@toasdm
寒さにかじかむ指先の感覚に、そういえばもうそんな時期かと道夫は眼鏡をあげた。普段から手入れは怠らないようにしてはいるが、そろそろレンズに曇り止めを塗った方がいいだろう、と待ち合わせの喫茶店に向かって歩く。秋風は徐々に街の彩度を落として、やがてくる冬に備えてあちこちに、温もりの漂うアイテムを散りばめている。ほぅ、と吐き出した息の白さに目を細めて、移ろう季節をこれから先も、共に過ごしたいと思える彼女に会いに行く。寒さなど、どうでもよかった。
「あ、道夫さん」
ドアベルのカラカラという小気味良い音とほぼ同時に、道夫に向かって声をかけてきた彼女が手を振るか振らないか。そんな速度で道夫の視界は真っ白になる。
「む」
やはり駄目だったか、と眼鏡を外し、ぶつからないように気をつけながら道夫は通路を歩く。お疲れ様です、と声をかけてくれた彼女は随分先についていたようで、注文された飲み物は半分ほど減っているように見えた。
「ふふふ、眼鏡さんのお悩みですね」
「恥ずかしいな」
サッとバッグから眼鏡ケースを取り出して、道夫はシートで眼鏡についた曇りを拭う。ふと視線に気付いて顔を上げれば、目の前の彼女がまじまじと、道夫を見つめているようだ。シートを畳んでケースにしまうと眼鏡を掛けなおし、道夫は長いチェスターコートを脱ぎながら彼女に声をかけた。
「珍しくもないだろう」
「め、珍しいとかじゃなく」
急にもごもごと口篭る彼女に、道夫はフッと笑いながら脇に畳んだコートを置く。仕事でもあまり眼鏡を外す機会はないが、夜を共に過ごす間柄なのだから、それなりに、彼女は道夫の眼鏡を掛けていない顔を拝んでいるはずだ。
「あまり見つめられると穴が開いてしまいそうだ」
「そんな」
「君が見つめたせいで、今ここに穴が二つ開いた」
自分の鼻先をちょんと突いて冗談を言う道夫に、彼女は飲みかけのカフェオレを噴出しそうになる。
「そんな真面目な顔して冗談言わないでください!」
「フッ、そうか」
道夫と付き合うようになって、色々な道夫を見てきた彼女だったが、存外驚いたのは道夫のユーモア溢れる性格と言動だ。今のような軽い冗談を大真面目な顔をして言うものだから、その度に彼女は笑い転げる。思い出し笑いが増えたという自覚すらあった。
「カプチーノを頼む」
注文を取りにきた店員にメニューも見ずにそう告げると、まだ笑っているのか、と道夫は彼女の顔をじっと見つめた。
「だって、道夫さんおかしい」
「お茶目といってくれ」
そんな言葉すらも大真面目な顔をして言うのがおかしくて、彼女は顔の筋肉が痛くなる、と笑い続ける。君が楽しそうで嬉しい、と言いながら見つめる道夫も、ゆったりとした笑顔を保っていた。
「君は面白いな」
「道夫さんにだけは絶対言われたくありません」
まだ笑いの残る彼女と幸せそうに微笑む道夫の前に、お待たせいたしましたとカプチーノが提供される。シュガーポットから角砂糖を二つつまんでぽとりと落とすと、道夫はついてきたシナモンスティックでぐるぐると混ぜた。ミルクの泡はしっかりとしていて、品の良い甘い香りが広がっていく。
「カプチーノは人を笑顔にしてくれる」
そうなんですか?と意外そうな顔をする彼女に、道夫はニヤリと微笑みカップを持ち上げ、ずず、と一口すする。
「こうなってしまうからな」
「道夫さん!!」
カップを退けた道夫の唇と鼻の間に、ミルクの泡がうっすらとついている。
「サンタさんにはなれそうにはないが、ジェントルマンにはなれるだろうか」
ムッシュ道夫と呼んでくれていい、と言う表情はやはり大真面目なままで、そのギャップがおかしくて彼女は涙目になって笑い続けている。
「私は」
紙ナプキンをサッと手に取り泡のヒゲを拭うと、道夫はカプチーノをすすりながら言う。
「君が笑顔になってくれるなら、この泡を顎につけることもいとわない男だ」
どこからどこまで冗談なのかわからないような大真面目なムッシュ道夫は、真剣に彼女を見つめている。私は君の笑顔が好きだ、と微笑む表情ですら真面目で真摯で、笑いながら彼女は、幸せですと言うだけで精一杯だった。