@ayame0601s
「まっ、てくれ……鼻がもげそうだ」
鶯丸が心底辛そうな声を出したのは、私が彼の髪を染め始めて10秒もしない時だった。
鶯丸の家で目が覚め、彼から詳しい話を聞いたその翌朝。彼がコンビニで買ってきてくれたらしいお握りを頬張っていると、「今日は買い物に行くか」と、唐突に提案された。
「外出は禁止では……?」
確か昨日、そう言っていたはずだ。確認するように問いかければ、「君一人じゃなければいいだろう」と笑いながら軽い返事が返ってくる。
「万が一出かける時は、これをするように言われているしな」
そう言って取り出したのは、スプレー缶だった。よく見れば、「一日だけ」「黒染めスプレー」との文字が書いてある。
「俺の髪色は目立つから、これをしろと言われた。膝丸に。彼だって目立つじゃないか。理不尽だ」
顔にスプレーがかからないよう覆ったタオルの下から、くぐもった声が聞こえた。
鼻をつまみながら、鶯丸が淡々と文句を言っている。
「私でも結構においキツいです。大丈夫ですか?」
「ああ。鼻をつまめば問題ない。大丈夫だ、続けてくれ」
そこまでして外出させる事に申し訳なく思いつつ、やり始めてしまったためそのまま続ける。それに、あの家から何も持ってきていない身として、買い物は有りがたくもあった。
「鶯丸さん達は、私達より鼻が良いんですよね?」
オリーブ色の髪が黒く染まっていく様子を見ながら問いかければ、「そうらしいな」と鼻づまりの声が返ってきた。
ふと、膝丸がカレーのにおいに顔をしかめていた事を思い出す。あれは、彼らと同居して初めて料理をした日だった。
「カレーとかも、やっぱりキツいんですか?」
「カレー? まあそうだな。スパイス系は特に鼻をつく」
「そうですか……」
それなら尚更、あの時の膝丸の表情は納得がいった。私達より鼻が効いて、その上美味しいとも感じない物のにおいは、さぞ辛かった事だろう。
それなのに、あの時。髭切は嫌な顔ひとつせず、私のカレーを一緒に食べてくれた。美味しい、とまで言ってくれていた記憶がある。
それはきっと、彼の優しさだったのだ。
「髭切さん、本当は優しいですよね。……きっと」
髭切さん、と限定してしまったけれど、おそらく彼だけではない。膝丸もきっと、根は優しいのだろう。彼に血を分けたあの日以降、私の体調を気遣ってくれていたのだから。
出会いが出会いだった。彼らを恐怖の対象と見て、私達人間とは別の生き物と認識した時から、その概念を崩そうとしなかった。
本当は、垣間見える優しさに、どこか気づいていたはずだったのに。頑なに、「恐怖の対象」として見るように──恐怖の対象という枠組みから外す事を、むしろ恐れていたかのように、その優しさを真に受けていなかった気がする。
「突然じゃないか。どうしたんだ」
鶯丸が、タオルの下で笑った気配がした。
「あ、いえ……やっと分かった気がしたんです。鶯丸さん、以前に言ってましたもんね」
「俺が? そうだったか」
「はい。弟はああ見えて優しいところもあるし、兄は滅多に怒らない、と言ってましたよ」
後半を口にしながら、その滅多に怒らない兄を怒らしてしまった事に、胸の詰まる思いがする。
「確かに。言った気がしなくもない」いまだに鼻をつまみながら、鶯丸は言った。
「だが、あの兄弟は怖いぞ。一度敵と見なしたものには、容赦がない」
「そう、ですね」
「優しいのは仲間内にだけだ。だから君がそう感じたという事は、そういう事だろうな」
声に笑みを乗せている。その言葉に「そうだと嬉しいです」と率直に返せば、彼は口をつぐんでしまった。
まるで何かを考えるような間に、何かおかしな事を言ってしまったのだろうか、と焦りが芽生え始める。
「君は、あの兄弟が怖くないのか?」
問われ、今度は私が口を閉じる事になる。
鶯丸の言葉を頭で反芻するも、答えはすんなり出てきた。
「恐怖という感情は、もうないと思います」
確かに、今まで恐怖という感情を抱いていたけれど。髭切に「食事」される前も、彼の醸し出す空気に恐れを感じていた。
しかし今、怖いか、と聞かれるとそうでもない。ただ、彼の事を思い浮かべると切ない気持ちになるだけで。
自覚し、自分の気持ちを受け入れてしまえば、恐怖という感情はどこかへ消え去ってしまった。
それなら膝丸の事はどうだろうか、と自問自答してみる。
彼の場合は、まだ怖いかもしれない。けれど恐怖というよりは、苦手、と表現した方が腑に落ちる気もする。
私の答えに、鶯丸は「そうか」と返事をする。その声色は、どことなく柔らかいものだった。
「鶯丸さんの事は、最初から怖くありませんでしたよ」
「そうなのか。それは光栄だ」
タオルの下で、鶯丸は笑っていた。
「ほう。これはこれは……」
髪全体を黒く染め上げた後、鶯丸は鏡を見て呟いた。正確には、窓ガラスを鏡として、反射した自身の姿を見ていた。
「これは何というか、違和感満載だな。おまけに、においも酷い」
ガラスに映った彼の顔が、しかめっ面になる。黒髪は見慣れないものの、元の造りが良いからだろう。黒髪も似合って見えた。
「雰囲気は大分変わりましたけど、似合ってますよ」
「そうか? ならまあ、いいか」
鶯丸はガラス越しにこちらを見ると、微笑んだ。
似合っていても似合っていなくても、彼はあまり気にしないように感じる。それよりも、においが辛いのだろう。
「におい、大丈夫ですか?」
「染めてもらっている時よりは幾分いいが……これはスメルハラスメントってやつだな」
俺の髪が俺にスメルハラスメントをしている。とぼやきながら、彼はどこかへ歩いていった。嗅覚が鋭ければ、この刺激臭はさぞ辛いだろう。
鶯丸が戻って来た時には、その顔にマスクをしていた。
「君の準備が出来たら、出かけよう」
私の準備、といってもする事は単純だった。何せ、私物が何もないのだ。着ていたジャージから、出された洋服に着替える。
「これならまだ良い方だと思うんだが」と言って見繕ってくれたのは、鶯丸の私服だった。
「……細い」
姿見の前で、思わず独り言が溢れる。
彼の体格は細身だった。見た目からして分かってはいたけれど、洋服を着れば尚更感じる。背が高い分、もちろん私よりサイズは大きい。しかし、体が引き締まっていないと着こなせないようなデザイン。
パンツに至っては、細身の上に足が長い。仕方なしに裾を折り畳むしかなく、何重にも折り畳んでしまっては、おしゃれとは到底言えないものになってしまった。
せめてもの思いで、シャツの襟を抜いてみる。ほんの少し、気持ち程度におしゃれになったものの、彼から借りたモッズコートを羽織る事を考えれば、あまり意味もないように思えた。
洋服に着られている、という表現がまさにぴったりな状態で一階へ降りれば、鶯丸は私を見て、一瞬目を丸くした。
「なかなかいいじゃないか」
目尻を和らげて笑うその言葉が、どこまで本当かどうか分からないけれど、こうして買い物へと向かう準備が整った。
買い物はほとんど私の物ばかりだった。大型デパートに足を運び、生活に最低限必要な物を買い揃えていく。
私物は兄弟のあの家に全て置いてきているため、財布もそのうちの一つだった。もちろん、カードもない。そのため、お金を貸してほしいと伝えれば、「気にするな」ときっぱり断られてしまった。
気にするな、と言われても、気にはなる。
「いえ、そう言われても気にします」
「ちなみにこの金は、あの兄弟のものだ」
「え、あ……そうなんですか」
「そもそもこうなったのも、あの兄弟の都合だろう? 君は振り回されているというのに、自腹はおかしいと思わないか」
説得力がある、ようにも聞こえるけれど、どこか言いくるめられているような気もする。
「返したければ、直接兄弟に返してくれ」最終的に、鶯丸は笑顔でそう言った。そう言われてしまうと、これ以上食い下がる事も出来ず。
どこか腑に落ちないまま、お礼を言うと共に「分かりました」と返した。
「髭切さんと膝丸さんって、何か仕事されてるんですか?」
それは彼らに飼われ、あの家の外観を見た時から不思議に思っていた事だった。あんな一軒家に住めるなんて、大層な貯蓄があるか、きちんと仕事をして収入がなければ出来ない事だろう。
友人の鶯丸なら知っていると思っていたものの、返ってきた返事は「さあ? どうだろうな」だった。
「すまないが、俺にもよく分からん」
「そうなんですね」
「知らない方が良い事もあるしな」
それはどういう意味なのだろうか。鶯丸は笑っている。
「鶯丸さんは、何かお仕事はされてるんですか?」
聞いていいものか迷ったけれど、興味はあった。彼らが、どんな職につくのか。長く生きていれば、色々な仕事をしてきたのかもしれない。
あの兄弟には聞きにくくても、鶯丸になら何となく聞きやすかった。
「俺か? 今は物書きをしている」
「え、作家さん……! どういうのを書かれてるんですか? 読んでみたいです」
目の前に作家さんがいる、という現状はすごいものに感じた。自分が会社勤めだからか、余計にそう感じるのかもしれない。
主に小説を書いている、という彼の言葉を聞いて、そのまま書店へ向かう事になった。
「大したものは書いていないが」と言いながら、彼は自身の作品を探し始めるも、それはすぐに見つかった。
一角のコーナーに、平積みにされている。
「最新作はこれだ」
自慢するでもなく、彼は普段通りの口調で言う。どこか他人事のようにさえ聞こえた。
一体どんな話かと覗き見てみれば、コーナーの特集を読んで目を見開いた。
「吸血鬼特集……」
まさか、と半信半疑で鶯丸を見やれば、彼はにこやかに微笑んでいる。
「流行りには乗ってみるもんだな」
「はあ……」
この状況を楽しめるのは、逆にすごい。
目の前に作家さんがいる、というより、そもそも目の前に吸血鬼がいる、という現状は、改めて考えると信じられないようなものだった。それでも私は、いつの間にかこの現状を当たり前のものとして捉えるようになってしまっている。
冷静に考えれば、その状態はひどく非現実なもので、内心で苦笑した。
鶯丸の新刊も購入し、帰路につく前に花屋へ寄った。今まで文句一つ言わず買い物に付き合ってくれた、鶯丸の希望だった。
彼は予め、買うものを決めていたらしい。花の瑞々しい香りを嗅ぎながら店内を眺めていれば、会計を済ませたらしい彼はすぐに戻ってきた。
「薔薇を買ったんですね」
鶯丸の手元を見ながら、不意に髭切の顔が脳裏をよぎる。
彼は頷くと、この時初めてマスクを外し、薔薇に顔を寄せた。
「何か聞いているのか?」
「え?」
「薔薇について」
「あ、はい。少しだけですけど」
「そうか」
そう呟くと、彼は薔薇を見つめながら、何かを考えるように間を置いた。
「君は、知りすぎだな」
ポツリと。溢したその言葉は小さいものにも関わらず、やけにはっきりと耳に届いた。
鶯丸はゆっくり私を見やる。その瞳は今までとは違う、真剣なものだった。
「もし、その時が来たら。少しでも迷いが出るのなら、やめておけ」
彼はただ、それだけ言った。突然の事に、思わず言葉を呑む。
聞き返す暇も与えてもらえず、彼は目元に薄い笑みを乗せると「アドバイスだ」と言って話を打ち切った。
その時が来たら。その時、がどういうものなのか、この時の私は想像もつかなかった。
買い物を済ませ、家につく頃には夕方になっていた。
食材を冷蔵庫へと入れながら、夕飯の準備の事を考える。においのキツくない物にしようと思うも、香りの立たない料理というのは想像し難かった。結局、スパイス系だったり、ニンニクを使ったスタミナ系は除外するくらいの配慮しか思い付かない。
鶯丸に人間の食事が必要ない事は重々承知しているも、一応どうするのか聞いてみる。すると「俺の事は気にするな」と、やんわり断られた。本来、これが普通なのだ。そう考えると、一緒に食事をとってくれた髭切は、やっぱり私に気を遣ってくれていたのかもしれない。
髪のにおいが気になって仕方がないらしい鶯丸は、帰って来てすぐにお風呂場へ直行した。予想よりも長湯で、彼が出てきたのはおよそ一時間後だった。
髪の色はすっかり元通りだ。
「においが取れん」
上がって早々、鶯丸は自身の長い前髪を手に取り、鼻へ寄せると眉をしかめた。ここからだと、シャンプーの香りがほんのり漂ってくるも、髪自体にはスプレーのにおいが染み付いてしまっているのかもしれない。
「彼らが来たら、文句の一つや二つや三つ言ってやる」
「今日来られるんですか?」
「ああ。夜に来るんじゃないか」
おそらくな、と付け足して、鶯丸はタオルで髪を大雑把に拭く。
「君達は、一度ちゃんと話し合った方がいいだろう」
「……はい」
鶯丸の言葉に、頷いてはみるものの。
今夜、あの兄弟が来るらしい。そう思うと、途端に身体は緊張を訴え出した。
夕飯を済ませて、後片付けを済ませて。客人が来た事に気がついたのは、入浴を済ませた直後の事だった。
洗面所を出れば、居間から話し声が聞こえる。鶯丸と、明らかにもう一人。聞き覚えのあるその声に内臓がぎゅっと縮みこんだ。心臓は分かりやすいくらい、速度を速めている。
この声は……脳裏にその人が浮かび上がり、そのまま二階へ逃げたい気持ちが湧いてくる。怖くないと、今朝鶯丸に言ったばかりなのに、苦手意識はどうしても拭えないらしい。避けたくなる気持ちををぐっと堪え、居間へと足を向けた。
歩きながら深呼吸をし、部屋の前でも呼吸を整え、何気無い風を装って室内を覗きこんだ。
黄金色の瞳が、ゆっくりこちらへと向く。
「上がったか。ちょうど良かった」
鶯丸も私に気づくと、こちらへ言葉をかけた。
「お風呂ありがとうございました」と彼にお礼をいった後、鶯丸の目の前にいる人へと視線を向ける。
「あ……こんばんは」
言うべき言葉が見つからず、挨拶を口にする。
膝丸は相変わらず笑み一つない顔で私を見た後、「……ああ」と、一拍分置いた返事を返した。
彼の視線はやっぱりどこか苦手で、逃れるついでに、さりげなく室内を見渡す。
視界に映る限り、部屋には鶯丸と膝丸しかいない。
「そういえば、兄はどうしたんだ」
鶯丸が、まるで私の心情を察知したかのようなタイミングで言った。
「兄者は、用事があってな」
「用事?」
「ああ。だから今日は俺だけだ」
「ほう」
鶯丸の、どことなく腑に落ちない様子が、私にまで伝わってくる。
髭切は、本当に用事があって来られないのだろうか。ただ私に会いたくないだけでは……とそこまで考えて、果たして彼はそんな事を気にするだろうか、とも思い直した。けれど、彼の考えている事は、私には分からない。
「まあ、いいが」と鶯丸は続ける。
「俺は今から風呂に入ってくる。その間、二人で話していてくれ」
「え?」
「は?」
突拍子もないその言葉に、私と膝丸の間の抜けた声が重なる。あまりにぴったりのタイミングだったものだからお互い目を合わせるも、それは一瞬の事だった。
膝丸は、すぐに私から鶯丸へと視線を向ける。
「入ったんじゃなかったのか。さっき散々、においが取れないだのどうの言っておいて」
「ああ、言ったな。だからもう一度入ってくるんだ」
そう言うと、じゃあ、と片手をあげた彼は颯爽と部屋を出ていった。その時、一瞬目配せをされ、その意図を受ける。
ちゃんと話せという事だろう。鶯丸は部屋を出る時、ご丁寧にも扉を閉めていった。
パタン、と密室になる音が、室内に響く。
「……」
「……」
沈黙が訪れる。確かに、直接話をした方がいい、とは言われていたものの。心の準備は一応しておいたけれど、まさか膝丸と二人きりになるとは思ってもいなく、そわそわと落ち着かない気持ちになる。
鶯丸が出ていった扉をしばらく見つめているも、ずっとそこに視線を向けている訳にもいかない。
恐る恐る膝丸へ目をやれば、彼はすでにこちらを見ていた。
「あ……。……あの」
身体が強張るも、なんとか話しかける。
「なんだ」と返事をする膝丸の顔から、感情は読み取れない。
「その、すみませんでした。勝手な事を、して」
どもりながらした謝罪は、やっぱり何とも情けないものになってしまった。頭を下げ、再び視線を上げれば彼と目が合う。
膝丸は微かに眉を寄せている。そのまま大きく息を吸い込むと、一呼吸置いた。
「……とりあえず、座って話をしよう」
膝丸の提案に、思わず目を見開く。彼はそんな私を気にする事なく、鶯丸のパソコンデスクに腰を下ろすと、足を組んだ。
その様子をただ視界に入れ、尚も突っ立っている私を見た彼は、片眉をあげる。
それに、はたと我に返り、いそいそとソファーに腰かけた。
私が座った事を確認すると、膝丸は口を開く。
「この際だからもう一度言っておくが、俺は人間を信用していない。それは、兄者も同じはずだ」
「……はい」
「だから君があの男に会いに行った時、やはりな、という思いが強かった。彼は、俺達にとって厄介だ。そんな人物に、黙って会いに行くなど」
みなまで言わずとも、咎めの言葉に胸が締め付けられる。
けれど同時に、それはそうだ、とも思う。
膝丸を見る事が出来ず、視線を自身の太腿に落とした。
膝丸が私を信用していない事なんて、痛いほど分かっている。そこに現れた鶴丸という存在は、彼らにとっての懸念材料であり、私は自らそこへと近づいたのだから。更に信用が無くなるのは、当たり前の事だ。
膝丸は言葉を続ける。
「だが、鶯丸から詳細は聞いた。この件に関しては、もういい」
思わず、勢いよく顔を上げれば、膝丸と視線が合う。彼は驚いたのか、ぴくりと眉を動かした。
「……なんだ」
「いえ……あの、ありがとうございます」
「君は、俺達の正体を明かしていないと聞いているが」
「あ、はい。言ってません、一応」
「一応?」
膝丸は怪訝そうにこちらを見る。反射的に肩が跳ねてしまった。
「え、いや、言ってはないんですけど、上手く嘘をつけたかは……分からないというか」
自分でも呆れるほどの、どもり具合。けれど、眉を寄せて私を見る膝丸の眼光は、いつものように強いものだったのだ。
「言ってません」と、もう一度付け加えるように、それだけ言う。
「ならいいが」膝丸はしかめっ面のまま返事をした。
「君の嘘は、……不安はあるが、兄者がカバーしてくれたようだしな」
「え?」
聞き返せば、膝丸は口をつぐむ。
カバーの意味を聞きたかったものの、膝丸は躊躇った末、結局教えてくれなかった。
会話はそこで途切れ、沈黙が訪れる。
何か話さなければ。そう思うも、浮かび上がるのは、聞いていいものか迷うような質問ばかりだった。
膝丸に聞きたい事は幾つかある。
第一に、鶴丸の安否について。あの後、鶴丸と接触したのだろうか。
それに、鶴丸の首筋に残っていた、生々しい咬み痕は。鶴丸は、確かに膝丸を刺したと言っていた。そうでもしなければ、こちらが殺られていた、と。
それなら本当に、その咬み痕は膝丸のものなのだろうか。
それに、鶴丸の親の仇は──本当に、目の前の彼なのだろうか。
疑問ばかりが次から次へと浮かび、けれどそれは喉元に留まる。果たしてそこに触れていいものなのか、正直分からないでいた。
膝丸を見ると、彼は視線を落としていた。
沈黙が重たい。
「あの、質問してもいいですか?」
意を決して話しかければ、彼はこちらを向いた。
「ああ」と承諾の言葉が返ってくる。
「私の友人は、その……やっぱり今でも、膝丸さん達にとって邪魔なんでしょうか」
結局、どう問いかければいいのか悩んだ末の質問だった。
今でも、というのは「髭切と契約を交わした今でも」という意味合いを含めたつもりだったけれど、少し言葉足らずだったかもしれない。どういう問いかけにしても、彼らにとっての鶴丸の位置付けを、知っておきたい気持ちがあった。
膝丸は、じっと私を見やる。ただ見ているだけだというのにその眼光は鋭く思え、つい目を逸らしたくなるも、なんとか堪える。
「そうだな」
そう呟いた彼は再び目を伏せ、考えるように間を置いた。
「邪魔か邪魔でないかと問われたら、邪魔だ」
「そうですか……」
「彼は、この件に首を突っ込みすぎている」
「この件?」
思わずおうむ返しで聞けば、膝丸は下へやっていた視線を、一瞬こちらへ向けた。しかし、すぐにまた目線を落とす。
じっと一点を見つめる彼は、まるで話す内容を考えているかのようだった。
「あの時も、あそこに彼が居るとは、思いもしなかった」
膝丸は、当時を思い起こすように言う。
あの時とは、おそらく膝丸が大怪我をした──鶴丸に刺された日の事だろう。あそこ、が一体どこを指しているのか分からない。けれど膝丸が関わっている事なんて、例のカルト集団の事ぐらいしか思い付かなかった。
まさか、鶴丸とカルト集団に関わりがあるのでは。
考えを巡らせていれば、膝丸は私へと視線を寄越した。
「君に言っておきたい事があるんだが」
突然の言葉に、体が強張る。驚き、緊張しつつも「何でしょうか」と先を促した。
「俺達にとって、君の友人は厄介だ。もしまた邪魔をする事があれば、こちらも対処しなければならない」
「……はい」
「だが、彼が兄者と交わした契約を守れば、こちらから何かするつもりはない」
言葉を忘れ、膝丸をただ見つめる。それはおそらく、私が聞きたかった鶴丸についての答えだった。
膝丸はそれ以上言わない。それでも彼が言った事から分かるのは、鶴丸はあの後も無事で、今後も何かされる心配はしなくていい、という事だろう。鶴丸から関わらなければ。
あの後、鶴丸を殺す事なんて出来たであろうに。髭切は最初、鶴丸を殺しに来たとすら思ったぐらいだった。
本音を堪えた、交渉。
髭切の言っていた、その言葉の意味は。
「それは、私の友人だからですか?」
「……」
「もしそうだとしたら、ありがとうございます」
もしかして、気を遣ってくれたのではないのかと思ってしまった。
友人である鶯丸でさえ、敵と見なしたものには冷酷だ、と言っている彼らが。明らかに邪魔な鶴丸へ、交渉するに留まったのは私のためかと……思い上がりのような考えが過った。
思い上がりだとしても、確認しておきたかった。私の中での彼らの位置付けが、これではっきりする気がする。
膝丸は小さく溜め息をつくと、口を開いた。
「礼は兄者に言ってくれ」
「……はい。もう一度伝えておきます」
「君にまた、うろちょろされては困るからな」
そんな事、出来るはずがないのは明らかなのに。後付けのような言葉に、笑みが溢れてしまいそうだった。
鶴丸への交渉は私への気遣いだったのだと、そう思えば温かい気持ちが込み上げてくる。
彼らはやっぱり、根が優しいのだ。
それが自分の中ではっきりした途端、どこか力が抜けていく感覚がした。
「君は人間だが」
呟くような膝丸の言葉に、先を待つ。彼は気まずそうに視線を逸らした。
「感謝は、している」
「え、」
「あの時。君から血を貰わなければ、おそらく死んでいた」
あの時、なんて一つしかない。
膝丸は視線を落としたまま、言葉を続ける。
「君は、てっきり逃げ出すかと。君にとって俺は憎むべき対象の上、あの時は殺しかねない程、余裕がなかった」
一言一言溢すように言う彼に、言葉を挟めなかった。
彼の心の内を聞くのは初めてで、驚きが胸を占めている。
「あんな状況で血を分けるなど、普通はしない」
「そう、でしょうか」
「ああ。少なくとも今まで出会ってきた人間は、しない」
そうなのだろうか、と自問自答する。
確かに、冷静に考えればそうかもしれない。自分の身を顧みずに、恐怖の対象を助けるだなんて。今考えても、なぜあの行動を起こしたのか分からない。
けれどあの時は、理屈ではなかったのだ。
頭で深く考えるより先に、体が動いていたのだから。
「だから、君には感謝している」
言葉を落とした後、膝丸は私へ目をやった。
相変わらず仏頂面ではあるけれど、どこかこちらの様子を窺うかのような表情に、言葉が出てこなかった。
まさか、彼からこうしてお礼を言われる日が来るとは、思ってもいなった。
嬉しさが、じんわりと込み上げる。
「あ……ありがとう、ございます」
「なぜ君が礼を言うんだ」
「なんだか、嬉しかったので」
素直に言えば、膝丸は目を丸くする。
そして彼は溜め息をつくと、表情を緩めて苦笑した。
「君は、本当に変わっているな」
*
膝丸が来た翌日は、一切家から出なかった。それでも、鶯丸の新刊を読んでいればいつの間にか時間は経っていき、一日はあっという間に終わった。
吸血鬼の彼が、一体どんな吸血鬼ものの小説を書くのかと、半ば興味本意で読み始めたものの。いつの間にか時間を忘れ、読みふけっていた。
人間の少女と人間の少年の淡い恋が、時を経て、人間の女性と、人間だった男性の愛に変わる、切ない恋愛小説。
思わず、実話では、と思ってしまうほど細やかな心情描写に、心はひどく揺さぶられ、読んだ後はしばらくその場を動けないほどだった。
彼の小説は、まるでその場に居るかのように情景が鮮やかに浮かび、いつの間にか物語に入り込むような表現力がある。
こうして一日は過ぎ、夜を迎えるも、この日、兄弟に会う事はなかった。次は髭切が来るかもしれない、という期待は期待だけで終わり、どこかがっかりする自分を、嫌でも自覚するはめになる。
次の日も、ほとんど外出しなかった。鶯丸は作家として自宅で執筆しているため、彼も出る用事がないらしい。それでも「散歩でもするか」と、少しでも連れ出してくれるのは有り難かった。もう髪を染める事はせず、近くの公園を一周するだけだったけれど、いい気分転換にはなる。
この日も兄弟に会う事はなく、迎えた次の日。昼に顔を出したのは膝丸だった。
「髭切は何をしているんだ」
鶯丸の声はいつもと違い、若干の棘を感じた。普段の穏やかな雰囲気から想像出来ず驚くも、彼の問いの答えを聞きたくない気持ちが生まれる。
髭切は私を避けている。避けているというより、わざわざ会うつもりがないのかもしれない。
「兄者は忙しいのだ」
「君が代われないような用事なのか」
「俺より、兄者の方が尾行も偵察も上手いからな。分かっているだろう、今が大切な時だ」
「もちろん分かっているさ。だから、言っているんだ」
話の内容を、全て理解出来るわけではない。けれどきっと、鶯丸は私を気遣っているのだろう。
膝丸と直接話は出来たものの、髭切とはあれ以来、顔を合わせていない。鶯丸は、髭切とも直接話すべきだと思っているはずだ。
それが伝わり、何となく居たたまれない気持ちになる。
「あの、私、二階にいるので。何か用事があれば呼んで下さい」
そう言って、二人に頭を下げる。膝丸が昼間に訪ねてきた時点で、鶯丸に何か話があるのだろうとは分かっていた。けれど今は、この場から逃げたい気持ちの方が強い。
そんな気持ちに急かされるように部屋を出ようとした、まさにその時だった。
後ろからかけられた声に、足を止める。
膝丸に、名前を──私の名を、呼ばれたのだ。
それはおそらく、初めての事だった。
弾かれたように振り返れば、彼と目が合う。彼は一呼吸置いた後、口を開いた。
「もう、夜中に一人で出歩くなどしない方がいいぞ。物騒な世の中だからな」
物騒、という言葉を彼から聞くとは思っていなく、唖然とするも。湧き上がってくる違和感に、胸が締め付けられる。
なぜ今、そんな事を。
一瞬そう思うも、その意味を察した途端、何も言えなくなってしまった。
言うべき言葉が見つからず、ただ膝丸を見つめる。
彼も私から目を逸らさず、真っ直ぐこちらを見ていた。
「分かりました、気をつけます。……ありがとうございました」
今まで。そう心の中だけで付け加えた途端、目と鼻の奥が不意に熱くなり、それを呑み込むように堪える。
そして深々と頭を下げ、その場を後にした。
階段を一段一段上がっている最中も、部屋に入った直後も。どこか信じられないような、心ここにあらずな状態だった。
襖を閉め、ずるずるとその場に座り込む。一つ大きく深呼吸した後、やっと実感が湧いてきた。
きっと、今日で最後なのだろう。
そう感じ取った瞬間、込み上げてくる感情に、少なからず動揺した。
寂しさが、こんなにも胸いっぱいに広がるだなんて。今日で最後なのだと……おそらくあれは、膝丸なりの別れの言葉だったのだと。
そう思えば息苦しいほど胸が締め付けられ、目頭が熱くなる。溢れそうになるそれを、必死に堪えた。
今日、全てが終わるのだろうか。カルト集団との決着が、やっとつくのだろうか。彼らは無事に、終える事が出来るのだろうか。
もしかしたら、髭切とはもう会えないのかもしれない。
そう考えた途端、焦燥感にかられた。それは嫌だ。このまま、きちんと話もせずに別れるなんて。
話す機会を作れないか、聞いてみよう。膝丸はまだ下に居るはずだ。
思った直後に再び一階へ向かった。けれど居間には、すでに膝丸の姿は見当たらなかった。
「膝丸なら、用件だけ言って早々に帰っていったが」
鶯丸の言葉に呆然とする。行動が早すぎではないか。
彼に何か用事だったか? と言う彼に、本来膝丸へ言うはずだった用件を伝える。
「そうか。伝えておこう」
鶯丸はそう言ってくれたものの、もう会えないのではないかと、そんな不安が胸に兆した。
仮に今日決着がつくとして、そのままあの兄弟とお別れになったとしても。私は日常が戻る合図があるまで、ここで大人しくしているしか出来ない。それまでは、いくら私が気を揉んでいても、何も出来ないのだ。
今日も、昨日と同じ夜が訪れるのだと思っていた。何かしら行動しなければいけないのは、おそらく明日以降だと、そう思っていた。
鶯丸に呼ばれるまでは。
「悪いが、すぐ支度をしてくれ」
それは、そろそろ寝る準備をしようとしていた時だった。緊迫した様子で言われ、緊張が走る。急いでいるのは、目に見えて分かった。
理由を聞くより先に、出られるような準備を始める。
家を出て車に乗り込んだ直後、この時やっと、彼は行き先を口にした。
「今から君の友人に会いに行く」
心の準備をしておけ。そう続けた言葉は切迫したもので、心臓が嫌な音を立てて軋んだ。