@toasdm
焦げたタレの香ばしい匂いをぶら下げて、次郎は事務所の窓を見上げた。駅前でもうもうと煙を上げていた焼き鳥の屋台を見た瞬間に、浮かんだのは彼女の顔だった。
――きっと、今日も遅くまで残ってるんだろうねぇ。プロデューサーちゃんは頑張り屋さんだから。
胸の内で独り言を呟いて、次郎はタンタンと階段を駆け上がった。案の定事務所の中には一人分の気配しかない。そばだてて音を聞いてみたが、カタカタとカチカチ、ふぅ、くらいなもので、話し声はしなかった。お疲れ、とドアを開けて潜って入ると、こちらに背を向けたまま、彼女は黙々と、パソコンに向かっていた。
「こんな真っ暗な中で、目悪く――」
しちゃうでしょ、と言いかけて、次郎は彼女の耳にぶら下がるコードを見つける。あーらら、無防備、と次郎の来訪に全く気付く気配のない彼女の背後で、さてどうしたもんかねぇ、と後ろ頭をがしがしと掻いて、次郎は天井を見上げた。
節電の為か、彼女の上にある電灯だけが煌々と灯っている事務所の中は、彼女の周りだけが僅かに明るく、後は薄暗い。電気でもつけてやろうかと思ったが、邪魔をするのも悪いし驚かせてしまうだろう、と思いとどまる。さりとてこのままというのもどうにも居心地が悪い。やれやれ、と溜め息をついて、次郎はふと、手元に目をやった。
音がわかんないなら、匂いだったらわかるんじゃないの?
驚かせないように気付かせる手段は、たまたま次郎の手元にあった。ガサガサとビニール袋から焼き鳥のパックを取り出して、輪ゴムを外して次郎はふたを開け放った。
「え?」
「おっ、早い早い」
「うわ、え、あの、えっ!?」
漂う香りに思わず振り向いた彼女は、驚いて椅子から落ちそうになる。気をつけて、と手を伸ばした次郎が彼女の手首をぐっと掴んで引き寄せて、へらっと笑っているものだから、彼女は一瞬で混乱の中に落とされる。
「山下さん、え、焼き鳥、いつから、山下さんですよね!?」
「たはは、ごめんねぇ、驚かせちゃって」
焼き鳥も俺もたった今到着したとこ、とパックを彼女のデスクに置いて、お疲れ、と次郎は彼女の頭を撫でてやる。髪の毛崩れるからやめてください、といつものように睨まれたが、次郎には、やめるつもりなど一切なかった。
「遅くまで頑張ってるプロデューサーちゃんにはほい、焼き鳥」
一緒に食べよっか、と脇から小さなスツールを持ち出してきて、次郎は彼女の隣に座った。デスクの上の焼き鳥と次郎とを見比べる彼女は、手を伸ばそうとすらしない。
「あれ、焼き鳥嫌い? レバーとかないよ、全部ねぎま」
もしかしてネギダメだった?と一本手にして、ぱくりと次郎は豪快に、一口で串の半分を頬張った。
「いえ、あの……好き、ですけど」
「そ。じゃあ食べよ、若い子が遠慮しないの。ダイエット中とかじゃないんでしょ?」
ほら冷めちゃう、と促がされて恐る恐る手を伸ばし、彼女も串を頬張った。
「ん、ん……っ!?」
おいしい、と目の煌きと頬の盛り上がりが次郎に告げる。よかった、と二口で串を平らげた次郎は、指についたタレをちゅっと吸い付いて舐め取る。
「……っ」
ただでさえ、彼女は次郎の色気について頭を悩ませがちだというのに、今彼女の目の前で繰り広げられている光景は、どちらかと言わなくても目の毒だった。目線を逸らしてもぐもぐと、ひとつずつ串に刺さった肉を食べ進めながら、彼女はちらりと横目で次郎を見やり、ぼつりと漏らした。
「あの、どうして」
「んー?」
二本目も豪快に食べながら、次郎はゆるい空気を纏わせて返事をする。
「どうしていつも、甘やかしてくれるんですか……?」
「可愛い子は甘やかしちゃうの、おじさんの悪い癖だよねぇ」
たははとまた笑い、次郎はニコニコしながら彼女をじっと見つめている。
「餌付けのつもりでもあるんだけどさ。そろそろ落ちてこない?」
おじさん案外懐深いのよ?とおどけて腕を広げる次郎の胸の中に飛び込む勇気は彼女にはなかった。嫌いだからではない。
「次郎さんより長生きできそうだったら飛び込みますよ」
「あーーー……ほんと、そーゆーとこだよねぇ」
彼女もまた、次郎を真剣に好いていたからだ。さよならは二回目の方が辛いから、とどこか遠い目をして笑う彼女は、もしかしたら、次郎と同じく、辛い別れを知っているのかもしれない。
「だから甘やかしたくなるんだよねぇ……」
呟きは、受け流されることなく受け止められて、投げ返されないままだった。