@KLEAM_SAN
「うえええええええ、おにいちゃああああん」
冷たいフローリングの上にへたり込んだ子供が、ぴいぴいと甲高い声を上げて泣き叫ぶ。その両手には、左前脚の千切れた犬のぬいぐるみと、綿を溢す千切れた足が握り締められていた。
間の悪いことに、両親は共に仕事で居ない。しかし、威勢の良い泣き声を聞き届けて、バタバタと荒っぽい足音を立てながら、彼女の兄は階段を降りてきた。
「なんだよ、あんまり泣くなよ、うるさいだろ、キャメラ」
「ぴえええええ、おにいちゃあん……クロのあしが、ちぎれぢゃっだのぉ」
兄──ヴァニスは、妹の両手に握られた惨状を認め、額を押さえた。一体何が起きたのかはわからないが、お気にのぬいぐるみをダメにしてしまったショックは、生半可な慰めでは到底癒えないだろう。つまり、何か抜本的な策が無ければ、泣き疲れて眠るのを待つしかないわけで。
既に声の枯れかけている妹の背をさすりながら、ヴァニスは小さく溜息を吐く。妹の泣き声を聞きながらでは、とても勉強を続けられはしない。この小さな女王様が、まだ話して分かるような歳でないことも、彼は実感している。どうするべきか少し考えて、やがて結論を出した。
「あ゛ー、キャメラ……お母さんの部屋に行くぞ」
「ふえ?」
「クロのこと、直してやる」
ぴたり、とキャメラの泣き叫ぶ声が止んだ。泣き腫らした目に、期待の光が宿るのが分かる。
「ほんと?」
「本当だ、兄ちゃんがお前に嘘吐いたことあるか?」
「ない……」
きらきら光る瞳に見つめられて、ヴァニスは誇らしい気持ちになった。妹のことが鬱陶しくなることもあるけれど、こうして全幅の信頼を向けられるのは悪くない。自分に裁縫の経験が無いことは棚に上げて、彼は上機嫌で母の私室へと向かい始めた。
結論から言うと、ヴァニスはぬいぐるみを元に戻すことは出来なかった。
試行錯誤を繰り返し、千切れた脚をとりあえず繋ぎ合わせることは出来たものの、針の刺し過ぎで今にも再び千切れそうな惨状だったし、ヴァニス自身も指先に怪我を負ってしまった。やがて帰ってきた母親に現場を目撃され、兄妹は揃ってきつい叱咤を受けることになった。
「針と刃物を扱うには、お前たちはまだ幼い。全く、回復魔法だってタダじゃないんだからな?」
「お母さん、ごめんなさい……」
「ごめんなさいぃ……」
「……まぁ、だが、ヴァニス、お前の挑戦心は良いものだよ。ぬいぐるみは私が直しておこう。それで良いね?」
母は治療の魔法を謳ってヴァニスの指先を治し、そのままキャメラのぬいぐるみをきちんと修繕した。不恰好になってしまった継ぎ目には、包帯を模した白いフェルトを巻き、犬のぬいぐるみは無事“元気な”姿に戻った。
「ほうら、キャメラ。クロは元気になったぞ」
「わぁーい! ありがとー、ママ!」
「大事に遊ぶんだぞ。……さて、ヴァニス」
ぬいぐるみを直してもらって上機嫌のまま、キャメラはリビングへと駆け出していった。その背を追いかけようとして、ヴァニスは母に引き止められる。
「な、なんだよ、お説教ならさっきやっただろ」
「いや、同じ失態を何度も掘り返す程、私は狭量ではないよ。私が言いたいのは、君が予想以上に良い兄をしてくれたことに対する賞賛だ」
賞賛。要するに、母はヴァニスを褒めてくれている。不機嫌にしかめられていた顔から一転、ヴァニスはでれでれと締まりのない笑顔に変わった。
「へ、へへ、それほどでもねえ」
「……これからも、良い兄でいてやってくれ。怪我をしない程度にな?」
「わぁーってるって。あいつは可愛い可愛い妹だもんな」
にへへ、と笑いながら、ヴァニスは今度こそリビングに出て行く。背後で母が咳き込んでいたような気がしたが、振り向くことはしなかった。
* * *
夢を、見ていた。温かな朝の日差しを、カーテン越しに目元に受けて、彼女はおもむろに瞼を開く。こめかみが濡れているのを感じて、やっと彼女は自分が涙を流していたことに気づいた。
「……にいさん」
乾いた声で、小さく呟く。兄の出てくる夢が悪夢でなかったのは、一体どれくらいぶりだろうか。そもそも、眠って見る夢が死や絶望と無縁だったことさえ、随分と久しぶりのように思える。
遊んで壊してしまったぬいぐるみの修繕を、兄が試みてくれた思い出。ここ数年、思い出すことすら出来なかった、昔の他愛のない出来事。それを今追憶出来たことに、ほろほろと涙が溢れて止まらなかった。
兄のことが大好きだったということを、屈託なく思い出すことが出来る。たったそれだけのことを取り戻すのに、自分はどれだけ遠回りしたのか。
「兄さん……お母さん、お父さん……」
ああ、早く泣き止まなくては。朝の時間は限られている。嗚咽をぐっと飲み込んで、腹の中心に気合いを入れて、キャメラはがばりと起き上がった。
泣きっ面を同僚たちに晒すわけにはいかない。右手で涙を拭った後、ベッドサイドに置かれた義手を手に取り、左腕に装着する。ヘッドギアを着けて問題なく動くことを確かめた後、彼女はキビキビと立ち上がって、洗面台へと歩き始めた。