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作品№11 「再演:銀河鉄道の夜」

全体公開 9049文字
2018-10-12 23:58:14

舞台を降りた役者の話です

Posted by @myon34

『──もう梅雨ですから、ねー、最近は雨の日も多くなっちゃって。傘が手放せない日が続きますけども。
 そうそう、私実は雨が好きなんですよ! 友達に言うと「えー?」って言われるんで、いっつも頬を膨らませるんですけど(笑) 雨粒が傘を叩いたりとか、長靴で水たまりに入ったりとか、そういうのが好きで! 子供っぽいって言われたりするんですけどね!
 とまあここまで話してまいりましたが! お別れの時間が近付いてまいりました!
 今週も夏にしてはねー、寒い日が続きますが、皆様お体にお気をつけてお過ごしください!
 TOKYO FMラジオ「Fresh Morrrning!!!」お相手は伊藤春奈でした! また明日〜!』


 ──もう古くなったラジカセが音を立てて止まり、部屋中にふわふわと漂っていた僕の意識を呼び戻す。
 閉じようとする瞼を無理矢理にこじ開けて、僕の魂をベッドに縛り付けているタオルケットを蹴飛ばし、なんとかベッドに座ることができた。
 目覚まし代わりに鳴らす、デビューより前からファン第一号を自称してずっと追いかけてきた女優の、ラジオ番組。どんな陰鬱な朝でも、それを全て吹っ飛ばしてくれる。
 耳に残る甘ったるい声を思い出しながら、僕は窓の外を見た。
 雨は、降っていなかった。
……梅雨入りは、来週かな」
 僕の一日は、ここから始まる。


「おっはよー直ちゃん! うっわ、ひどい顔してんね……悪い夢でも見た?」
 同居人の楠木ハルカは、歯に衣着せぬ物言いをする。
「そうかもね、覚えてないや」
「えぇー? 私、その日の夢を忘れたことって一度もないよ?」
彼女はくるくると回りながら、ソファの上に飛び乗った。
「ハルカ、ソファの上に飛び乗るな」
「はぁーい。直ちゃん、朝ごはん食べる? 昨日作ったカレーあるけど!」
「僕が作ったやつだろ、それ」
 カーテンがふわりと靡き、開いた窓からふわりと風が六畳のワンルームを巡る。「そういえばさ」ふと、カレーを運ぶ手が止まった。
「この公演、今日だけど」
 テーブルの上に置きっぱなしにしていたチケット。憧れの劇団四季。一年も前に予約したその公演は、今日が千秋楽だった。
「珍しいじゃん、ミュージカルなんて」
 そんなことはない、と思う。演劇は昔からずっと好きだし、舞台だって何度も見に行った。
「また、舞台に立つ気になったの?」
……まさか。僕にはできないよ」
 笑みを浮かべながら言ったつもりだった。声は、少し硬かった。
「ずっと夢だって言ってたのに。いつか大きな舞台に立つのが夢だって」
「今更、夢なんて追いかけてもなあ」
 そんなことを、よく覚えているものだと思った。舞台に立って芝居をしたいなんて、学生の頃の夢だ。
 確かに、その夢に必死にしがみついた時もあった。日夜練習に明け暮れて、暇さえあれば有名な俳優や脚本家の書いた本を読み漁った。でも、社会人になってからは、いったいどこからそんな情熱が生まれてきていたのかわからなくなるくらい、興味を失ってしまった。
 一日のうち八時間を仕事に使う日々。バグを見つけては頭を下げるだけで生計を立てる人。業務を部下に押し付けて、煙草を吸うだけで金を稼ぐ人。テレビでけらけらと笑うだけで、僕の月収と同額のギャラを受け取る人。
 この社会では「金になることが正義なんだ」と、気付くまでにはそう時間はかからなかった。対価こそ価値の証明だと、身をもって感じた。僕が舞台に立ってもビタ一文払わないような人たちが、僕が会社で拙いソースコードを書いた途端に、人ひとりが生活ができるほどの金をくれる。社会における僕という演者の価値は、このソースコードよりも低いものだった。
 ずっと、すごいことをしていると思っていた。舞台に立って、光を浴びて、主役を演じて、観客を魅了する。きっと一握りの人しかできないような、尊ばれることをしていると思っていた。自分は、特別な人間だとさえ錯覚した。
「私は好きだったけどな、直ちゃんの演じるジョバンニ」
 それでも、そう言われるだけで、心のどこかで舞台に立つのも悪くないかな、なんて思ってしまう。やっぱり僕は特別な人間なんじゃないかと、錯覚してしまう。少し褒められただけで有頂天になって、周りが見えなくなる僕だから、そんなことは今までも何度もあった。
「昔は好きだったんだけどね、舞台に立つのも」
 そしてその度に、はるか遠くで輝くプロの舞台俳優との差を見せつけられ、投げ出してしまう。そんな自分が大嫌いで、そんなことを繰り返しているうちに、舞台のことも。
「いつのまにか、嫌いになってしまった」

 結局のところ、公演には行かなかった。かの有名な劇団四季のことだ。僕がどれだけ暗いものを抱えて、自己嫌悪に塗れたまま観劇したとしても、きっと彼らは僕の心を動かすだろう。だからこそ、行きたくなかった。
 公演に行きたがるハルカに押し切られそうなところに、急な休日出社の要請が来たのは、僕にとっては僥倖だった。
「断ればよかったのに!」
「ハルカこそ、一人で行けばよかったんだ」
「一人じゃ入れないもん! 申し込み、直ちゃんの名前じゃん!」
 そういう問題か? と思ったけれど、首を傾げるにとどめておいた。
「仕事があるって言うから来てみれば、僕一人しかいないんだもんなあ……
「私がいるじゃん」
「手伝ってくれる?」
「むり~! プログラミングとかやったことないので!」
 ふざけ調子にふらふらと歩きまわる。
「じゃあお茶でも持ってきてよ」
 ため息とともに小さく呟くと、「はーい」という軽快な返事と共に、ハルカは自販機の方へ向かった。
 それを見届けてから、軽くエンターキーを叩く。気が遠くなるほどのエラーを吐き出し続けるプログラムを見ていたくなくて、目を逸らすと時計が午後一時を指したところだった。
「開演時間だ」
 手ぶらで戻ってきたハルカが言う。
「お茶は?」
「お金持ってなかった」
「持っていかなかったんでしょ」
「そうとも言う。ねえ、本当に行かなくてよかったの?」
 ハルカが不満そうに僕をにらむ。
「仕方ないだろ、仕事が入ったんだから」
「そんな理由じゃないくせに」
 確かにそんな理由じゃないけれど、別に言う必要もないかなと思う。僕と同じように、いや、僕以上に舞台を愛している彼女に対して、それは失礼だと思うから。
「そういえば、さっきの夢の話なんだけどさっ」
 ああ、これは相当根に持っているなと思った。でも仕方ない、仕事が入ったんだから。
「バクって夢を見るのかな」
「は?」
「バク。夢を食べるやつ」
「そんな話してたっけ?」
「いや、してなかったけど。なんか気になっちゃってさあ」
 バクって、どんな生き物だったっけ。オオアリクイみたいな形をしていた気がする。いや、違ったっけ?
……寝るのなら、見るんじゃないの?」
「やっぱり? じゃあ自分の夢とか食べたりするのかなあ」
 言われるがままに、自分の見た夢をもぐもぐと咀嚼する得体の知れない生き物を想像して、思わず「うわっ……」という顔をしてしまった。
「美味しくなさそう……
「あははっ! そもそも夢って美味しいのかな?」
「わからない。でも自分で食べられるならエコでいいね」
 ハルカは心底おかしいといった様子で笑った。
「直ちゃんが自分の夢を覚えてないのって、バクに食べられてるからかもね」
「えぇ、やだなぁ……うちのアパート、ペット禁止なんだけど」
 ハルカが身をよじりながら「なあにそれ」と言って笑う。
「ハルカが食べてるんじゃないの? 僕の夢を」
 釣られて笑いながら口に出してから、あながち間違ってはいないなと思った。バクに食べられる方の夢じゃないけれど。
「うふ、バレた?」
「で、僕の夢は美味しいの?」
 僕の想いを知ってか知らずか、ハルカは考え込むように「うーん」と首を傾げる。
「食べ足りない、かな」


 エラーを全て駆逐したのは終電が発車した三分後で、僕は歩いて帰ることになった。東京の、間の短い駅三つ分とはいえ、休日出勤とサービス残業の後に素面で帰るのはなんだか癪で、飲み屋に寄ってから帰ることにした。
 あまり覚えてはいないけれど、また夢の話をした気がする。今の僕の夢は、何なのかって。ハルカと一緒に居られればそれでいいなんて歯の浮くようなセリフを口走ったような記憶があるけれど、嘘はついていない。別に素面だったとしても、夢は何かと聞かれれば、僕は堂々とそれを答えるだろう。決まって「ハルカって誰?」なんて言われるのがオチだが。みんな、知ってるくせに。
 ハルカの夢は、何だったっけ。聞いたような気がするけれど、忘れてしまった。



『おや、もうお別れの時間が近づいてまいりました! ほんっとに三十分って早いよね!
 さて~! 「Fresh Morrrning!!!」ではおたよりを募集しています! どしどし送ってくださいね!
 今は晴れてますけれど、梅雨の時期ですからね! 油断せずに傘をお忘れなく!
 それでは! TOKYO FMラジオ「Fresh Morrrning!!!」お相手は伊藤春奈でした! また明日〜!』
 ガチャリとラジカセが音を立てて止まり、今日の目覚まし代わりのラジオが終わる。
 ぼんやりと部屋中を漂っていた僕の意識が、窓の外の微かな雨音に気付く。
「雨、降ってんじゃん。嘘つき」
「仕方なくない?」
「まあそうだけどさ」
 二日酔いが残っている。いつもより念入りに顔を洗った。
「前から思ってたんだけどさ」
 不満そうにハルカが頬を膨らませる。
「毎朝そのラジオ聞くの、やめない?」
「やだ。僕は伊藤春奈の大ファンなので」
「それは……知ってるけどさ」
 ハルカが言った。
「私がいるじゃん」
 思いがけないセリフに、吹き出してしまいそうになった。
「ちょ、笑うことじゃないでしょ」
「いや、なんか、そんなこと言うと思ってなかったから、可笑しくて」
 そうは言っても、毎朝このラジオを聞くのがもうとっくに癖になってしまっている。ハルカが家に来るようになるずっと前からの習慣だ。今更普通のアラームに変えたって、きっと僕は起きられないと思う。
「そういえば、郵便来てるよ」
「郵便?」
「そ、劇団四季のチケット。なんと明日のチケット!」
……え?」
 劇団四季のチケットは、そう簡単に手に入るものじゃない。場合によっては一年待ちなんてこともある。それに。
「どうやって取ってきたの?」
「えへ、北十字劇団の座長にお願いしてきた」
「あのバアさんに?」
「うん、コネあるって前に言ってたし。久しぶりに顔出したから、すっごいびっくりしてた。座長ったら、もうわんわん泣き出しちゃって」
 楽しそうに言うハルカに、僕はついていけなかった。
 座長に会いに行った? どうして? いや、どうやって? そんなことがぐるぐる回って、頭の中が整理できない。
「座長、直ちゃんならいつでも帰っていいって言ってたよ。すぐにでも舞台に立てるようにしてあげるって」
……舞台に?」
「ね、直ちゃん」
 息がかかるほどの距離に、ハルカの顔がある。顔が触れそうになって、思わず僕は後ずさる。
「昨日、夢の話をしたでしょ? 君が夢を叶えるのを、一番近くで見るのが私の夢だって」
 ──違う。それは、違う。
「君が、大舞台で主役を演じるのを、ファン第一号として、真っ先に見るのが私の夢だって」
 違うんだ。逆なんだ。あべこべなんだ。
 〝僕〟じゃない。舞台に立つのは、僕じゃない。
 その夢は、僕のものじゃない。その夢は、君のものじゃない。
「夢を叶えさせてよ。私だって、さっさと成仏したいんだ」



 ずっと、その背中を追いかけてきた。
 彼女のようになりたくて、彼女に追いつきたくて、彼女と同じ舞台に立ちたくて、ずっと。
 ずっと、その背中を追いかけてきた。
 やっとの思いで主役を勝ち取っても、舞台をリードするのはヒロイン役の彼女だった。観客を魅了したのは、彼女の演技だった。
 僕じゃなかった。輝いているのは、僕じゃなかった。
 舞台に立っていたのは、僕じゃなかった。
 光を浴びていたのは、僕じゃなかった。
 どんなに自分を演じたって、どんなに取り繕ったって、彼女の芝居には届かなかった。
 社会に認められた演者は、彼女だった。
 人から求められた演者は、彼女だった。
 僕じゃなかった。
 だからせめて、僕は見届けることにした。舞台から降りて、観客席に座った。僕にはできなかった夢を、彼女が叶えるのを見るのが、僕の夢になった。
 それからの彼女は、まさに快進撃だった。テレビドラマにも出演して、冠番組もできて、彼女が主演を務めるミュージカルの公演が開かれることにもなった。
 その初演の日。今でも忘れることはない。五年前のあの日。僕が最前列のチケットを当てた、初演のマチネ。演目は銀河鉄道の夜。
 舞台に袖に入る男。スタッフかと思った。揉める声。小さな社会人劇団なら、まあよくあるトラブルだと思った。
 開演時間になっても鳴らないブザー。舞台袖の悲鳴。焦ったようなアナウンス。音響機器のハウリング。逃げる観客の足音。怒号、罵声、血の付いたナイフ。脳にこびりつくような、救急車のサイレン。
 彼女が、舞台上に現れることは、なかった。



「ごめんね、勝手なことして」
 思わず取り乱した僕は、一人で屋上に逃げ込んでいた。
「でも、君ならできると思うの。きっと、すごい俳優に……
「今からじゃ無理だ」
「ううん、そんなことない。そんなことないよ」
「家賃だってある。貯金も足りない。仕事をしながらできるほど、甘くない世界だってことも痛いほど知ってる。それに」
 ハルカが、息をのむ。
……その先に、君はいないんだ」
 ハルカの顔が、一瞬、痛々しく歪む。それから、今にも泣きだしそうな顔をして俯いた。
「確かにあの時続けていれば、何年遅れてでも君に追いつけたかもしれない。同じ土俵に立てたかもしれない。あの時、僕が舞台を降りたことは、君が死んでからずっと後悔してた。今も後悔してる。
 でも、今から頑張ったって、君と同じ舞台に立つことはできない」
 俯いて震える彼女の涙を拭おうとして、伸ばした手を僕は下ろした。とうに死んだ彼女には、触れることはできないから。
「君が、僕に気を遣ってくれてるのはわかってる。でも、もう大丈夫だよ。ありがとね」

 何かが、割れる音を聞いた。
 目の前が真っ白になって、空気が痛いほど震えて、驚いて前を向いたとき、ようやくハルカが何かを叫んだのだとわかった。
 ただ一声で広大な舞台を支配する、僕の愛した最高の舞台女優が、ただ一人のために叫ぶ声を聞いた。
「ふざけないで! 私はそんな……そんなことのために直ちゃんのとこに来たわけじゃない!」
 僕以外の誰にも聞こえない声で、叫ぶ。
「ずっと、背中を追いかけてきた! 直ちゃんみたいになりたくて、必死に練習した! 直ちゃんが舞台を降りても、きっとまた戻ってきてくれるって信じてた! それが、私の夢だったから……!」
 唇を噛む。
 もう、ハルカは泣いていなかった。
 強い意志の篭った、凛とした目で、腑抜けた僕を正面から射抜いた。
 強い人だ、と思う。どれだけ感情を爆発させても常に冷静で、相手をしっかりと見れている。つくづく、舞台に立つために生まれてきたような人だ。だからこそ、追いつけない。
……僕が芝居を始めたのは、自分が嫌いだったからなんだ」
 自分が嫌いだった。根拠もないのに自信家で、夢見がちで、何かをするたびに痛い目を見る。だからこそ、自分じゃない自分を夢見て、かっこいい自分に憧れて、芝居の道に入った。
 自分じゃない何かを演じられることなら、なんでもやった。主役だって、脇役だってやった。世界を思い通りにできる脚本も、思う通りに舞台を動かせる監督も、全て学んだ。
 そうして身に付けた「僕じゃない僕になるための皮」を纏って、完璧な自分を作り上げて、舞台に立った。
 それでも、楠木ハルカには──女優、伊藤春奈には届かなかった。
 自分じゃない自分、最高の自分。それでも、届かなかった。
 想像力の敗北。常識の檻に囚われたまま、僕はただ、檻から飛び出して観客を魅了する彼女を、見ていることしかできなかった。
「僕は、君の思っているような人じゃない」
 自分を取り繕うのに必死だ。今もそう。昔からずっとそう。今の自分が嫌で、ずっと足掻いて来た。取り繕った自分も届かなかったから、舞台に背を向けた。ファンとして彼女を追いかけることで、一緒に夢を追いかけた気になった。
「君のような大女優から、追いかけられるような人じゃないんだよ」
 僕は、笑った。彼女は、笑わなかった。
「ねえ、覚えてる? 直ちゃんが私に初めて夢の話をしてくれたこと。俳優になって、大きな舞台に立って、いつか誰かの心を動かしたいって。誰かの心に、自分の芝居を残したいって。自分が存在した証を、誰かの心に刻みたいって!」
……そんなの、後付けの理由だ」
「後付けだってかまわないよ。直ちゃんが言ったのなら直ちゃんの言葉だよ。直ちゃんが考えた理由なら、それは立派な直ちゃんの想いだよ」
 大きく息を吸い込んで、「……私は」と言う。凛とした声で、言葉を紡ぐ。
「私は、直ちゃんの夢に憧れたんだ。だから」

「私の夢は、ずっと昔から変わらない。変わってない。私の夢は、直ちゃんが大舞台で夢を叶える時に、それを一番近くで見届けることだよ」

 言葉が、見つけられなかった。二人の間に沈黙が落ちた。急に静かになって、音を欲した鼓膜が雨水の垂れる音を拾う。「相手役で、ってのは叶わなくなっちゃったけどね」と、ハルカが照れながら笑う。
……君が夢を叶えたら、君は消えるの?」
「うん、そうだよ」
 もう一度舞台に立つ。妄想するだけでなく、今度は本当に、もう一度舞台に立つ。考えただけで、足が竦んだ。
 もう、夢に届かない情けない自分は見たくなくて、舞台を嫌いになろうと努力した。そうしているうちに、いつの間にか抱えていた恐怖感が、ここまで大きくなっていたとは、思わなかった。
「僕の今の夢は、ハルカとずっと一緒にいることだったんだけど」
「えぇ!? あれ、本当だったの!? 酔っぱらってたんじゃなくて?」
 もう、女優の面影は消えていた。いつもの、楠木ハルカに戻っていた。
 赤面するハルカに、届かない手を伸ばす。
「でも、まあ、あの伊藤春奈の頼みじゃ、しょうがない」
「直ちゃんさあ、芸名で呼ぶのやめてくれない? なんかムズムズする」
 本気で嫌そうなハルカを見て、僕は笑った。
「あとアレもやめてね。寝起きに録音した私のラジオ聞くの。恥ずかしいんだから」
「わかったわかった、もうしない」
「絶対だからね」
 今まで、ずっと一人で恥ずかしい想いをしてたのかと思うと、なんだか可笑しくて、僕はまた笑ってしまった。
……舞台に立つの、怖い?」
「そりゃあね。何年もかけて嫌いになったんだ、今更向き合える自信なんてない」
「じゃあ楽しいことだけ考えよっ」
「楽しいこと?」
「あるでしょ、きっと。シートシルエットを見た時の緊張感とか」
……ああ、懐かしい」
 そうだ、たくさんある。台本を読み込んで、他人になりきった瞬間の達成感。スポットライトの熱さが煽る高揚感。ポジションに立った時の緊張感。発する第一声で、観客を支配する全能感。
「ほら、もう大丈夫でしょ?」
 本当に、彼女には勝てないなと、思う。
……座長に電話しなきゃな。あと、明日の有給の申請もだ」
「バアさんなんて言ったら、怒られるよ?」
「言わないよ、本人の前じゃあね」
「いやぁ、楽しみだなあ。もう一度、直ちゃんの舞台が見れるなんて」
 嬉しそうに伸びをしながら、ハルカが言う。
「私もカムパネルラの練習しないとだ」
「え、君も出るの?」
「見てたらやりたくなっちゃった」
 ハルカは、「えへへ」と笑いながら言う。
「それならパントマイムの方がよさそう?」
「あはは! それはいいかもね!」
 今にもまた雨が降り出しそうな雲の下で、いつか叶える夢が広がっていく。
 ふと、いつぶりだろう、と思う。こんなに純粋な気持ちで、何かに取り組もうとするのは。社会に出てから、久しく忘れていた感覚だった。
「それにほら、君の夢も私の夢も一緒に叶えられるしさ」
「ああ、それは確かに」
 ずっと、その背中を追いかけてきた。








 明らかに異色な舞台でも、それなりに人は集まった。
 主役の僕が目当てなのか、カムパネルラ不在の銀河鉄道の夜に興味を持ったのか。前者だといいな、と思う。
「まさか本当にジョバンニだけでやるなんて」
「やりたいって言ったのはハルカだろ」
「そうだけどさ」
「死んだ人の残したセリフは重いんだぞ。ましてそれが夢ならなおさらね」
「オバケみたいなもんだけどね」
 そう言って、誰にも見えないハルカは笑う。
 十年前の再演だ。ハルカができなかった銀河鉄道の夜を、今度は客席じゃなく、彼女の横で。
 この舞台を全て終えた時、きっと彼女はいなくなる。それでも、不思議と気分は前向きだった。
 五年前のあの日、仕事を辞めて、座長に頭を下げて、役者としての道を選び直した日。
 多くの人に迷惑をかけた。たくさん苦労もした。そうして掴んだかけがえのない舞台が、これから始まろうとしている。
 今はただ、夢を目前にした緊張感と高揚感だけが僕を支配していた。
……後悔してる?」
……少しね。僕が舞台を降りなければ、十年前の君の舞台に、僕も立てたのかな、とか考える」
「そうじゃなくて、もう一度舞台に上ったこと」
「まさか。もう一度立ててよかった。本当にね」
「そっか、うん。それはよかったっ!」
 きっと、僕の隣でこれ以上ないほどの笑顔を浮かべているであろうハルカを、見ることは出来なかった。
 開演のブザーが鳴り響いた。


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