@ayame0601s
「それじゃあ、留守の間よろしく頼むよ」
私と膝丸を見やった髭切は眉を下げ、大層億劫そうにそう言った。
髭切から血を分け与えられ、彼らと同じ存在となってから、早二週間。この身体に慣れる、というのはまだ程遠く、それでも何とか二人に支えられながら、毎日を過ごしていた。
自分の身体なのに、ほとんどのものが変わってしまった。とにかく、全てにおける感覚が鋭すぎるのだ。
感覚が鋭い事は、彼らと過ごしていた頃から、だいたい予想はしていた。鼻が利きすぎたり、耳が良すぎたり。けれど、実際は想像をはるかに越えていた。
始めは、薄暗く静かな室内に居たため、問題がほとんどなかったものの。
「そろそろ慣れていこうか」と髭切に外へと連れ出された時は、とにかく辛かった。
視界に入ってくる光は刺すように眩しく、人がいれば、会話がひどい騒音となって鼓膜を揺さぶる。車の排気ガスは鼻の奥を刺激し、思わず呼吸を止めてしまうほどだった。ああこれは、カレーのにおいはさぞかし辛かっただろう、と、もはや昔の事のようにぼんやりと思い出し、同情してしまうほど。
入ってくる刺激のどれもが、人間の頃よりも遥かに強い。
それでも毎日、二人と一緒に外へ出る訓練をしながら、何とか短時間でも歩けるようになっていた。
そして、それは昨日の話だった。
穏やかな昼間。薄いカーテンで仕切られた部屋に淡い光が充満する中、髭切は椅子に座って本を読み、私はソファーでウトウトと眠りにつこうとしていた。
午前中に、訓練という名の散歩をし終え、いまだに慣れない身体は疲れ果てていた。髭切の、ページを捲る音だけが聞こえる、静かな空間。その心地よさに、夢の中へと入りかけていた――その時だった。
「兄者ァア!」
突然室内に鳴り響いたその声に、鼓膜が悲鳴を上げる。
キィンとする耳鳴りに眠気も吹っ飛び、思わず耳を塞いだ。
「う……っ」
「大丈夫かい?」
敏感になりすぎているのか、髭切の声すら反響して聞こえる。何とか彼を見上げれば、心配そうな瞳とかち合った。
「大丈夫、です」
「……膝丸」
髭切が私から視線を外し、弟の名を呼んだ。
普段、彼は滅多に弟の名を呼ばない。時々忘れてすらいるようだった。そのため、髭切の口から弟の名が出る、という事はあまりにも新鮮で、思わず耳鳴りも忘れて呆気に取られてしまった。
部屋の入り口に佇む膝丸を見れば、罰の悪そうな、ハッとした表情がこちらを向いている。それもまた新鮮すぎて、意識はもう完全に、そちらへと向いていた。
「すまない……大丈夫か?」
「え、あ、はい。もう、大丈夫です」
そう答えるも、眉を寄せたその表情に心配の色が浮かんでいる。
膝丸はあれから、まるで人が変わったかのように私に優しい。根本的に優しい、という事は分かっていたものの、目に見える形で柔らかく接してくれている。彼はあの時の言葉通り、確かに私を「妹」として扱ってくれているらしい。
いまだに居たたまれないような表情をしている彼に、「ちょっと驚いただけです」と付け加えた。
「で、一体どうしたというんだい」
髭切のその言葉に、膝丸ははたと思い出した顔をする。
「兄者、大変だ。すっかり忘れていたんだが」
「うん?」
「会合、今年じゃないか?」
会合? と不思議に思いながら髭切を見れば、彼は何度か瞬きをした後、ああ、と納得した。
「本当だね。しまった。すっかり忘れていたよ」
「俺とした事が……色々あったとはいえ、今頃思い出すなど」
「……あの、会合って?」
恐る恐る会話に入れば、それは吸血鬼の会合だと説明してくれたため、驚いた。数年に一度、不定期に行われ、状況報告をし合うらしい。
まさか、会合と呼ばれるような集まりがあるとは、思ってもみなかった。
世界中を探せば、僕達の仲間はひっそりと存在するんだよ。と、以前に言われたその言葉を、ふと思い出す。
「前回の時に、次は四年後って言われたから……うん。確かに今年だ」
指を折りながら数を数えた髭切は、確認すると眉を顰めた。面倒くさいなぁ、と溜め息を溢す。
「行かなかったら行かなかったで面倒だし、仕方ないか」
独り言のように呟くと、髭切は私に向かって「そういう訳だから」と続ける。
「悪いんだけど、留守番していてくれるかい」
「はい、分かりました。いつ頃ですか?」
本当は、もちろん不安があった。普通の身体だったら全く問題ないけれど、いまや慣れないこの身体だ。会合というのだから、膝丸も行くのだろう。彼らが留守の間、もし何かあったら……と思うと心配はあるものの、大切な集まりに対して我が儘は言えない。
髭切は私の質問に、それがさ、と続ける。
「明後日なんだよねぇ。イギリスであるんだけど」
「明後日に、イギリス……え、明後日?」
「うん」
「という事は、明日には出発ですか?」
「うん。そうみたいだね」
それは、予想していたのよりもあまりに急な事で。髭切は、面倒くさいなぁ、ともう一度呟く。
なるほど、これは確かに膝丸も焦るな、と内心で苦笑をした。
あれから急いで航空券を取り、迎えた翌日。髭切はスラックスにベスト、ジャケットといったスリーピース・スーツを着こなし、出かける準備を着々と進めていた。
ピシッと決めているその姿は、初めて見る気がする。
髪を片耳にかけ、そのまま片側へ流すように纏めた髪型まで、普段見慣れないもの。スーツの上からコートを羽織り、革のボストンバッグを持つ彼は、誰が見ても見惚れてしまいそうだった。
「ん? おや、ありがとう」
玄関に立った際、髭切はふと私を見ると、突然そう言った。
彼に対して何かしたわけでもなく、それはいきなりの事だったため、一体何に対してお礼を言われたのか分からず、ただ見上げる。
「え?」
「惚れ直してくれた?」
そう言って、彼は楽しそうに笑う。
「すごく見つめられていたから」続けたその言葉に、顔が一気に熱くなった。
「えっ、あ、いえ、その」
「うん。それじゃあ、行ってくるね」
髭切は私が何を言おうと、大して関係ないらしい。どもる私をよそに、彼は自らの手を、ゆっくり私の頭に置いた。
思わず肩が跳ねてしまうも、束の間。
彼はそのまま、私の額に唇を寄せた。
「――っ?」
流れるようなその動作に、頭がついていけない。ゆっくり離れていく髭切を見上げれば、彼は目を細めて微笑んだ。
額に、唇を落とされたのだと。そう認識した途端、これ以上ないくらい顔に熱が集まる。込み上げる恥ずかしさに、逃げ出したくなるくらいだった。
どうにも私は、彼とのこういう関係に、まだ慣れていない。その上、私のすぐ隣には膝丸もいるのだ。恥ずかしくて仕方がない。
おそるおそる膝丸へと目を向ければ、彼は目をぱちくりさせると、苦笑を溢す。
「兄者、くれぐれもお気をつけて」
「うん、ありがとう。可愛い弟にもしてあげようか」
「なっ……いや、俺は遠慮しておこう」
そんな会話をしている膝丸は、私と一緒に留守番組だった。てっきり、彼も行くものだと思っていた。もしかしたら、私に気を遣ってくれたのかもしれない。
そういえば、彼との留守番は二回目だな、とふと思う。
「あー僕も留守番がいいなぁ」
髭切は大きな溜め息と共に、ドアノブに手をかけた。
「それじゃあ、留守の間よろしく頼むよ」
膝丸と私を交互に見た彼は、心底億劫そうな表情をしている。眉を下げたその表情は、彼らに「飼われていた」時には、見た事もないもので。一度気を許した相手にはこんなにも感情を表に出すのかと、いまだに驚く事が多い。
「ああ、任された」と膝丸が頷く。続くように私も「行ってらっしゃい。気をつけてくださいね」と口にすれば、髭切は気乗りしない顔で頷き、そのまま会合へと出掛けていった。
パタン、とドアが閉まる音が響く。途端、部屋に沈黙が生まれた。
膝丸と、二人きりになってしまった。
彼は確かに、私に対してかなり柔らかくなった。あの射抜くような視線で見られる事は無くなったし、目に見える形で気遣ってくれる。
けれど今までの苦手意識が強かったせいか、二人きりというのはどうしても気まずく、何を話せばいいのか分からなくなってしまう。それはもしかすると、膝丸も同じなのかもしれない。
髭切は家を出ていったというのに、二人して、ただその場に佇んでいた。
沈黙が、気まずい。
「あの」
「兄者は」
口を開いた途端、言葉が重なる。お互いが振り向いたタイミングもぴったりで、視線が勢いよく交わった直後、膝丸は居心地悪そうに目を逸らした。
「あー……なんだ」
「あ、いえ、お先にどうぞ」
先を促せば、少し間を置いた後、膝丸は続けた。
「兄者は楽しそうだな。と思っただけだ」
楽しそう……膝丸のその言葉を反芻する。
楽しそう、なのだろうか。先ほどの彼は、どこからどう見ても億劫そうにしか見えなかった。
「そうなんですか?」と素直に返せば、「ああ」と肯定が返ってくる。
「君が来てから、随分と楽しそうだ」
その言葉は、不意打ちだった。まさか、そう言って貰えるとは思ってもいなくて。
嬉しさだったり、照れくさい気持ちが込み上げる中、何と返事したらいいのか迷ってしまう。結局、「ありがとうございます」となぜか膝丸に対してお礼を言う形になってしまった。
膝丸はそんな私を見て、ふっと吐息を溢しながら小さく笑うと、「で、君は?」と促した。
「あ……膝丸さんは、行かなくて大丈夫だったんですか?」
思っていた疑問を、そのまま口にする。膝丸は質問を呑み込むように、数回瞬きした。
「会合に、か?」
「はい。その、私のために行けなくなってしまったんじゃないかと」
「いや……もともと俺は、会合には出席しない。兄者だけだ」
参加は限られていてな、と、膝丸は話を続ける。
「血の濃い、いわゆる上層部のものしか参加を許されていない」
その言葉に、目を見開いた。意外、という感情が先行してしまったからだ。
血が濃い、というのは、彼と出会って間もない頃に、ちらりと聞いた覚えがあった。けれどまさか、それが「上層部」と呼ばれるほどだとは。
「髭切さんは、この世界でお偉いさんなんですか?」
その質問した途端、膝丸はいきなりカッと目を見開いた。その勢いと目力に、反射的に肩が跳ねる。
何か地雷だったのだろうか、と思ってしまうほどの勢いに、身体が緊張する。
つい後退りそうになるも、何とか留まった。
「ああ、そうだ。兄者は凄いお方だ」
そう言ったかと思えば。膝丸は、その顔をみるみる誇らしげなものへと変えていく。
「直系の血を注がれ、その身に受け継がれている。兄者のようなお方は、滅多にいないからな」
よほど、膝丸にとって自慢の兄なのだろう。話を進めるうちに表情がパァっと明るくなり、その無邪気ともいえるような顔つきは、初めて見るものだった。おまけに、雄弁でもある。そんな彼の様子に、思わず呆然としてしまった。
「だからこそ、会合には兄者が必要なのだ」
膝丸は嬉々としてそう言った。
「そう、なんですね。でも、それなら膝丸さんも会合に必要なんじゃないですか?」
髭切が直系の血を受け継いでいるのなら、そんな髭切に血を注がれた膝丸も、所謂「上層部」なのではないのだろうか。
そう思うも、彼は「いや」と否定する。
「俺は直系の者から、直接頂いたわけではないからな」
「あ、なるほど……」
「だが、間接的でもその血が流れている事にはなる。兄者のおかげだ」
そう言った彼は、大層嬉しそうな顔で口角を上げた。そんな表情に再び唖然とするも、心から喜んでいるその感情が伝わり、自然と頬が緩んでしまう。
「髭切さん、凄い人なんですね」
それは、膝丸から伝わってきた事への、正直な感想だった。
この兄弟はお互いを信頼し合い、尊敬し合っている事は分かっていたけれど、膝丸がこんなにも強く兄を慕い、敬っている事を、初めて目の当たりにした気がする。
膝丸は私の言葉に強く同意するように、大きく頷いた。
「俺も君も、恵まれているな」
私はどうやら、今までこの兄弟を、ほんの表面的にしか見れていなかったらしい。
兄と弟。そのしっかりとした関係性は日頃のやり取りから窺えたものの、弟は、私が思っていた以上に兄を敬慕していた。
髭切の事を話す膝丸は、とても嬉しそうで。頷きながら話を聞けば、彼は多弁に語ってくれた。
そしてこの事が、どうやら彼の中で、ひとつのきっかけになったらしい。
今まで私に対して、比較的口数の少なかった膝丸が、何かと自然に話しかけてくれるようになったのだ。
初めて会った頃は冷たく邪険にされて、嫌悪感を隠しもされず。瀕死の彼に血を分けてからは、分かりにくい優しさを。私が仲間になれば、目に見える形で気遣いをしてくれて……といったように、少しずつ段階を踏んで縮んできた距離が、今や。
「君は、これを出来るか?」
ぷよぷよを片手に、そう問われるまでになった。
思わず、思考が一時停止する。おそらく、兄の不在で暇なのだろう。けれど、まさか……まさかぷよぷよに誘って貰える日が来ようとは、微塵も思わなかったのだ。
つい、膝丸の顔と手元のそれを二度見した。
「……なんだ」
あからさまに二度見したせいか、膝丸の片眉がつり上がる。
「え……と、いえ。それ、鶯丸さんが来た日に、やっていたやつですよね?」
「ん? ああ、そういえばそうだったな」
あの日の事は、よく覚えている。その光景はあまりに衝撃だった。冷たい印象しかなかった彼らが、ぷよぷよをするなんて。そもそも、それを膝丸が買ってきた、という事実がとにかく衝撃だった。
「で、君は出来るのか?」再び膝丸に問われ、はたと我に返る。
「出来る事は出来ますけど……でも私じゃ、膝丸さんの相手にはならないと思いますよ」
「何故だ? やってみなければ分からないだろう」
不思議そうに問われても、残念ながらはっきりと分かってしまう事だった。
私には、あんな連鎖の攻防を出来ない。
結局、とりあえずやってみるだけやってみよう、という事になってしまった。若干気乗りしないものの、せっかくの機会だからと思い、彼の申し出を受け入れる事にした。
ゲームの準備を甲斐甲斐しく始める彼を見ながら、いまだに信じられない気持ちが胸を占める。
これは、一体どういう状況なのだろう。どこか他人事のように、そう思ってしまうほどで。
あんなにも怖くて、苦手対象だった彼と、ぷよぷよをする。
あの時の私に教えてあげたい、と、そう思えばどこかくすぐったい気持ちになった。
ゲームは極力音を落とし、画面の明るさも調節してもらったものの。
結果は案の定、私の惨敗で終わった。
「……、君は」
「はい」
「その、何というか」
「はっきり言ってもらって大丈夫ですよ」
「驚くほど不器用なんだな」
これを、不器用、と表現されるとは思っていなかった。下手くそと言われるよりは大分柔らかく聞こえるな、と苦笑する。
「マリカーなら……嗜む程度にはできると思います。たぶん」
「ああ、あのカートレースのか」
膝丸は思い出すように視線を上へ向ける。次はそれを買ってこよう、と提案する彼は、案外こういうものが好きなのかもしれない。そんな意外にも思える一面は、どことなく可愛くも思える。
新たな一面を垣間見れて、私自身も、彼に対する壁がなくなっていくように感じた 。
膝丸との留守番は、比較的穏やかに終わっていった。
この数日の間で、彼との距離はだいぶ縮んだように思う。あの冷たくてつっけんどんな頃から考えると、物凄い成長ぶりだ。
毎日散歩し、なぜかぷよぷよの特訓までされ。
「飢えていないか?」と聞かれた時に、一度薔薇を買ってきて貰った事もあった。花屋に行くまで、私の体力が持たないからだ。
男性から、薔薇の花束を貰う。そんな事は今まで経験がなく、思わずどきりとしそうになるも、彼らからしたら――今は私からしても、それは「飢えを凌ぐためのもの」で。
夕飯の材料の買い出しに行ってきたかのような調子で、「買ってきたぞ」と、薔薇の花束をずいっと渡される。
そこにロマンチックさの欠片もなく、そのちぐはぐさが妙に可笑しかった。
髭切が帰ってきたのは、彼が出掛けてから 五日後の事だった。
膝丸の予測だと、いつも一週間で帰ってくるため、おそらく明後日あたりだろうと。この日の朝、彼と会話をしたばかりだった。
「兄者は、こういう時はあまり連絡をしてくれなくてな」そう苦笑していた、まさにその日の夜。
この日も一日体力を使ったため、早めに就寝しようとしていた。ソファーでテレビを観る膝丸に、おやすみなさい、と声をかけ、自室へ向かう。ベッドに横になり、ウトウトとし始めていた時だった。
静かに回ったドアノブの気配に、眠りから引き戻される。
膝丸だろうか。けれど彼ならノックをするはず――そう思いながら上体を起こせば、髭切がドアノブに手をかけたまま、こちらを窺うように覗きこんでいた。
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
廊下の明かりが、暗い室内に入り込む。髭切は行きのカチリと決めたスーツ姿とは違い、ゆるいニット姿だった。
髭切の質問に「まだウトウトしていただけです」と答える。
「お帰りなさい。今帰ってきたんですか?」
「うん、ついさっきね。お土産があるんだ。今いい?」
頷けば、彼は部屋に入ると扉を閉めた。間接照明だけをつけ、室内がオレンジの暖かい色で照らされる。
その時ふと、彼の手に持つものと、鼻を掠めた香りに気がついた。
「はい。お土産」
髭切はベッドに腰掛けると、それを私へ差し出した。薔薇の芳しい香りが、辺りに広がる。
「わっ、いい香りですね」
「ね。会合に行った時、ここの産地の薔薇が美味しいって教えてもらったんだ」
香りからして美味しそうだよね、と、にこやかに言うその言葉には、やはりロマンチックさなどない。
そうとはいえ、鼻孔をくすぐるその香りは、欲が刺激されるものだった。
「これ、全部あげるよ」
「え……こんなに、ですか?」
「うん。弟には別に買ってきたし、これは君へのお土産」
そう言ってくれる髭切の手元には、溢れんばかりの薔薇が束ねられていた。その量は、つい申し訳なく思ってしまうほどだ。
「髭切さんの分は……」
「僕は大丈夫。会合でたくさん貰ってきたから」
ああでも、と彼は続ける。
「長旅で疲れちゃったから、少し貰おうかな。君から」
「はい。そしたら半分に……ん?」
「君から、貰おうかな」
二度目はゆっくり言われるも、言葉の意味が呑み込めず、ただ瞬きを繰り返す。
髭切はにっこりと、いい笑顔を私に向けている。
そして、はい、と花束を更にこちらへと寄せた。
「先にどうぞ」
薔薇と、髭切の顔を交互に見る。もしかして、と一つの仮説が脳裏に浮かんだ。
もしかして、彼は私から、間接的に味をみるつもりなのだろうか。
そんな事が出来るのかと信じられないものの、髭切を見れば、意味深にその目元を細めた。
これはきっと、おそらくそういう事だ。
無意識のうちに、こくりと唾を飲み込む。途端に緊張してきたためだった。
髭切はきっと、引いてはくれない。
そういう結論に至り、恐る恐る、彼から花束を受け取った。
彼に見られているという緊張感があるも、そっと、静かに唇を寄せる。
ふわりと漂う芳醇な香りに包まれながら、口元から甘く、瑞々しいものが流れるように入ってくる。
いくら本能的に行っているとはいえ、この感覚は、やっぱりまだどこか不思議な気持ちにさせた。
ごくりと飲み込む、というよりは、そのものが持つエネルギーを貰う感覚。
その上、いまだに慣れていないからか、私にとって薔薇からエネルギーを摂取する、というのは難しい事でもあった。小さく細いエネルギーの通り道から、少しずつしか貰えない。
髭切や膝丸は、唇を触れさせた瞬間にその花びらを枯らすのに、私は時間をかけてやっと出来るか出来ないか程度だった。
それでも、何とか集中しようとしていた、その時。
ふと、私の手に髭切が触れ、ハッとする。
薔薇から唇を離して顔を見上げれば、髭切は私の手元から、花束をさらい取っていった。その動作は滑らかで、ただ見守っていると。
パサリ、と花束が床に落とされた音と同時に、静かに押し倒される。
ベッドに背中を受け止められ、そのまま覆い被さってきた髭切の髪が、ふわりと垂れた。合間から覗く表情は柔らかく、けれど艶を帯びるその瞳に、どきりと胸が高鳴る。
彼は、何も言わない。私も、何も言う事が出来ない。
髭切は口元に薄く弧を描いたまま、微かに視線を落とした。そしてそっと、唇に、彼の指先が触れる。
親指で、触れるか触れないかの力加減で。そのまま彼の指で押し下げられれば、唇が軽く開く。まるでそれが合図かのように。髭切はその隙間を埋めるように、自らのものを寄せた。
彼の滑らかな唇が触れる。角度を変えて、食むように。啄みながら軽く吸い付くその口付けは、決して深いものではないのに、頭の芯が揺らぐほど情欲的なもので。
触れ合い、離れ、そしてまた触れ合う。その合間に彼は、私の首筋に指を添えた。つぅと撫でられれば、それだけで背筋が震え、漏れ出る吐息は彼に呑み込まれていく。
髭切は唇を離すと、そのまま下へ下がり、首筋へと落とした。
この身体になって、吸血時の、あの目が眩むほどの甘く強い刺激は感じなくなったものの。
それでも、身体の奥が疼くような痺れが走る。それは、髭切の醸し出す艶やかな空気に当てられているから、というのもあるかもしれない。
彼の、首筋に落とす口付けが、這わせられたその舌が。身体のラインに沿わされた、その指先が。全てが甘く、思考を溶かしていった。
「ご馳走さま。味見はおしまい」
リップ音の後、髭切は突然そう呟いた。
ゆっくり離れていく彼を、ただ見上げる。
名残惜しい。もっと、触れていたい。
その感情に促されるまま、咄嗟に彼のセーターを、摘まんでしまっていた。
髭切が目を見開く。それを見て、私も我に返った。
無意識のうちに、甘えるような行動をしてしまうなんて。
本当は甘えたいのに、はたして甘えてもいいものなのか、本心と遠慮がせめぎ合う。
結局、静かに手を離した。遠慮が勝ってしまった。
それでも彼は、いつだって私の気持ちなどお見通しなのだ。離した手は簡単に捕まり、そのままベッドに縫い付けられた。
「言って。ちゃんと。君はどうしてほしいの?」
柔らかい視線は、慈しむような。落とされたその声は、優しく言い聞かせるようなもの。
彼は分かっているくせに、私の口から聞きたがる。
「おしまいに、しないで下さい……」
何とか絞り出した言葉は、尻すぼみになってしまう。恥ずかしさから視線が泳いでしまうのは、仕方ない事だった。
髭切の、吐息が混ざった笑い声が落ちてくる。
彼へと視線を戻せば、とても嬉しそうに微笑んでいた。
「うん。そのつもりだったよ」
味見はおしまいだけど、と、彼は続ける。
「このまま、続き、してもいい?」
その笑みは、あまりに温かく、柔らかいもので。
胸が淡く締め付けられるまま、私も笑みを返しながら頷いた。