@KLEAM_SAN
【Acia_talam】
空は白か、もしくは青いものだと思っていた。けれども今見上げている空では、赤紫色の雲と、シュガーパウダーのように散りばめられた星々が、見たこともない幻想的な景色を作っている。夜が明ける前の一瞬の空が、世界全てに広がっているようだった。
風は凪いでいて、雲は少なくとも視認出来る速度では動いていない。何の音も聞こえなくて、静かで良いと思えた。目を開けているのに疲れて閉じれば、穏やかな自分の心臓の鼓動が聞こえる。
寝返りを打とうとして、自分の身体が何かに動けなくされていることに気づいた。紐のようなものが全身に絡みついていて、地面に縫い付けられたまま動けない。少しの間格闘したが、すぐに諦めてまた目を閉じた。
とても疲れていた。ここが何処なのか、自分が何者なのか、考えようとも思えなかった。静かで穏やかなこの空の下は、離れなくても良いと思う程度には快適でもあった。
時間を数える術は無かった。自分の呼吸や鼓動を数えるのは、数十までいった所で飽きてしまった。時間について考えるのも億劫なくらい、疲れていたのかもしれない。
どれだけの間、永遠の夜明け前の下で憩っていたのだろうか。静けさは、やがて鎧の足音に打ち消された。
「おい、キャメラ。いつまで寝てるつもりだ」
懐かしい声がして、彼女はハッと瞼を上げた。しゃがみ込んでこちらの顔を覗き込む青年の顔は、自分のそれに良く似ている。母譲りの淡い金髪に、父の気配を宿す目元。
「全く、しょうがねぇな」
彼はナイフを取り出すと、キャメラの全身を縛り付けていた植物のツルを切り離していった。それでもまだぽんやりとしていると、白皙の眉間に深い皺が寄る。
「おらっ、起きろ。早く帰らねえと心配かけるだろ」
「……兄さん?」
「何だよ、オバケでも見たような顔してさ」
「……お父さんと、お母さんは?」
「あっちで待ってるよ、心配してたんだぜ?」
兄が差し出した手を借りて、キャメラはやっと立ち上がることが出来た。まだ回らない頭のまま、きょろきょろと辺りを見回す。
そこは、どこまでも広がる草原だった。遥か地平線の果てまで続く緑。柔らかな芝生は、裸足の足でも歩くのに苦でなかった。こんな光景、パスタリアでもエナの周辺でも見たことがない。
「こっちだ」
ヴァニスに手を引かれるまま、キャメラはえっちらおっちら歩き出す。草原の中に目印になるものなんて何もないのに、彼の歩みは迷いなかった。
いつだって兄はそうだった。入り組んだ路地裏を駆け回って、何処から来たかわからなくなってしまっても、彼はキャメラの手を引いて迷いなく歩くのだ。そして、彼の歩む道はいつも正解である。
自分より歩幅の広い兄と手を繋いでいると、キャメラは半分引き摺られているように歩くことになる。それも何だか懐かしくて、泣きそうな気分になってしまった。
「……怒ってないの?」
「は? 何がだよ」
「私のこと……」
「あー? あー……思うところが無えわけじゃねえが、今はそれよりも父さんと母さんだろ」
「……ごめんね、兄さん」
「あーやまんなって。お前はよくやったよ」
歩いているうちに涙が止まらなくなって、やがて彼女は歩けなくなってしまった。ヴァニスは面倒臭そうに足を止め、こちらを振り返る。
「泣くなよ……また俺が泣かせたって思われるだろ」
「……私、もういいの?」
「あー……良いだろ。十分やっただろうが。ほら、母さんがミネストローネとか用意してくれてるぞ、早く行こうぜ。俺も腹減った」
「ケーキもある?」
「父さんが気合入れて人気の店に並んでたぞ」
そう言ってヴァニスが笑いかけるが、それでもキャメラは進むことが出来なかった。いつの間にか、ヴァニスの進もうとしていた先に、深く広い地割れと大きな橋が見えていた。
「……まだ、そっちには行けないの」
「は〜? もう良いんだよ、それ以上死ぬような思いしなくても」
「でも、私はまだ生きているから」
「死にかけただろうが」
「……まだ、謳えるから。そう簡単に手放すのは、もったいないもの」
キャメラは、ヴァニスの手を離した。兄は苦い顔をしながら、こちらを睨みつけてくる。
「あーもう、本当頑固になったなお前!」
「うん。ごめんね、兄さん」
「謝んなくていいから、殺される前に死ねよ」
「わかってる」
踵を返す。断崖の逆側の果てには、真っ暗闇が広がっていた。いつの間にか、冷たい風が吹き始めている。崖の向こうの温かさが後ろ髪を引いたけど、彼女は振り返らなかった。
「またね。多分、そう長くはかからないから、待っててね」
「長くなっても良いから、ちゃんと来いよ」
「うん」
風の冷たさが肺を裂く。広がる暗闇へ、恐怖を押し殺して駆け出す。そうしていると、だんだん天地の感覚が曖昧になっていって──。
キャメラは目を覚ました。薄暗い知らない天井と、吊り下げられた点滴の数々に、彼女は自分が入院していることを理解する。息をするのも辛いくらいに喉が痛くて、思わず顔をしかめた。
(……私、倒れた、のか)
軌道車に揺られてエナまで帰り着き、いち早く御子イリューシャの元に向かったアレクセイの姿を、カナタと共に見送って、安心して──その後から、記憶がふつりと途切れている。何か、手放しがたい夢を見ていた気もするが、もう思い出せなくなっていた。
多分、かなりの重症だったのだろう。首筋に点滴用のカテーテルが留置されていることから、一朝一夕の入院ではないはずだ。ナースコールを探して視線を巡らせるが、見つける前に眠気が来る。多分、鎮痛剤か何かがまだ効いているのだろう。
(みんな……無事なのかな……)
少なくとも、カナタとアレクセイが無事なのは確かだが、他の同僚はどうか。うう、と小さく呻きながら、彼女は夢の無い眠りへ落ちていった。