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死出の旅路へ

全体公開 ムゲンWARS 12226文字
2018-10-14 19:49:58

本編です。『そして、祈りが燃える』のラストシーンから続くお話になります。翡翠さんと囚獄さんと魂ちゃんをお借りしています。

Posted by @san_ph7

 部屋が、蠢く。
 周囲は暗闇の中にあると思われた。しかし本来は平坦なはずの床と壁の至るところには起伏があり、ざわざわと群を作る小さな生物でもいるかのように、さざめき、波打つ。鱗のようにも見えるが、目を凝らせばそれが細やかな羽毛であることが分かる。暗闇は誰かの身体の延長にあるのか、部屋のどこからか聞こえる掠れた呼吸音に合わせて羽を逆立てる。ともすると、部屋全体がひとつの生物であり、或いはここが臓腑の内のようにも感じられる。
 重たく澱んだ空気が地面に近いところをのたうつ。空気が悪い。部屋は、己の開放を望まなかった。つまり、ここに閉じ籠もることを選んだ。それは、「留まる」というよりは「封じる」という決断だ。人には伝染らぬ病だとて、汚染された魔力がこれ以上この世界に拡散するのが好ましい事態とは思えなかったのだ。
 部屋が呻いた。
 すると、暗闇は収縮した。ずるずると、ざわざわと、布を引きずるのに似た音を立てて、そして明確にはならないが、とにかく人の視界には捉えられる物体を形作った。闇の中、炯々と光る黄緑色の目が、いくつも浮かぶ。
 扉が開く。入ってきたのは、明るい空色の髪をした───男だった。こじ開けられた扉の隙間から清浄な空気を男が導いたのだろう。同時に、開け放たれたそこから無遠慮にこの部屋へと侵入しようとする光が、僅かに怪物の輪郭をなぞった。それが却って障ったか、闇がぶるりと身震いをした。男はこれを気にも留めず、中へと入る。扉を閉めれば斯くの如く部屋は再び暗闇へと戻るかと思われたが、どこにあったのだろう、小さな机に置かれたランプへひとりでに火が灯る。変化を厭う部屋に変化がもたらされたからか、不思議と澱みはどこかへと祓われたようである。
「元の形も保てなくなったのか」
 壁際の小さな椅子に勝手知ったる様子で男は腰掛けると、部屋の反対側、床や天井にへばりついたまま、呼吸音に合わせて細やかな羽毛を揺らすそれへと問いかける。ふと、男は何かを咎めるかのように顔をしかめて、そちらを見やった。蠢動する怪物のすぐ近くに、小さく丸まったまま動かない少女がある。
「随分わがままを言うので、困った」
 見える範囲に口はない。やはり蠢く闇のどこかからか聞こえた声は、男の問いには答えなかった。その代わりに、もぞもぞと動きながら、かろうじて人に見える造形へと体を収束させた。しかしやはりそれは、真っ黒な羽毛で全身を覆われた怪物のように見える。
 この世界を統べる王たる面影は、もうどこにもない。
 余った闇を裾のようにずるずると引きずりながら、怪物は少し移動した。先程まではそれに覆われていて分からなかったが、どうやら部屋の中央には円形の寝台があるようだ。毛むくじゃらの腕で小さな白い少女を器用に抱きかかえると、そっとその寝台へと降ろしてしまう。それから、寝台の縁へと腰を掛けるように、僅かに体を預けた。
「何を言ってもきかないのだろう」
 男はその場から動かずに、そうぼやいた。泣き腫らしたのか、目元を赤くしたまま眠る幼い少女が視界に映る。
「うんと時間をかけて説明したんだけどね」
「私が言っているのは君のことだ」
 男は何とも難しい顔をして、怪物の方を見た。
 怪物は、困ったように首を揺らすと、黄緑色にうすぼんやりと光る瞳を体表へボコボコと浮かばせた。
……時間がないんだ。僕は、他の手段を待ってはいられない」
 聖界の土地を侵略し、周辺の一帯ごと自分の魔界へと落とした後、随分長い間意識を失っていた魔王は、異常を察知して探しに来てくれた眷属によって城へと運ばれた。重篤な状態であることが分かったときには、もう手遅れだった。
 それぞれが唯一にして孤独な単一の種族であり、女神側の駒である勇者と敵対する存在にして、世界を統べる人外の長たる魔王の頑健さでも、病魔には勝てぬことがあるらしい。人がひく単なる風邪と、症状もそれほど異なるものではない。魔王だけが罹患することと、魔力が流れ出すという特徴を除けば。加えてそれには治療法が存在しない。放っておけば直に治るものとされてきたからだ。
 だが、魔力の流失は増すばかりだ。世界は端から崩れ始めている。それは単に、悪化しているというだけではない。身の内に抱えた不可解な呪いもまた原因のひとつだった。魔王にかけられた呪いは、魔力を内側から変質させながら大量に放出させるものだ。変質した魔力は、周囲を汚染する。それが自分の体であっても例外ではない。
 魂、或いは世界から、魔力を引き出し自分の存在を固定していた魔王は、この急変により仮の姿を保つことが出来なくなったのである。変質した魔力により構成されたこの怪物の姿は、災の魔王という存在の真の姿が変容したものでもある。恐らくは、その名が示す”災”の根源に寄ったのだろう。
 要するに、時間の問題だった。自我を無くして魔王という存在そのものが崩壊するが早いか、それとも自身が崩壊するのを瀬戸際で耐えながら世界が崩壊していくのを待つか。どちらにせよ、行き着くところはやはり変わらない。
 長く生きすぎた、と魔王は呟いた。それから、いくつもの瞳で彼の人を見つめた。まったく奇妙な縁ではあったが、今この人外の瞳に映っているのは勇者なのだ。お互いが生きてきた”来し方”は人のそれを優に超える。
「翡翠でも、死が恐ろしいと感じることはある?」
 魔王は敢えて、それが自他のどちらを指すのかを明言しなかった。
 深く息を吐き、膝の上で指を組んだ勇者は、しばらく考え込み、
「恐ろしさよりも───」
 そう続けようとしたのだが、言葉が出てこないのか、また深くため息を吐いた。
 死は、恐ろしいものだろうと───魔王は思った。
 医学であるとか、生物学上の定義を表すのでもなければ、この魔王にとって”死”とは、普通は他者におけるそれを指す。何しろ、まだ死んだことがない。ほとんど無限の復活を祝福されている勇者と違い、魔王は”殺したら死ぬ”のだ。長命ではあるが、限りのある命である。
 災の魔王にとっての”死”とは、何人も抗えぬ結末であり、今生における糸───いうなれば縁───を彼が永遠に失う契機であり、時として災の魔王自体を意味する。
 死が、死ぬ。
 やはり、奇妙なものである。いつもならば破顔していただろうに、生憎と彼には顔がない。仕方なく彼は身体をゆらゆらさせた。それからこう述べた。
「僕にとっては、恐ろしいよ。喪われるということは、巻き戻せないということだ。終わるということは、そこが世界の区切りということだ。まさに『手の出しようのない』領域だ」
 僕ですら。
 死んだ後のことは、他人任せにする他ない。疑いようのない事実だ。死んだ後のことなど普通は分からないのだから。
「ウィル」
 控えめに呼びかけられ、彼は蠢動を止めた。
「死ぬのが怖いのか」
 まぶたがあれば、彼はゆっくりと瞬きしただろう。何しろ、いささか躊躇いがちに問われたような気がしたものだから。問うてもいいものか、迷ったのか。それは恐らく、聞いてしまえば鈍る決断もあるかもしれぬと抱いた優しさだったのだろうと、彼は考えた。周囲に優しい人間が多いことをよく知っている。善意や優しさを第一に信じることが、それほど悪くはないこともまた、彼はよく分かっている。
「怖いさ。全くもって、その後どうなるか分からないから。でも、やめはしない」
 揺るがないよ、大丈夫だと、彼は念を押して約束した。
 翡翠の勇者は静かに頷いた。依然、厳しい表情のままではあったが。
 彼はまたこの勇者へと問いを投げかけた。
「翡翠は」
「ああ」
「結婚してるの? 子供はいる? 好きなひとは?」
 返事はすぐには返ってこなかった。部屋の中が途端に妙な雰囲気になる。ひどく困惑しているらしいことは、何となく彼にも察せられた。秘密にするようなものでもなし、いつだって聞けば答えてくれただろうに、どうして今この瞬間であったかというと、彼は冥土の土産のつもりで聞けば、もう間違いなく誤魔化しはしないだろうという腹積もりでいたのである。
 しかし、返答を茶化すつもりは毛頭ない。
……結婚はしていないし、子供もいない」
 長い長い沈黙の後に、翡翠はポツリと呟いた。ああでも、彼の勇者にもいっとう大切なひとがいるのだ、ということが彼には理解できた。答えの返ってこない問いこそがその証左だ。
 死と並びて恐ろしいもの。
 ───忘却である。
 記憶は風化していく。時として、認識によって歪められさえもする。魂の記録だけが確かなことだ。いつだって大切なことは正確に覚えていたい。しかしそれが、叶わない。まず声が失われる。その人がどんな声で喋っていたのか、思い出せなくなる。次に顔が分からなくなる。細やかな仕草が、ささやかな日常が、ついにはほとんどの思い出が次第に、着実に、褪せていく。誰も止めることは出来ない。
 脳裏に蘇る、燃えるような赤い髪。獰猛な獣の瞳。そんな彼女は病に冒され彼岸の人となった。死は、恐ろしい。彼は彼女を取り戻すことが永遠にならないことを弁えている。
 その恐ろしさは、残される者のみに与えられるのだと彼には思われた。それがどうやら違うようだと、今彼は感じている。死者はいずれ彼岸という忘却の彼方へと押しやられ、対岸に立つその人からは朧気にしか映らなくなる。世界が隔てられる。自分は此岸へと、何の効力も及ぼすことはできない。恐ろしくないわけがない。できれば、死ぬのは嫌だ。
 しかし渡河を試みる者として、彼は毅然とした態度でいたかった。
「何故そんなことを?」
 勇者は尋ねた。
「一度くらいは聞いておきたかったのさ。未練がましかったかな?」
……いや」
 そうか、と呟くと勇者は沈黙した。聞くのは止した方がよかったかもしれない、と彼は少し後悔した。長く生きれば、大事なもののひとつやふたつぐらいあるだろうし、それを失うことだってままあるだろう。ただ、この男に限って喪失を嘆き、永遠に囚われるようなことはないだろうと彼は思っていた。いや、見当違いなことを想像しているだけかもしれない。年月過ぎ去れば、却って鮮やかになる記憶もある。癒えぬ傷もある。
 ごめんね、と彼は謝った。友人の心をもしや傷つけたかと思われたのが、今この瞬間だったことが少し悲しい。翡翠は大丈夫だ、とだけ答えた。
 ランプの火でうすぼんやりと明るい部屋の壁に、所在なさげにふたつの影が映し出される。こんなことになるならもう少し早く呼べばよかったかな、と彼は思う。魔王はもうひとりの友人を待っている。この頃はすっかり別行動ばかりしていたから、彼がこんなふうに厄介な色々を抱え込んで、あまつさえ死の淵にいるだなんて想像もしていないだろう。
 翡翠には、これから起こることの大体は説明を終えてある。病状がもう少し悪化する前、彼は自分が動けるうちに翡翠を伴って少しの間、聖界へ出掛けた。彼がそれを話したのはそのときだ。
「───ああ、やっときた」
 すると、部屋がノックされる。翡翠が顔を上げた。来訪者の手間を煩わせまいと翡翠が立ち上がるが、そのひとは返事も待たずに扉を開けてしまう。そこに立っていたのは、淡い色の短い髪に両目をサングラスで覆った青年だ。
「やぁ、カイ」
……ウィル?」
 部屋の中にどのようなものがいるか、あまり理解できていないような様子で囚獄の勇者は入室した。はたと、そこに翡翠の勇者がいることにも気がついて、挨拶もそこそこに、異形の方へと指さしたカイへ向かって、翡翠は何と言ってよいものかと迷った末に、「あれがウィルだ」と答えた。
 ぽかんと口を開けたカイに向かって、彼は腕───のように見えるもの───を振る。
「どないしたん」
「その件なんだけど、まぁ座って。長い話になるかどうかは君次第だが」
 彼は自分が普段から愛用している背もたれのない丸椅子をカイの方へと押しやった。事情がさっぱり分からない、という顔をするもののそのまま素直に座ってしまう。それもごく近い所に。こんな姿をしているのに大して動揺もしていないらしい。短くはない付き合いだ。その反応も、おおよそ想像はついていたが。
 ちゃんとひとりできたか、と彼が問うたのに対して、カイはうんと頷く。
「君に会うのが随分久しぶりの気がするなぁ」
「それなりにお互い忙しかったっちゅうことやな。おれは別に、なんも変わったとこはないで。ウィルは……イメチェンにしたってもうちょいやりようがあったんちゃう……? おれはかまへんけど、ヤナギが流石にひくで……?」
 ───またこの男は、出して欲しくない名前を出す。それについては彼は触れないでおいた。彼女を呼ばなかったのは、呼べなかったからだ。寂しくなると困る。
「イメチェンじゃないよ。カイも覚えておくといい。僕たち魔王は、普段は仮初の姿で過ごしている。日常生活を送るのに、全力を出す必要がないから。その全力っていうのも、ゲーム上必要だから備わっているものだしね。普通は力をセーブして、害意あるものから身を守るため、明確に意思を持って戦うため、そして全力を出す必要があるときだけ、本当の姿に戻るんだ」
「じゃあウィルにとっての本当の姿が、今なん?」
「似ているけど、違う。僕のこれは力のセーブができなくなって、本来の姿を保つことさえできなくなった状態だ。この状態になったのは、別に突然じゃない。僕に何が起こっているか、これから少し長い話をするけれど、黙って聞いてくれるかい?」
 静かに頷いたカイへ、彼は話し始める。最初は視えないだけだった、自分が受けた呪いのこと。能力は回復できないのではなく、使用することが不可能だということ。それは自分の使う魔力が内側から汚染されているからだということ。北の国で遭遇した出来事で結果的に聖界を侵略したこと。気を失って倒れたところを運ばれたけれど、もう手遅れだったということ。世界が端から崩れ始めていること。
「今は僕が崩壊するか、世界が崩壊するかの瀬戸際だ。僕はもちろん最後まで自分を保つ自信があるけれど、どうしても世界の崩壊が止まらない。魔王にとっての世界は……うーん、生命線と言ってもいい。魔力の貯蔵庫でもある。空気がなくなったら人間は生きていけないだろう? それと同じだ。僕自身は少なくとも、世界が崩壊したら死ぬ、と思う」
「わかったで。それを今からどうにかするのにおれとか翡翠が必要になるっちゅう話やな?」
「違うよ」
 首を傾げたカイに、彼は慎重に言葉を探して、続けた。
「本当に、もうどうにもならないんだ。手を尽くした、というよりはもう手の尽くしようがない。だから”暇乞い”のつもりで呼んだ。君にはちゃんと説明すべきだと、僕は思ったんだ。全然顔を見ていなかったし、会いたかったから」
……いやいや、冗談キツイで」
「冗談なんかじゃないよ。本当にそのつもりで呼んだんだ」
「なんか他に方法が」
「僕が取り得る選択として、これ以外にはなかったんだ」
 がたりと椅子を鳴らしてカイが勢いよく立ち上がる。行き場のない拳をぎゅっと握って、それでも何か言おうと、少しは躊躇ったのだろうが、
「それで、そんな簡単に、諦めるやつがあるかッ!」
 とうとう押し止められずに出てきたのは、そんな叫びだった。
 大きな音で気がついたのか、寝台の上で眠っていた白い少女が小さな呻き声を上げたのを聞いて、カイは振り上げそこなった拳からゆるゆると力を抜いたらしい。目を擦りながら起き上がった少女は、キョロキョロと周りを見渡し、カイがそこにいることを確認すると少し悲しそうな顔をした。
「おはよう、カイ」
……おはようさん」
「カイが大きい声出すから、イヴが起きてしまった」
「せやかて」
 しかし、ふたりを見比べた彼女は、四つん這いのまま彼の近くまで移動すると、そのまま再び丸くなってしまう。
「聞いていない方がいいなら、眠ることにする。何も聞いていない」
 そう言って目を閉じた。
 カイはチラリと後ろを見やった。壁にもたれて座ったまま微動だにしない翡翠と目が合う。それから頭を乱暴に掻くと、その場に座り直した。
……諦めるんか。本当に『ほなさいなら』って言うためだけに呼びつけたわけちゃうやろ?」
「半分はね」
「もったいぶった言い方すんなや」
「何しろ賭けのようなものだから。僕はとりあえず、一度死んでみようと思う」
 カイは難しい顔をして黙ってしまう。この男なりに色々考えているのだろう。こんなタイミングで冗談を言うようなやつじゃない、とか。そうだとしたら少し面白い。顔がなくてよかった、きっと笑っていたから、と心の中でひとりごちていると、はよ言え、とカイに急かされる。
「こんな状態になっているのには原因があるんだ。さっきも言ったけど、呪いだ。この呪いはとても面倒なもので、透輝の勇者に……僕の知り合いなんだけど、相談したら『魂や身体にかかっているものではないから、解呪できない』と言われてしまった。妙な話だ。なら一体どこに呪いがかかっているっていうんだ? ……そこまで考えて、ひとつだけ心当たりがあることに気がついた」
「そこから先は私が引き受けようか?」
 少なくとも、カイは聞いたことのない声が響いた。ほとんど唐突に割り込んだ声の主は、部屋のどこを見渡しても見つからない。
「いたのか」
 彼はとりあえず呼びかけてみる。
「ずぅっといたよ。どう? もう出てきてもいい?」
「隠れていろと言った覚えはないんだけどね。どこにいるのさ? 君がそういうなら、説明をまかせるよ」
 そういうならば、と声の主は答えた。途端に、どうしたことか、ランプの灯りは風が吹いたわけでもないのに揺らめき掻き消され、ぼんやりとした光は闇へと飲まれる。それから暗闇に沈んだ部屋の中で、おっと失礼、と飄々とした調子で詫びた声がしたかと思うと、ふっと灯が戻ってきた。
「やぁどうも」
 そこにいたのは頭に馬のような奇妙な骨を被った、気持ち小柄な異形だった。それはジロジロと目の前のカイを観察して、変なの、と呟いた後に指先で胸をつつく。
「ど、どちらさん?」
「私は魂の魔王。よろしくね、”何だか変なことになっている人”こと囚獄の勇者。その向こう側の、病人のいる部屋で爽やかな空気を物理的に醸し出している超絶怒涛な勇者もこんばんは。さっきぶりですね。災の魔王もご機嫌麗しゅう。んー? 麗しくはないか? 身体は大丈夫? 駄目そうだね。早急に何とかしよう。その前に説明が必要かな?」
 助けを求めるようにこちらを見たカイに向かって、一応友達だよ、と彼は答えた。
「一応だなんて悲しい。付き合い長いのに」
「君にとってはだろ。いいから早く話してくれ」
 わかったよう、呪いの話だったねと魂の魔王は語り始めた。
「呪いの話。彼がずっと君たちに黙ってたこと。左目は呪われていたのではなくて、ここは単に穴。瞳と魂は深い関わりがある。彼がこうなってしまったのは、魔力を強制的に引きずり出されてしまったから。何か変な物食べたときや気持ち悪いときって、胃をひっくり返したくなるでしょう? それと同じ。彼は呪いを吐き出したかった。けどうまくいかない。それは肉体にかけられたものでも、魂にかけられたものでもなかったから、彼もどうしたらいいか分からなかった。だからとりあえず穴を塞いじゃったんだよね。左目に封をした」
 けどね、と魂の魔王はカイの両肩に手を、頭上に顎を乗せた。
「大きな川を堰き止めることが難しいように、封も少しずつ綻んでいった。少しずつだけなら、解けかかったときにまた封をすればよかったんだ。でも、彼は体調がとても悪かった。そして地上での一件で、ついに封印は破れてしまったんだ。それからの彼は、とにかく魔力を吐き出して吐き出して、あらゆるものを押し流してしまった。自分が元から持っていた正常な魔力をね。彼の身体を今構成しているのは、呪いによって強制的に変性させられた魔力だ。さっき彼が言っていた通り、これは周囲を汚染する。でも魔力の流失はそれでも止まらない。では原因である”呪い”は一体どこにあるのか? 正解は、ここだ」
 失礼、と彼はカイの前まで進み出る。
「先に断っておくけど、どうか動かないで欲しい。痛くはないはずだから。たぶんね」
 そういうと、魂の魔王はカイの腹部へ手を突っ込んだ。
 焦った声を出してカイが立ち上がりかけたのを魂の魔王はもう片方の手で制止した。手を突っ込まれた部分は、水面にそうしているように、奇妙に空間が歪んでいる。
「待て待て落ち着け。痛くはないだろう? 初対面の勇者の身体の中に手突っ込んで内蔵まさぐるなんて悪趣味なことはしないよ」
 やってることは似たようなことだけど、と魔王は小さく呟いた。
「い……たくない」
「私はこういうことができる。ここにあるのは───見えないだろうけどね───肉体と魂を繋ぐ鎖だ。しかしあれだなぁ、君たち誰ひとりとして正常な鎖持ちの人間がいないのはどうしてなんだい。別に、いいけど」
 するりと手を引き抜いた。それが当然だとでもいうように、傷はない。
「彼の呪いは、この鎖にかけられたものだった。だから、一生懸命吐き出そうとしても、吐き出せるはずなんかない。鎖が外れるとき、つまり肉体と魂の呪縛が解かれるときというのは、命尽きるときだからだ」
 まあでも、このまま放っておいても彼死ぬし、呪いは解かれるといえば解かれる、と魔王は肩をすくめてみせる。
「私はこの鎖を引っこ抜くこともできる。それどころか、これを新しいのととっかえたり、色々とできるのさ。あ、いや、別に普段からやたらめったらそういうことしてるわけじゃないんだよ? そうしたいときに、そうしてるだけ」
 何も弁明になっていないような気がする。胡乱げな視線を向ける翡翠。
「もしかして、替えの鎖さえあればウィルは助かるってことなん?」
「全くその通り、と言いたいところなんだけど、魔王の魂と肉体を繋ぎ止めておける鎖なんて、ただの人間や魔族のもので代用できるわけがないからね。それにそんなものを調達するとしてどこから持ってくるというんだ? そしてそのための時間は十分に残されているか? これは現実問題として不可能だよ。でもそうさっきも言ったけれど、要は原因は鎖にあるんだ。解呪だなんて回りくどい真似しなくても、これを引っこ抜いてしまえばいい。問題は全て解決する」
「でもそしたら、ウィルは死ぬんちゃうか」
「そうとも。だから『一度死ぬ』と彼は言っているのさ」
 ねぇそうでしょう、と同意を求められて、彼はああとかうんとか適当に返事をする。
「そういうことだよ。でもその後が肝要だ。魂と肉体の繋がりは切れるけど、うまくすれば魂をこちらに留めたまま、肉体も滅びない……そういう状態を作り出せる、と思う。正直うまくいくかは五分五分ってところなんだ。だから『賭け』でもある」
「うまくいけば、ウィルは死なへんの?」
「『死ぬ』けど、こっちに戻って来られるよ。たぶんね」
 カイはしばらく考えて、それから眉間にシワを寄せながら彼の方を軽く小突いた。
「随分、意地の悪い言い方するやんか。ウィルがほんまに死ぬかと思った」
「うまくいけばって言ってるだろ。……ややこしい言い方をしたのは、悪かったよ」
「その件だが」
 長い間黙ったままだった翡翠が、やっと口を開いた。
「具体的にはどうするつもりなんだ」
「この間、イヴにビブリオテカまでお使いに行ってもらったんだ。そのときに、とある本を読んできてもらった。聖界における”世界創生譚”に関わる興味深い資料で、そもそも原典である漆黒の経典自体も出自に謎が多いものなんだけど、それはまた別の機会にしよう。それ自体は写本だ。ただ、追加で書き加えられた項目があった。記されていたのは、魔術による魂の継承儀式。それを使おうと思う。内容は、魂の帯びた役割を破壊することなく魂ごと受け継ぎ、特別な道具、魔道具へとその魂を移してしまう……とあるんだけど」
 ただね、と彼は一呼吸置く。
「あまりにも古くて、失われたページが多かった。だから儀式の完全な再現が難しい。でも、誰かに教えを乞うにも時間がなかった。この魔術の原型は、恐らく魔王の継承儀式だ。そもそもが秘術であるし、乞うたとしても教えてもらうのは難しかっただろうね。それはもう、仕方がない」
「だから北の国へ?」
 彼は頷いた。翡翠を伴って、例の北の国を再び訪れたのにはふたつ理由がある。ひとつは能力を使用する、それだけで周囲を汚染してしまうことへの対処として、他ならぬ翡翠の勇者の助力が必要だったこと。もうひとつは、能力を使用しなければ判明しない事実、過去にあの村で行われた儀式を記憶する元村人を訪ねることにあった。
 成年を過ぎれば村を出ていく者もあると、そう言っていた酋長の言葉を彼はしっかり覚えていた。ならば17年前に行われた最後の儀式を目撃している者もあるだろうと踏んだのだ。
「寿命は縮んだかもしれないけど、過去に行われた儀式の記録をちゃんと確認することができた。おかげで完全にとはいかなかったけど、そのほとんどを再現できる状態にまでもっていけた。もちろんこれも、本当にうまくいくかはやってみないと分からなくて……。不確実なことに翡翠を巻き込むのはどうかと迷ったんだけど」
 君が付き合いのいい奴で助かった、と彼は言った。
「鎖を引き抜いて儀式を実行しても、元の身体がうまく動く保証もない。そもそも死んだ後どうなるかも僕には分からない。それでも、魂をこちらに留めておけるならまだ希望が持てる。賭けだよ」
「私は反対したんだけどねぇ。死んじゃったら私もどうしようもないし」
「ウィルなら大丈夫やろ」
 魂の魔王のぼやきに、カイはきっぱりとそう言った。
 彼は、ゆっくり息を吸って、羽を揺らしながらため息をついた。わざとらしく。
……賭けだと言ってるのに」
「勝てばええねん」
 ちょっと肩をいからして、いかにもそう信じている、という姿勢をカイは崩さない。
 こういう、根拠も理由も然程明確にはなっていなさそうな信頼に、彼は応えねばならないと感じている。
 彼は渡河を試みる者として、毅然とした態度でいたかったのだ。だからカイをわざわざここへ呼んだ。無論この勇者が不安の種になることも、しばしばあるにはあった。けれど、おおよそ彼には分からない心中のどこかで彼を信頼してくれているらしい勇者は、不安そうな顔を今日この日にだってすることはなかった。それだけで、彼には心強かった。
 もうひとつある。これは打算的な理由かもしれない。彼は囚獄の勇者に呪いをかけたことがある。忘却の呪いだ。成り行き上、必要なことだった。故に後悔はしていない。それよりも恐ろしかったのは、”万が一”が起きたときに、よもや再び自分が誰かへ一生消えぬ呪いを残してしまわぬだろうかという危惧だった。人は簡単に人を呪う。特別な魔術は必要ない。声を発する。たったそれだけで呪いは成立する。
 カイがいてくれれば、彼は自分を戒め続けることができる。後ろを振り返らなくてよい。必要最低限、やるべきことは為してきた。”万が一”があったとしても、きっとうまくやってくれる。カイには翡翠の勇者や、ヤナギや、他にも優しい誰かがいてくれる。その勇者の周囲に優しい人間が多いことをよく知っている。善意や優しさを第一に信じることが、それほど悪くはないことをまた、彼はその勇者から学んだのだ。
 ふいに、翡翠の勇者が立ち上がった。つかつかと彼へ歩み寄ると、すっとその手を差し出す。彼が意図を把握しかねてぼんやりしていると、ぎゅむ、と身体の一部を掴まれる。翡翠が浄化を最小限に抑えていても、掴んだ端から魔力がほどけていく。
「な、なあに」
……手を出せ」
 魔力を収束させて、人の腕のように見える形を作ると、翡翠は今度はそちらを掴んだ。それからチラとカイの方を見る。何故かその内意を彼よりも早く理解したカイは、にこりと笑ってやはり彼の腕らしき部分を掴んだ。
 それから翡翠は、何事かを呟いた。最初全く思い出せなかったが、そのうちに、あっと気がついた。なるほど古い言葉である。もちろんカイには馴染みがないだろう、首を傾げている。
 その古語には、「さようなら」に該当する挨拶が存在しないのだ。翡翠が代わりに告げたそれは、土地を離れる際に旅人へ送る言葉だった。再会の縁が訪う、その日までの無事を祈る言葉だ。
「なんて?」
 聞き返したカイに、翡翠は丁寧に言葉の音と意味を教えた。幾度か練習して、それから拙い発音で、彼へ笑って同じようにそう告げた。
 翡翠には深い意図はなかったように思われる。彼がただ無事にこちらへ帰ってこられるよう、小さな”おまじない”のつもりだったのだろう。ただ、去る者からの呪縛など残さぬようにと言葉にいちいち気を使ってきた彼は面食らってしまって、少しまごついた。この言葉には、旅人側から土地の者へ送る挨拶もあるのだ。
「忘れたか?」
「いや、覚えているよ」
 彼はとうとう観念して、心の中で苦笑しながら挨拶を返した。土地の者へ旅人が送る言葉は、再会の縁が訪うその日まで、「よく、あれ」と、残す者たちへの幸福を祈るものだ。
 呪いも祝いも、送る側と受け取る側の心持ちひとつで変わるものである。そんなことを彼は今更思い出したのだった。

 

 彼は今日、此岸を離れた。憂懼の余地の一切を振り切った。
 ただ、彼にはひとつだけ、ふたりには黙っていたことがあった。彼がこの方法に拘った理由の大部分は、そこにある。
 聖界、つまり女神の領域に魂の故郷があるように、魔界にも魂の還るべき場所がある。
 即ち昏き海、父なる神のおわすところ───

 







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