@toasdm
放り投げられたバッグを受け取って、受け止めてから、私は声をあげていた。
「え、ちょっ」
長い脚を思いっきり伸ばして駆け出した古論さんは、五十メートル先の空中に向かって力いっぱい、地面を蹴った。
「フッ――――…!」
海面から飛び出したトビウオのように、高い高い跳躍。伸ばした腕のその先で、風船は今まさに、枯れ枝に触れる寸前でぐいっと引っ張られて、高度を一気に下げる。
「お、っと!」
少しバランスを崩しながら、古論さんはなんとか地面に着地する。うまく着地できなかったせいだろうか、片膝をついて、ふう、と溜め息をもらした横顔は、少し焦っているようにも見えた。夢中で駆け出して、今まさに泣き出しそうになっている子供が手放した青い風船を見事にキャッチした古論さんが、きょとんとした顔でじっと見つめるその子にそっと、風船を差し出した。
「あなたの風船ですね?」
「う……うん……」
少し乱れた髪の毛をさっとかきあげて、息苦しかったのだろうか、私が近付いたときにはマスクをずらして顎先にひっかけけていた。
「どうぞ」
「ありがと……」
風船を受け取って、ぎゅっとしっかり握りながらも、その子は複雑な顔をしている。乱れた呼吸を整えて、古論さんはくすりと品良く笑った。
「また手放してしまいそうで怖いですか?」
「え……」
どうしてわかるの?と、子供の瞳が言っている。おまじないをしましょう、とその子供の手から風船の紐をそっと受け取って、古論さんは子供の手首にくるくると巻いて、きゅっと結び付けている。
「解くときは、こちらを押さえて、こちらを引っ張ってください」
「すごい……」
「解こうとしない限りは絶対に解けませんが、解くのは簡単ですからご安心くださいね」
子供の頭を撫でながら、古論さんは跪いたまま隣のお母さんにも説明している。
「さあ、もう大丈夫ですよ」
転ばないように気をつけて、とすっかり笑顔になった親子連れに手を振りながら、古論さんはようやく立ち上がる。
「すごいですね……」
「……疲れましたよ、さすがに」
困ったような顔で私を見下ろす古論さんは、特大の溜め息と共に太ももをさすっている。コートの裾をばさばさと整えなおして、全力ダッシュからのハイジャンプの疲れを振り払うように、ぐるぐると肩を回している。
「あんなに高く飛べるんですね」
「ええ、私も驚きました」
でもよかったです、の言葉は本心のようで、未だ手を振る子供に、前を見ないと転んでしまいますよ、と声をかけている横顔は本当に、満足気だった。
「あの結び方、するっと出来たのも、すごいです」
「ああ、もやい結びですね」
「もやい……?」
ずらしたマスクを元に戻して、歩きながら古論さんは話し始める。
「ボーラインノットとも言います。船をボラード……港などにある小さな杭ですね、そちらに係留したりする際によく使われるロープワークですよ」
なるほど……だから、あんなに手馴れていたんだ。納得した私は改めて、古論さんの知識の深さと身体能力の高さに驚いて、溜め息を漏らした。
「あの風船は、近くの水族館で配られているものです」
遠くに消えていく青い風船をじっと見つめて、古論さんはぽつりと呟く。
「もし手放した風船が割れてしまったら、あの子は水族館にいやな思い出を残してしまうかもしれませんでした」
マスクの下の表情は、うかがい知ることはできなかったけれど。
「後顧の憂いは、早めに取り払うべきですよね?」
にっこりと目を細めた古論さんの耳は、少しだけ赤かった。
「海はいいものですよ」
素敵なところです、と呟く古論さんの、海への愛情がいつか世界に伝えられる日まで――。
「ふふふ……そうですね」
この、優しくて起用で不器用で、真っ直ぐな人をそばで支えたい、と、私は思った。