おまえは、知らないのか!」
打てば響く、朗々とした声は衝撃のようにあたりに広がった。
「飢えの苦しみを!」
がりがりにやせ細り、古いものも新しいものも、貧相な体は傷だらけ。その傷のせいか、顔すら引きつらせる少女の言葉の重さに、リヒトールは動きを忘れた。
スルザはクウリの両腕を持つ。
そして本来腕を曲げる方向とは別の方向へと、体重をかけた。
「いっああああああ!!!」
ぼきり、という音に重なって、クウリが眼の端に涙を浮かべて絶叫した。
まず腕を折ったスルザは、躊躇なく次の足に手をかけた。
彼女の横顔を見て、リヒトールは言葉を探した。
少女は。
傷つけているというのに、まるで自分が切り裂かれているような、凄惨な顔をしていた。
「寒さのしのぎ方を!」
ごきり、と足もおかしな方向へとねじり上げた少女の慣れように、リヒトールは心臓をつかまれた気分だった。
「・・・知らんだろうな。人間はな。・・・ああ、そうさ。俺は奴隷だ。人間の言ってることなんかわからねえ」
だからいいよな、と少女は凶悪に顔を引きつらせて笑った。
ぎらぎらと輝く金色は、ひどく凶悪だ。禍々しく輝く黄金に込められた慣れと諦観は、彼女の人生を語る。それだけその目に映した希望の底辺を反射していた。絶望の最果てを見た眼光は、太陽に照らされる砂のようだ。
彼女の立つ大地は、いつも太陽に熱せられている。灼熱に足は焼かれているだろう。それでも彼女は二本の足で、リヒトールの前に出ていく。
触られることすら体を固まらせて怖がる獣と、彼女は同じだ。本当にあの四つ足の獣は、この目の前の少女と同じなのだと、リヒトールは一切の疑いを捨てて思った。
他人を苦しめることに、躊躇がない。その一切の慈悲のなさは、与えられなかったことの裏返しだ。
それだけ痛めつけられて、苦しんだのだ。
彼女は正しく、人の手は恐ろしいと知っている。その手が暴力をふるうと信じて疑わない。自分を傷つけるものとよく知っていた。条件反射になるほどに教え込まれ、そして痛めつけ返したのだ。その痛めつけ方すら、おそらくは教え込まれる形で。
これだけの躊躇のない暴力の振るい方をできる彼女は、これまでそれを命じられてきたのだろう。そして実行せねば、飢えるような、そんな生活だったに違いない。
きっと死にそうな目にもあっただろう。傷を作った分だけ、命の危機はあったのだろう。
それでもここまで、彼女は生き抜いた。
その痛ましさに、リヒトールは胸が締め付けられた。
どうしてここまで痛んだ彼女を、誰も救ってくれなかったのだ。
そんな理不尽さをなじりたくなる。
けれどそんな彼女が、声を上げて叫んだのだ。
善き王だ、と。
業火に足を焼かれながら、ここまで歩いた。
そしてその命で、そのありようで、彼女は叫んだのだ。
ここまで生きた、その命が。
(ああ、)
その低い声で、削るように叫ばれる選択が。
(ああ、)
傷のついた顔で、うまく動かない顔を引きつらせてにらむ眼差しが。
(ほんとうに)
どんな鳥のさえずりも勝らないほど、美しい。
(ほしい・・・)
これがほしいと、リヒトールは心の底から思う。
こんなに美しくてきれいなものは、ほかの誰にも渡したくない。
暴虐をすることに躊躇のない、その心が欲しかった。死にそうになっても、それでも生き抜いた強いその命がほしい。
その心で選んで、リヒトールの名を呼んでほしい。
許されないと、そんな独りよがりで強欲なことを望むべきではないと、冷静にいう自分もいる。
けれど、いっそ芸術家のように丁寧に足と腕をねじり上げて痛めつける姿に、リヒトールは思わず足を踏み出した。
「やめてください」
リヒトールは両手を伸ばした。
ほしくてたまらなくて、それでも人間を恐れる美しい獣が自分のものにならないから、縋るように抱きしめる。
近くに顔があるのだろうと、そんなことを思って笑う。
リヒトールは、その美しくて禍々しい黄金の瞳を間近で見ることは叶わない。
どうして、とリヒトールは初めて悲しくなった。
(私は、目が見えないんでしょう)
できることならば、その美しい眼が間近で自分を映す姿を見たかった。
「リヒトール・・・さま」
案の定体を固くした獣は、恐ろしさを抑えてリヒトールの名を呼んでくれた。
彼女からは、鉄のすえた、血の匂いと、酸っぱい汗の香りがした。
細腕でも殴れば男一人を吹き飛ばせる怪力の持ち主は、リヒトールを振りほどこうと思えばすぐにできるはずだった。けれど、どうしていいかと困惑したように身じろぎをする獣は、リヒトールの腕から逃げないでいる。
怯えを静かに悟らせないようにする健気さに、リヒトールはますますこの腕の中の生き物が欲しくなった。
「もういいです」
腕の中に囲った少女の体は熱かった。きちんと熱を持つ体は、両腕で囲っても余るほどに小さい。こんな小さな生き物が傷だらけになるほど痛めつけられたのかと思うと、リヒトールは悲しくなった。
「おまえが、死んでしまいます。そんなに傷だらけなのに」
「は、あ・・・?」
何を言っているんだ、と言いたげな声音だった。
きっとこれぐらいの傷は、たくさんおってきたし、彼女にとってはよくあることなのだろう。痛いとか苦しいとかは二の次になっている。こんなふうになるまで痛めつけられたのかと思えば、こうした存在が憎らしかった。
「もういいです。十分です。休んでください」
請う言葉は命令になってしまったようだった。『ワカッタ』と返事をした小さなそれが、スルザにふ、と力を放つ。
「なん、いや、おれは・・・」
とろり、と瞼を落としそうになるスルザは少しばかり抵抗した。
「・・・あなたを・・・とめない、と・・・」
その言葉にリヒトールは頬を緩ませた。力が抜けてふらつきそうになるスルザの体を支え、抱きしめる。
初めて会ったとき、スルザに止めてくれとお願いした。その約束を守っているのかと思えば、すぐでも小さな体を抱きしめてしまいたかった。
「大丈夫ですよ。あなたは十分よくやってくれました」
スルザが不思議そうな顔をしたのが分かった。相変わらず自分の視点でない視界に、彼女の顔は見えるが、近くでないことが惜しまれる。
すう、と小さく息を吐いたのが分かった。刺さったままの剣は下手に抜かないほうがいいかもしれないと、思ってそのまま彼女の体を抱えて座り込んだ。
クウリは痛みに顔を歪めて、転がっていた。セフルが近くにいるはずだが、彼も痛めつけられていたので、起き上がれないのかもしれない。
自分の手の中に欲しいものがある満足感で、リヒトールは微笑んだ。
『・・・王権はいらぬかえ?』
ふと顔を上げれば、美しい『母』がほほ笑んでいた。黒い眼は、すべてを許す夜の色で、ゆるく丸を描きながら腕の中のものを見ている。
リヒトールが何もかもいらぬから、すべて国のために、と愛しさと暴虐を履き違えたことを許した神だった。
ずっとずっと、小さなころからリヒトールの感情をすべて愛した『母』である。目の前の美しいそれは、まぎれもなく『母』であり、神だ。
『母』は長いまつげを伏せてその顔に影を落として微笑んだ。
『ややこや、良いのだえ。そなたが王権ぞいらぬものと申すならば、いいのだえ』
ここまで与えてなお、彼女はリヒトールが選ぶのならば、そのわがままさえ許すと、そういう。
『そなたでようやっと二人目。されど、前は王権ぞいらぬと申した。愛しいややこは、かように力があったとて、いらぬと申すものよ。母は、いいのだえ』
母のやさしさは、よくわかっていた。
けれどこれだけの暴虐をしてなお、それを与えるから許すといった『母』を、リヒトールは裏切れない。
「・・・すべては受け取れません。死んだ後に、すべて受け取りましょう。それでよければ、私にこの獣を愛する時間をください」
譲歩してくれと請えば、『母』は少女のように破顔した。
『善き答えぞ。その約束、たがわぬよう、そなたには少しばかり与えてやろうな』
案ずるな、と『母』はリヒトールの頭をなでた。
『自由に生きるだけの時間は、人並みよ。お前が慈しみ、幸あれと願うために』
「ごめんなさい・・・」
すぐにあなたのところへ行けなくて、とリヒトールが微笑むと、彼女も微笑んだ。
『子の成長は瞬きの間よ。それが愛おしいのだろう?なれば取り上げることなどできまいよ。そなたを壊すのは母の本位でないゆえ』
にっこりと笑った『母』が、両手を広げた。
『マタネー』『キットスグ』『リヒトール』『スグダヨー』
けらけらと笑う声が遠ざかる。『母』の黒い眼は、リヒトールの顔を映した。
そこに映ったことで初めて、リヒトールは自分の目が赤い色をしていると知る。
夜のような色が、リヒトールに与えるものを流す。そこで初めて、リヒトールは瞬く星のような数の情報を知り、そして。
世界の真実に触れた。


投稿にいいねする


© 2026 Privatter All Rights Reserved.