@kyuri_akita
寒い、とぼんやりとスルザは思った。
ああ、また夜がやってきたのかと静かに肌で感じ取った。夜は寒くて、眠るのすらままならない。肌を突き刺すような寒さは、冷たいというよりも痛いほどだ。
そんな感覚が残っているから、まだ生きているとぼんやりとでも実感する。自分はまだ死んではいない。すなわちそれは、生きていることだ。
まだ終わっていなかったのかとにじみ出る思いを消すことはできなかった。ひどく寒くて、意識を手放すことすらできない。
ぼんやりとしていると、赤い毛が視界に入ってきた。
黄色の目をした肉食の獣は、静かにスルザを見下ろしている。いつもの光景に、ああ、やっと食べるのか、と安堵した。
安堵の息をこぼすのすらままならない。すでにこの体はスルザの意志で動かかすだけの力は残されてはいなかった。使いつぶされて、すでに奴隷としては廃棄品だ。
売り買いされて値段がついている以上、自分はものでしかない。壊れて使えなくなったらそれで終わりだ。
ずい、と顔が近づいてくる。大きく開かれない口をぼんやりみていると、ぺろ、と口元をなめられた。なめられた舌に含まれた水で口元が湿る。わずかに口を開けば、心得たとばかりに水を与えられる。
ぽたぽたとのどを伝う水の感触に、ああ、またかとあきらめが湧き出た。
やがて水を与え終わると、獣はスルザを自分の胸元に入れて丸まった。
そんなに腹が減っていないのかと不思議だった。時に空腹でスルザに殺意を向けることもあるのに、牙をむき出しにしてなお、この狼はスルザを口にはしない。
もう動くことすらままならない肉を、この獣は食べない。
だんだんと狼が細くなっていくことは理解していた。
なのに、これはスルザを食べない。
(さむい・・・)
食べればいいのに、とスルザは思っていた。
むしろ腐り落ちて異臭を発する腐肉と化すぐらいなら、その腹に収まって消化でもされるほうがましだ。
死ぬのを待って食べないでいるのなら、水も与えずとっくに食べられているだろう。
なぜだ、と思う。
その答えはでない。
眼を開けたままのスルザに気づいたのか、ぺろりと顔をなめられた。もう寝ろと言われているようで、仕方なく瞼を閉じる。
肌をつくような寒さは、毛皮で防がれている。
(あたたかい・・・)
ようやくきちんと寝れそうだと、スルザは思った。
『・・・もう寝れるか』
そのささやきに、そうだなと返した。
『・・・そうか』
安心したように、そばで獣が寝息を立てた。
ぐるぐると鳴く声に、なんだか浮いていた体が地面についたような重さを感じた。
鈍い痛みと、何かが余分に体に乗ったような感覚に、スルザは意識を取り戻した。
(・・・どうした)
この感覚は、覚えがあった。鈍い重さは、体が傷だらけの時に起こる。寒くないということは、あまりひどくもないのだろう。
スルザは瞼を閉じたまま、周囲の意識を探った。特に人間の気配を感じられず、ふ、と目を覚ます。
体を持ち上げるのに苦労したのはずいぶん昔のことだった。今ではすぐに、どれだけ傷ついてもよく寝てよく食べれば元に戻る。
ぐう、と腹が鳴った。よく寝たから、次はよく食べなくなくてはいけないなと、スルザはあたりを見回す。
ぎしりと軋みそうな上半身を持ち上げれば、ふとそばに何かがいるのが分かった。
自分の腕に巻き付く白い布とはちがう、白くて丸いものがそばに置いてある。なんだこれ、とスルザは思わず凝視した。
「・・・お目覚めですか」
正体を突き止める前に声がして顔を上げれば、部屋の壁と一体になるかのように立っている男がいた。
右側だけ赤い眼をした男は、左を髪で隠している。多くのシェカールチーがそうであるように、赤い布が眼を隠すように巻き付けられていた。
褐色の肌に土くれ色の髪は、まさしくシェカールチーである。
だが、普段彼らが隠す目が片方だけ覗いている。そんなことがこんなに違和感を植え付けるとは、スルザは考えもしなかった。
「・・・しぇかあ、るちぃ」
思わず訛ったスルザの言葉に、男は静かに口を曲げた。
「はい。最初の土くれ人形。意志ある支配の愛玩。原初の防壁、シェカールチーの、ゼロ番目」
セフルと申します、と男は小首をかしげた。
「・・・なぜ、お前は」
眼がある、と聞こうとして、スルザは口をつぐんだ。
聞くべきではない。奴隷は、そんなことを聞く必要がない。
だが、と思う心は、スルザに言葉を探させた。
「・・・シェカールチーは、目を隠さねばなりません。それは、私たちが人間でないからです」
セフルは、そういいながら、もう片方の目を隠した布を髪ごと手で掻き上げた。
ぱさり、と金にさえ見える髪がひと房、顔にかかる。
「・・・ッ」
スルザは思わず驚きに顔を歪めた。
ない。
なかった。
彼らの貌には、本来あるべき、その位置に。
眼球はおろか、眼窩さえ。
ない。
その顔はつるりとした茶色い肌が広がっているだけだった。
「私は唯一、目を与えられまして」
「・・・のっぺらぼうか」
顔のない怪物を故郷の名称で呼べば、セフルは意味が分からなかったのか、首を傾げた。
「皆、目がないのですよ」
静かに視線を男に、スルザは思わずじっと顔の動きを追った。
「じゃあ、どうしてる。おまえらはあいつみたいに転ばないだろう」
眼の見えない男とは違うと口にすれば、セフルは小さく笑った。
くしゃりと顔を丸めて笑うその顔は、子供のようだった。土くれだといいながら、奴隷のスルザとは違う。
まるで人間のようだと、スルザは片方しか目のない男を見上げた。
「・・・我らはこの大地であれば『わかる』のですよ。この大地より生まれ、作られたので」
「だから砂になれるのか」
戦っていた際の砂の巨人たちを思い出す。あちこちで敵を薙ぎ払っていた砂の巨人の一匹が、スルザをつかんだ。
最初はつかまれた目的が分からず暴れたが、巨人は小さくささやいた。
『投げてやる。行ってこい』
砂の中に、わずかに笑う口元が見えた気がした。動きを止めて凝視しても、その姿を見ることはできなかったが。
聞きなれた声は、同じ警備をするシェカーだった。
『あのお方を、止めておくれ』
願うように請われたことが、背を押した。
眼に映る巨大なそれは、大きく手を振りかぶった。青い空に映える砂の色は、いつも見えているはずなのに、色が違った気がした。
血しぶきが飛ぶ戦場で、とにかくあの場所へとリヒトールを目指したスルザに、すべてのシェカールチーが道をあけた。
「・・・なぜ・・・」
戦場での彼らを思い出して、スルザは目を伏せた。
「お前たちは、・・・おれを・・・」
「あなたたちはいつだって自由だ」
問う言葉を探すスルザが顔を上げれば、セフルは微笑んでいた。
赤い眼に、光はない。
それは、リヒトールが時折見せる目に似ている。
「おまえ・・・」
それでスルザは気づいた。
この男の目は、別に見えてはいない。そこに眼球があるだけだ。動きはしないし、何かをとらえてもいない。
「でも、いくら自由でも、あなたたちは、いつだってきちんと戒めることができる。その目に映したことの善悪を判別し、判断する」
でも、とセフルはそっと、己の瞼に触れた。
与えられたからこそついた、目を覆うわずかな皮膚を、そろりと撫でる。
「・・・陛下は、見えないからこそ・・・とらわれず、縛られず、恐ろしさがない」
「へいか?」
にこり、とセフルは痛いように顔をしかめた。
どこかが痛くても、顔をしかめたくても、それでも笑うセフルは、本当に人間のようだとスルザは空腹を覚える腹を抑えた。
「・・・だから、かの方は、王になります。ゆえに、陛下なのです」
「王はもういる」
いえ、とセフルは残念そうに首を振った。
「陛下だけの、これから与えられる人ならざる世界の王です」
「どういうことだ」
ぐるり、と腹の底に覚えた空腹が、殺意に成り代わる。人ではないと頭では理解していても、その人間らしさに腹がすく。
「・・・そこまでにしてください、セフル」
のそり、と傍らにあった白いものが起き上がる。
スルザが正体をつかみ損ねていたそれは、人間の頭だった。
「な、ん・・・」
言葉をなくしたスルザの前で、それがにこりと笑う。
「おはようございます。目が覚めたんですね。良かった」
どこかいたいところはないですか、とかけられた声にぞっとして、スルザは体を引いた。
「・・・?スルザ?」
いるんですよね、と確認する声に、じっと息を殺した。
「セフル、彼女はいるんですよね?」
確認する声に、セフルが眼を伏せた。
スルザはぎろりと殺意をまき散らしてシェカールチーをにらみつける。何も言うな、と視線で制すものの、セフルは力なく首を振った。
「はい・・・」
ふざけるな、と叫びたい気持ちをこらえて、スルザはそっと息を殺す。
「目の前に、いらっしゃいます」
余計な情報まで与えたセフルを後で殺す、とスルザは固く誓った。できるだけ身じろぎせずに、壁によって、静かに息を殺す。
リヒトールは、声を立てずに気配を消すスルザがどこにいるかわからないようだった。たまに獣の姿でいたときに使っていた、周囲を把握するような力を使う気配はない。
彼は、首を傾げたまま、困惑したように手を伸ばした。
スルザを探すように伸びる腕は、獣の姿でなく、向かい合って自分に向けられればなおのこと、白い気がした。
いや、実際肌がさらに白くなったのかもしれないと、スルザは息をのんでリヒトールの腕がもがくように宙をさまよう様を眺めた。
リヒトールは、白くなっていた。
それは、何かのたとえではなく。
単なる事実だった。
茶色だった髪からは、ごっそりと色が抜け落ちている。絹糸のように光を弾く長い髪は、相変わらず顔覆っていて、表情がよくわからなかった。
もとから砂塵舞う大地に生きるものには不釣り合いなほどに、リヒトールは肌が白かった。長いローブを常からまとい、日にさらされない肌は、血さえ透けそうだった。青白く浮いた血が流れる管が肌から浮いているのを見るたびに、なんて薄そうで、紙のようなんだろうと思っていた。
その肌は、今も陶器のように固く透き通っていた。日のもとに出ることなく、朗らかに歌を歌う神に仕える高貴な身は、乳白石の陶磁のように穢れがない。その身はあらゆる不浄とは遠いところにある芸術品のようだ。スルザにそれの良し悪しを図る眼はないが、それでも髪にすら色をなくした白い腕が空中に伸びている姿は人間味を欠いている。
だからこそ、彷徨う手が伸びる先が、スルザであることにぞっとした。なんて恐ろしい状況なのかと臓腑がひやりとする。
上から落とせば、がしゃりと音を立てて壊れてしまう陶器のように、目の前の存在は触るのもためらわれるようなものだった。ひどくもろく、それでいて硬さがあるようなものに見える。ばらばらに砕けて欠片になってしまいそうだ。
声を上げれば嵐さえ呼よせる力を持つ、盲いた貴人。その身は神がまぎれもなく手をかけて守るものだと、歌で何もかも壊したことを思い出す。
「スルザ」
そばにいるなど恐ろしい。
この男を殺してしまえば、どうなるのかわからない。
「スルザ」
けれど。
それでもスルザは。
「スルザ・・・」
途方に暮れたように名を口にする軽やかな声は、スルザの好物のチュリトーみたいだった。けがをしてよく寝たというのもあるが、何か食べたいと腹が動く。体の中身が減っている部分もあるのだろう。やけに空腹感がスルザを苛んだ。
久しぶりの飢餓感に、チュリトーみたいなその声すら食べたくなる。
口に入れて、食べつくしてしまいたい。
ふとよぎった思いにぞっとした。腹が減っているからそう思うのだと、うつむく。
早く何かを食わねばならない。傷を受けて減った部分は、ほかの肉を食らうことで戻すことができると、スルザは経験から知っている。
腹が減る。それは殺意とないまぜになって、そんなことをしてはならないと思うのに、生きたいと願うはずなのに、それでも殺したいと思う。空腹はきゅう、と腹を鳴らして、殺意を抱かせた。
白い腕が、わずかに止まった。
くすりと忍ぶように笑って、彷徨っていた腕が伸びてくる。
「スルザ・・・」
そろりと伸びた指が、顔に触れる。ひんやりとした指先が鼻先に触れ、でこぼことした皮膚のつながりをたどる。ようやくそれが顔らしいと気づいたリヒトールは、さらに腕を伸ばして手のひらで皮膚の薄い傷跡に触れた。
じっと息を殺して、リヒトールのなすがままにさせた。少しでも動けば、腹が減った体はその喉元に牙を立ててしまいそうだった。そんなことをすれば壮絶な力を持つリヒトールに殺されてしまう。頭ではわかっているのに、常々耐えてきた空腹と殺意が、この乳白石の男の前ではついつい耐え忍ぶことを忘れていく。
「ねえ、スルザ。私にも触ってください」
じっとしているスルザをどう思ったのか、リヒトールの口元は柔らかな曲線を描いてそう紡いだ。
「・・・」
「いいですよ、触って。私は怒りません」
ねえ、と奴隷が助命を請うような声でリヒトールはスルザに言った。命令とは声が微妙に違う。この貴人が出した声のバランスに、スルザは何を考えているのかと、その指先を見つめた。
「ほら」
する、とリヒトールの手が、スルザの首元をたどった。ペたぺたと肩を触り、それはそのまま腕を触っていく。そして手首をつかむと、ゆっくりとそれを自分の顔に近づけた。
リヒトールの頬に触れそうになってスルザが反射的に手を引きかければ、ぐ、と力を込められて止められる。
「・・・だめです。ほら、よく見て」
白い手は固く、相変わらず柔らかいだけの貴人の手ではない。
働くことを知る手は、傷だらけで剣だこのついたぼろぼろの手を握っている。指先は栄養不足がたたり、うまく伸びなかった。小指はぶつりと切れたことがあり、一応長さは取り戻したものの、骨はいびつに伸びているため歪んでいる。分厚い掌は、時に叩きつける武器として使うことも多く、鉄のような硬さがあった。
とことん、戦いの場に居続けた手は、唄を歌い、幸せを願う神官が触れるものではない。
そんなスルザの手が、するり、と柔らかな頬に触れた。
びくり、と揺れた体は、また逃げかける。
しかしそれを許すことなく、白い手は手首を握ったままだ。顔をしかめそうになって手に力を込めるか、どうしようかというスルザの迷いを見透かしたように、リヒトールは首を傾げた。
「なにが怖いんですか?」
リヒトールは心底不思議そうに、そう問うた。
その問いかけに、スルザのほうこそ目を丸くした。
「こわい?」
思わず聞き返したスルザに、リヒトールは顔の動きを覚えさせるように、スルザのざらりとした手のひらに頬を寄せる。
ふ、と口元を緩めた動きに、手を引きたくなったスルザの歪さを留めながら笑う。
「私はあなたを殴らないし、蹴らないですよ。あなたを馬鹿にはしない。あなたを無視もしない・・・いえ、難しいですね、私、見えないので」
何が面白いのか、くすくすと笑う男の言っていることがよくわからなかった。スルザは困惑もそのまま、言葉を探して唇を湿らせる。
「・・・好きにしていい。俺は奴隷だ」
殴ってもいいし、蹴ってもいい。馬鹿にしてもいいし、いないようにふるまったってかまわないのだ。人間は、壁相手にわざわざ人間がいるかのようにふるまうことなどしない。
スルザはそこら辺に置いてある家具と同じだ。
「ちがう。あなたは人間です」
即座に帰ってきた言葉がよくわからなかった。
奴隷は好きにしていいものだ。
そしてスルザは奴隷で、人間とは違う。
「私と同じ」
いつも、空をきれいにする歌をこぼす口が、同じだという。
スルザとリヒトールは、同じだと。
指先は栄養不足がたたり、うまく伸びなかった。小指はぶつりと切れたことがあり、一応長さは取り戻したものの、骨はいびつに伸びているため歪んでいる。分厚い掌は、時に叩きつける武器として使うことも多く、鉄のような硬さがあった。
そんな手をしているスルザと、白いきれいにそろった五本指を持つ手をするリヒトールが同じだという。
「・・・ちがう・・・。お前は、人間だ」
「あなたも人間です」
おなじ、とチュリトーのような声でリヒトールが言う。
「触れていい。あなたは私を殴っていいのです。私のいうことを聞かなくていい」
殴っていい、とリヒトールは言い切った。
リヒトールの言っている意味が分からなかった。
スルザはわからない。
何一つわからなかった。難しいことを言われていると思う。あの、白い毛並みの狼が言っていたことも相当にわからなかったが、それは同じ兄弟だとスルザの狼が理解した。
スルザが理解しなくとも、獣が分かっている。それならば理解などしなくともいい。
眼が熱くて、わけのわからない雫がこぼれたって、それは狼が理解していることだからいいのだ。
殴っていいと言われても、人間を殴れば、下手をすれば殺される。だというのに、どうしてそんなことをしないといけないのだ。どうあってもスルザは生きたい。腹が減って殺意がわいて、食ってしまいたいと思っても、生きるためなら耐えていける。
「・・・どうして?」
わからない、とスルザはつぶやいた。
幼い子供が駄々をこねるように、小さく口を開いたまま困惑と不安を顔に浮かべる。子供は純粋に不思議なものを目にしたといわんばかりに金色の目をゆらりと光らせて、そうと知らずに縋るようなまなざしをリヒトールに向けた。
「君が・・・黄金のようだから」
その眼窩に光り映さない男は、傷だらけの少女のわずかな情動を、触れた部分で測った。
ひんやりとしたまばゆく輝く黄金そのものだ。とても硬くて、柔らかさとは程遠いというのに、どうあがいても解けぬ呪いのように美しい。
「わからない。むずかしい」
リヒトールは、舌足らずになまりの入った言葉に、口元をほころばせた。
「お前の言っていることはわからない。殴れというのは命令か」
「違います。・・・そう、むずかしいですよね。難しいことをお願いしています。でもこれはお願いなので、あなたは別にしなくてもいい」
でも、努力はしてほしいです、とリヒトールはほんのりと笑い交じりにつぶやいた。
「これでいいのか、そう問うてきましたね。答えはよくない、です」
叫びながら歌うリヒトールに問うた言葉を、返された。
まさか問いかけの答えが来るとは思っていなかったスルザは、手を引きかけて、しかし相変わらず離さない動きに遮られる。
「これでいいはずがありません。あなたのことも、私のこともそう」
「わからない!」
とうとうスルザは、叫んでしまった。
この男が何を言っているのかわからない。いっそ知らないことを説明するように、こうであると言ってくれればいいのに、と歯噛みした。
手を振り払ってしまいたかった。この男は恐ろしい。怪物のようだ。実際とてつもない力がある。それはああして唄を歌えば明白にわかることだ。
手を振り払って、わからないからいっそ殺してしまいたかった。
いつだってそう。わからなければ殺してしまえばいいだけ。所詮勝ち続けて殺し続けてこの地に行き着いたのだ。だったらもういっそ、目の前にいる男だって、殺してしまってもいいのではないか、と思考がよぎる。
殺意をばらまき始めたスルザに反応してか、壁に徹していたセフルが「陛下」と声を上げた。
それに構うことなく、リヒトールはただじっと、スルザの手首を握っている。
そして、ああほら、やっぱり、と笑った。
「怖がらないで、殺さなくたっていいのですよ。難しいことも、頑張って口にしましょう、ね」
ざくり、と何かが引き裂かれた気分だった。
殺さなくていい、という言葉に、スルザは。
まるで、自分こそが殺されたような気がした。
(こわい)
声も出せずに、逃げたくなっている腕を、それでもリヒトールは離さなかった。
「ひとは、殺さないで済むように言葉を使うのです。だから私にたくさん文句を言ってください。殴るくらいはいいですよ、でも殺さなくてもいいし、怖がらなくてもいいですよ」
「わ・・・わからない」
混乱もそのままに同じ言葉を繰り返すスルザに、リヒトールはじっと、うん、とうなずいた。
「わからない・・・どうして」
言っていることが分からなくて、スルザの殺意は霧散した。
ひたすら殺し続けた。
そういう物だった。
そういう家具だった。
殴られる壁だった。
なのに、殺さなくてよいなどと。
言われたら、わからないとスルザは眼を揺らす。
「君が人間で、私は君が欲しいのです」
ねえ、とリヒトールはスルザの手に頬を摺り寄せた。触れた頬は滑らかで、柔らかくて、陶器のようだったけれど、けれどきちんと温度があった。
割れ物の、器ではなかった。上から落として、壊れてしまう陶器ではなかった。
「きっと、君にはとてもとても難しいことです。言葉にすることも、殺さなくていいから、ただいることも。でも、もっともっと、君に、私を見て、そのうつくしい声で呼んでほしいのです」
スルザ、とリヒトールは名前を呼んだ。
「その声で、私を呼んで」
命令でいないそれを、なんといっていいのかスルザにはわからなかった。この男はただ恐ろしく、こわい。
わからないから、こわいと、鈍くなった名前のつかないわからないものだらけの情動の中から、スルザは久方ぶりにそれを思い出す。
「もっと、君のことを教えて」
まるでそれは、やせ細ったものが、ろくに動かない死にかけに水をやるような言葉だった。
知っているのに、わからない。
もどかしさに、スルザは必至で言葉を探した。
「君のことを伝えてください」
助けてくれと請うのに似た声だ。
けれどそれよりも緩やかで、ぞわりと臓腑が冷える。
「・・・私のそばにいてくれませんか」
ざくり、とまたもや刺された気がした。
ここにいて。
そばにいて。
いかないで。
生きて。
声にならない声で、そうして願ったものがあった。その願いでスルザはここにいて、それがなんというものか、与えられて生かされることの奇跡を知っている。
本当なら死ぬはずだった。それでも分け与えて生かされることは、とんでもないことなのだと、それはまさしく神が起こす奇跡なのだとスルザは思っていた。
その奇跡と同じ温度で、はっきりと口にして、願われていた。
「・・・はな、せ」
震えた声でそう口にした。
こわい。
この男が怖い。
スルザが唯一、ただ与えられたことを思い出させることがこわい。当の昔に亡くなった獣が与えたものを、同じものを与えようとすることがこわい。
時に命さえ分けても構わぬと、それと同じことを与えられるのだ。
それはきっと、奇跡のように。
とんでもないことだ。
「・・・はい」
丸い声で、リヒトールが手を離した。
触っていいといった。
そしてリヒトールはスルザにためらいなく触れた。
指さえ歪なスルザの手を、きれいな五指がためらいなく触れた。
ごくり、とスルザののどが嚥下した。
「う、うごくな・・・」
「はい」
スルザは震えそうになる手を伸ばす。
そしてそっと、体を伸ばして、リヒトールの頬に触れた。
に、と目の見えない男の口の端が持ち上がる。顔の筋肉の動きは、こうして波打つように動く、柔らかい動きをするのだと、スルザは思わず白い顔を眺める。
よく見えないと、長い前髪を払った。
そこには、白い肌には不釣り合いな、皮膚の色素の沈殿があった。
そこだけ分厚くなった瞼とその変色した目の周りにそっと触れる。
「ふふ、ね、こわくないでしょう」
眼の周りの引きつりは、やけどの跡だとわかった。この男は眼を焼かれたのか、とスルザはただじっと白い髪の間の貌を眺める。
「・・・めをみたい」
スルザがそう言えば、うーん、とリヒトールは首を傾げた。
「わかりました、がんばりますから見ててくださいね」
ぐ、と変色した瞼に力を込めたのが分かった。そうして力を込めねば、瞼を開くことさえ難しいのだと、この男の不自由さを知る。
ゆっくりと、ひどく重たいものを持ち上げるように、目を開いた。
そこには、幾度となく見えた光のない赤い眼があった。ただ血が映ったような鮮やかな色は、命そのものだ。
ろくに顔を見てもいないから、目の周りのやけどのあとに気づかなかった。この男はこうして瞼を震わせながら、力を込めて目を開くのだ。
ああ、と男が声を落として、震わせた。
「どうして私は眼が見えないんでしょうね」
赤い眼が、ただどこを見るとなく、スルザを見ている。映るだけは川に太陽を映すのと同じだ。
「あなたの顔も、目も見えないなんて。いま、目の前にあるはずなのに」
ただいつも楽しそうに語る男から、まるで子供の泣き声のような響きを感じた。
「・・・りひとーる・・・さま」
さすがに呼び捨てにするのはどうかと思って、敬称をつけて呼んだ。
ふふ、とリヒトールは眼を細めて笑い、様はいらないです、といった。
「リヒトールと、そう呼んでください。もっと」
「・・・リヒトール」
はい、と答える声が、不思議だった。
こんなことを言われたこともない。わからないことだらけだ。スルザはこの男が怖くてしかたない。
それでも。
行くなと、何度も引き留めた。
ここにいろと、それを願った。
止めたのはスルザだ。
空をきれいにできる歌が、まるで奇跡のようだった。その歌がある国で、スルザはただ息がしづらくて仕方なかったのに。
殺さなくていいという。
ただ闘技場にいるだけだったスルザに、戦わなくていいという。
「・・・おれは、たぶんまたたくさん、殺す」
「殺さなくていいですよ、私があなたを守ります」
できるのか、とスルザの顔が歪んだ。
「スルザ、泣かないで」
眼も熱くもないのに、こぼれるものもないのに何が泣くなのかと、スルザは首を傾げた。
「泣いてない」
「悲しそうな声がしたから」
かなしそう、とつぶやいて、スルザはよくわからないと眉を寄せた。
「・・・あがひ、あがれゆあん」
故郷の言葉で、お前はそうなのだとスルザはささやいた。
永遠に使うことなどないと思っていた言葉だ。
空がきれいだった。
そんな風にさせる歌があった。
そしてもう、殺さなくていいという男がいる。
この国は、善き王がいて、善き国だった。
まるでそれは楽園のような。
「・・・どうしたらいい」
殺さずにいてよいと、その言葉に報いるには。
殺さずに、ただそばにいるだけのためには。
どうしたらよいのだろうかと、スルザはぐしゃりと顔を歪ませた。傷跡が引きつって、顔はうまく動かない。みすぼらしいと吐き捨てられても、それでもかまわないから、どうか教えてくれと命のように請う。
「・・・・楽園なのだから、良いのですよ」
するりと言葉をこぼした男の赤い眼をスルザは眺めた。
恐ろしいと思う。
唄一つで、どんな空さえ見たことをないような景色にさせる男が。
だがそれでも、そばにいてくれと願われる声が、まるでとてつもない誘惑のようなのだ。
「・・・ひよくれんりを、誓ってやる」
「ひよくれんり」
わからなさそうな顔をした男に、ふ、とスルザの口元が緩んだ。笑い方を、さんざん見てきた。それは悪意のものでない。悪意のにじまないものを知らなかったスルザは、自分がリヒトールの顔をまねている自覚はあった。
「お前は、幸いを歌ってくれ」
その空をきれいにする声で、ただ太陽がいやだと変な唄を歌ってほしい。それをそばで聞いていたいと、故郷の言葉で伝えたものの、伝わるはずもない。
だが、声音を読み取った男は、にへらと相好を崩して笑った。
「あがひ」
そういう声が、まるで愛を誓われているようだと、リヒトールは笑う。
それで十分だと笑う男が、その言葉の意味を知るのはもう少し先のこと。
「吾が陽」、というスルザの国の言葉で、意味するところ。
生まれ故郷の言葉で、スルザは知らぬものと言いながらリヒトールをたしかにこう呼ぶ。
私の太陽、と。