@myon34
『地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった』。
1961年、人類初の宇宙飛行を成し遂げたソヴィエト連邦の宇宙飛行士(コスモナウト)であるユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリンはそう言ったらしい。
それらは冷戦まっただ中の世界へと伝播していくうちに、今日私達が知る言葉である『地球は青かった』へと変化したそうだ。
中学生の私に、そんなどこで使えるかも分からない豆知識を授けてくれたのは同じクラスの級友だった。 自分の髪と似た、ふわっとした雰囲気の女の子。
普段は普通の、どこにでもいる女子生徒なのだが、宇宙の話になると彼女は途端に饒舌になった。
下校途中、よく空を見上げては飛んでいる飛行機を見つけ、目を輝かせ、そして私の危惧した通りよく転んでいた。
自分の夢は宇宙飛行士になることだと、いつか彼女の家へ遊びに行った際に打ち明けられたことがあった。
無理だろうと当時の私は思っていた。
宇宙飛行士という職業のハードルがどれだけ高いものなのかは、いくら私だって知っている。男性であってもほんの一握りの人間しか到達することを許されない頂だ。ましてや女性の彼女に、そんなことはできっこない。
「いやぁ、アンタには難しいんじゃない?」
彼女の部屋にあった天文学の本を流し読みしながら、私はそう答えた。
「なるもん」
むすっとした表情を作った彼女は、むくれっ面のまま手にしたクッションを強く抱きしめてふてくされていた。
その仕草が随分と可愛らしくて、私はつい苦笑してしまった。
いつか現実を知る時がやって来る。きっと彼女は悲しむ。泣いてしまうかもしれない。
(なら……)
少なくとも私は彼女の傍にいてあげよう。
どこかでその夢が破れてしまった時、励ましてあげられるように。
今思い返すと傲慢な考えにも似た感情と共に、私はそう決心した。
勉学の成績は私とどっこいで、体育に至っては私よりもどんくさい彼女だったけれど、彼女は中学校の三年間でその夢を諦めることはしなかった。
勉強も運動も、およそ学校で行われる授業に彼女は精力的に打ち込んだ。
居眠りすることなく授業を真剣に聞き、熱心に身体を動かした。
結果がどうであれ、彼女はとにかく努力した。一生懸命だった。
脇目もふらずに日々に取り組む彼女の姿はどこか眩しくて、それと同時に羨ましかった。
彼女を突き動かしている原動力。そんな夢(もの)が自分にあるのか、と不安に駆られた瞬間は一度や二度ではない。
それでも私は彼女の傍にいた。いたいと思った。
夏休みに猛勉強した彼女は、当時誰もが無理だと言っていた難関高校へ見事合格を果たした。3ーCの奇跡といえば今でも同窓会では語り草の一つになっているくらいだ。
卒業を迎えて離ればなれになった私達は、やがて疎遠になっていった。
最初こそメールなどでやり取りは続いていたけれど、それも新たにやって来た三年間のうちに希釈され、薄まっていった。
それ以降、私はなるべく彼女のことは考えないようにしていた。あの身勝手な誓いさえ果たすことができない自分が情けなくて、恥ずかしかったからだ。
だから彼女が日露共同プロジェクトとして企画された、女性飛行士のみで構成された宇宙飛行船「アリョーシャ」の搭乗員候補として選抜されたというニュースを大学の学食で見た時、私は素っ頓狂な声を上げたのだ。
その日のうちに「受かったよ!」という件名と共に彼女から送られてきたメールを読んだ時、思わず目頭が熱くなった。
あぁ、あの頃と何も変わっていない。
きっと私なんかよりもずっと凄い人達に囲まれているはずなのに。
それでも彼女は、私とずっと友人でいてくれるんだ。
私はその日、自分の部屋でひたすらに泣いた。
どうして涙が溢れてきたなのか、今になってもよく分からない。
ただ感情が次から次へと溢れてきて、それを止める術が当時の私には無かったのだ。
「ふぅ」
次の仕事の打ち合わせを終え、私が帰宅した頃には既に時刻は23時を回ってしまっていた。
部屋について一息つくと、ベランダに面した窓を大きく開いた。
少し前まで夏であった頃の面影を全く感じさせない涼しげな夜風が頬を撫でていく。
見上げると、夜空にちりばめられた星が煌めいていた。
私は端末のスイッチを入れる。
ややあって起動したパソコンからネットにアクセスし、指定したページを呼び出した。
プレセツク宇宙基地……ロシアのアルハンゲリスク州にあるロケット基地からのライブ映像だ。
私は椅子に腰掛けると、イヤフォンを付けた。
現地の喧噪に混じって、レポーターの日本語が聞こえてきた。
既に搭乗員達はロケットに搭乗した後のようだった。
画面の中央、まるで何かのモニュメントのように厳かに佇んでいる一機のロケットこそが、彼女を乗せた宇宙船「アリョーシャ」だった。
間もなく打ち上げです。
不安と期待が入り交じったレポーターの声が聞こえた。周囲のざわめきは一層大きくなった後、不意に静かになる。
画面に映った人々は、誰しもが固唾をのんでロケットを見守っていた。
5。
打ち上げのカウントダウンが始まった。
一緒になって声をあげる人、黙って見つめる人、様々な姿が私の目にも映り込んでくる。
4。
「アリョーシャ」は打ち上げ後、国際宇宙ステーションへとドッキングして幾つかの活動をこなし、再び地球へと帰ってくるらしい。
3。
彼女は帰ってきたら何というのだろう、と考えた。 ガガーリンの言葉をそのままに、「今度は間違えないように」とか言い出さないだろうか。いや、それは流石に考えすぎか。
2。
ざわめきが大きくなる。つられるように、私の意識も画面とイヤフォンに集中していた。
1。
今、彼女にどんな言葉を贈ることができるだろう、と考えた。
0。
結局、「行ってらっしゃい」なんて益体のない言葉が浮かんだ。
けれど、それでいいのかも知れなかった。
リフトオフ、とレポーターが謳うように声を上げた。
耳を劈くような轟音。
燃料を燃やしながら、ロケットは晴天の中をどんどん上昇していった。
ほどなくして、「アリョーシャ」は米粒のように小さくなり、遂には見えなくなった。
イヤフォンから聞こえてくるのは、打ち上げ成功を言祝ぐ喝采の声。
私はほっと息をついてから、イヤフォンを耳から離した。
煙草の箱とライターを手にとって、開け放したベランダへ向かう。
手すりに身体を預けながら煙草に火をつけた。ゆらゆらと揺れる紫煙が、さっき見たロケットのように高く高く立ち上って掻き消えていく。
見上げた夜空はさっき見た画面に映った青空と同じくらい澄み切っていた。
私の見上げる星の海、あるいは彼女の飛ぶよく晴れた空の下。
人は死んだらお星様になる、と昔誰かに聞いたことがあった。
だとしたら彼女が憧れたガガーリンもまた、私が見上げる夜空のどこかで瞬いているのだろうか。
慣れない感傷に浸ったまま、私は胸の内で小さく祈った。
ズドラーストヴィチェ、ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン。
たった今、私の友人が花嫁の姿を見に、宇宙へ旅立ちました。
青いヴェールに包まれた花嫁の素顔を見た先達として、彼女の航路を見守ってくれれば幸いです。
煌々と輝く星の光に目を細めながら、冴えた夜の空気を肺に満たす。
夢を掴んだ彼女が飛ぶ空の下で吸った煙草の味は、普段よりもどこか味わい深かった。