@toasdm
一つ。夕飯をいつもより早めに済ませたこと。
二つ。今日は二人ともオフで、体力に余裕があったこと。
三つ。冴え冴えと、月が夜空に浮かんでいたこと。
「いい月夜だな」
三つの理由で雨彦は、彼女の手を取って夜に足を踏み出した。たまの散歩も気分転換になっていいぜ、と月を見上げて目を細めて、それから彼女を見る。目を閉じて深呼吸をした彼女の息は白かった。
「寒くないかい?」
「はい」
雨彦さんは?と繋いだ手を軽く握った彼女は、雨彦の目には随分と楽しそうに見えた。
「そうさな……流石に冷えるが、月が綺麗に見えていい」
ぎゅっと握り返した手は指先が冷えているようで、自分の手と一緒に雨彦はそれをコートのポケットにご招待する。反対の手までは温めてやれないが、恋人然としていていいじゃないか、と胸に沸いた愛しさに、雨彦はまた目を細める。夜は今、二人の為にあった。
「北国では雪なんですよね」
「そうだな…………雪の中で眺める月も、きっと綺麗なんだろう」
「ふふ……いつか行ってみたいですね」
自然と寄り添って歩く形になって、歩調はゆっくり、歩幅は小さく。ゆったりとした時間を過ごすには最適な冷え込みだ。軽い運動はいい眠りをもたらす、とポケットの中で指を絡めて、雨彦はぽつりと呟いた。
「雪月花の時、最も君を想う、か」
「?」
「白楽天さ」
雪月花の部分だけはなじみがあったものの、その先については彼女は初めて聞くような顔をする。冷えた月光が照らす雨彦の横顔を見上げながら、彼女は雨彦の話を待った。
「中唐の詩人だな。殷協律に寄すの一説だぜ」
「どんな意味なんですか?」
「雪や月や花、四季折々の美しい景色を見た時に、お前さんの事を最も強く懐かしむ、って意味だな」
立ち止まり、月を見上げて、雨彦は呟いた。
「何年か先の俺も、こうやって月を見上げて」
ポケットの中の小さな手が、大きな手で優しく包まれる。視線を月から彼女に落として、雨彦は笑う。
「今日のこの月と、お前さんのその顔を思い出して懐かしむことがあるかもしれねぇな」
それは、彼女があまり見たことのない雨彦の表情だった。切なげにも見えたし、楽しみにしているようにも見えた。思いが胸につっかえて、言葉にならなくなって、彼女は思わず雨彦の腕にしがみつく。
「はは、どうした?」
寒いかい、と彼女の肩を抱き寄せた雨彦を見上げて、彼女は言う。
「その時は私も、同じ事を思い出します。雨彦さんの隣で、雨彦さんと一緒に」
だから、そんな顔をしないでください――。
言葉にしなかったその思いを、雨彦は上手に掬い上げる。ありがとうな、と彼女の頭を撫でつけて、ぎゅっと抱きしめた体は少し冷えて震えていた。
「なら、月はクリアしたから次は雪と花だな」
いつにする?と尋ねた雨彦は、いつもの、飄々とした雨彦の顔をしていた。今日これからは大変そうですから、と笑った彼女をぎゅっと強く抱きしめてから、雨彦は再び歩き出す。
「どんな月も綺麗だが」
夜の真ん中を寄り添って歩いて、二人は仲良く同じ家に帰る。しんと静まり返った住宅街の夜を照らす月光が、二人の後ろに影を落とした。屋根の反射、窓の反射、停めてある車のミラーの反射。月はあちこちにあったが、月を背景に彼女を見下ろす雨彦には、彼女には見えていないもう一つの月が見えていた。月を映した彼女の瞳をじっと覗きこんで、ほぅ、と白い溜め息をついて雨彦は、愛おしげに彼女の頬を親指で撫でる。
「お前さんの瞳に映った月が、一番綺麗だな」
恥ずかしげもなくそんなことを言わないでください、と撫でられた頬を赤く染めてくしゃみをした彼女を、冷えるとよくねぇな、と雨彦は笑った。散歩を切り上げて部屋に戻った頃には、程よい疲れが寒さの代わりに二人を包む。よく眠れそうだな、と布団に入った二人は身を寄せ合って、心地よい眠りに落ちていく。
夜はまだ、二人の為にあった。