@toasdm
バレンタインに浮かれるのは若い連中ばかりだと思っていた雨彦にとって、今朝の自分のにやけ顔はどうにも居心地が悪かった。顔を洗い、洗面台で水を滴らせた自分の表情は、さながら下足箱の中身を期待する学生のそれだった。
海外じゃ男が女に花束を贈ったりするらしいじゃねぇか、と期待を上書きしてみるものの、雨彦は完全に「貰う側」の気持ちでいる自分を払拭できなかった。もちろんそれは、常日頃、ファンから手紙や贈り物を貰っているからというのもあったが、今日は、そういう贈り物とは別に、特別に思う誰かから、特別に思っていますという証を貰えるかもしれない、という期待が大きすぎたのだ。
「……シャキっとしろよ」
鏡の中の自分にそう語りかけて、雨彦は顔を拭いて身支度を整える。
「ま、こんなもんだろう」
車の中の独り言にすら浮つく自分を自覚して、雨彦は本日何度目になるかわからない自嘲に顔を覆った。後ろへ撫で付けた髪の毛はいつもと変わらない、顔付きも、普段どおり。大丈夫だ、俺はいつもどおりさ、と自分に言い聞かせている雨彦の頭の中は、すっかり先週の日曜日から今日の日のことでいっぱいになっていたのだ。
ショッピングモールで彼女を見かけた。プロデューサー、と声をかけようと思ったところで、彼女の買い物の内容に気付き、思わず雨彦はサッと身を隠したのだ。何をしているんだ俺は、と思わなくもなかったが、目立つ自分の外見を彼女の目から隠匿するにはそれしかなかった。
特設コーナー、催事場。彼女は、バレンタインの渦の中にいた。
義理チョコという文化は滅びつつある、とニュースで目にしたことはあったが、彼女は義理堅く、毎年所属アイドルや山村に配り歩いているのを雨彦は知っていた。数があってかさばらなくて、特別感はあっても重たくないものを選ぶのも上手だと思った。今年も彼女はそういったものを選んでいるようで、ただそれだけならよかったのだが――どう見ても、ひとつだけ、とびきりの特別が、あるように見えたのだ。
お前さん、そいつは誰にやるんだい?本命チョコってやつなのかい?
気付いた雨彦は胸がざらつくのを感じた。誰が彼女のハートを射止めたのか、もやもやと、気になって仕方がない。しかし。焦燥感にじりついた雨彦の心を宥めたのは、雨彦の記憶だった。
「葛之葉さん、来週木曜は事務所に顔を出しますか?」
彼女は確かに、そう言った。特に顔を出す予定がないアイドルには後日渡す彼女がわざわざ自分に確認してきたということは、もしかしたら。
もしかしたら、もしかするんじゃねぇのかい?
それ以降は駄目だった。彼女のとびきり特別の行方が自分かもしれないという、ともすれば思いあがりともいえる期待が、雨彦の内側でぐるぐると暴れた。いやまだわからないぜ?過剰な期待は落差で死ぬ、とそこそこの人生経験で学習している雨彦は、表向きは平然を装ったが、内心気が気ではなかった。そして迎えた当日。雨彦は、レッスンの前に事務所に顔を出すと彼女に予め言っておいた。
「お疲れさん」
「あ、葛之葉さん、お疲れ様です」
「…………プロ、デューサーは?」
「葛之葉さんのことなのかな……? 屋上で人を待ってるって言ってましたけど」
「へぇ……そうかい、じゃあ行ってみるか」
屋上への階段を登る足取りが重く遅かったのは、山村が先ほど食べていたチョコレートが、彼女の買った、たったひとつのとびきり特別だったからに他ならない。よりによって山村かい、と落胆する雨彦は、この際義理でもいただいておくか、としょぼくれたまま屋上へと向かった。
「え、葛之葉さん……」
ちょうど良かった、と顔に書いてあるように見えるのも、どうせ自分の期待の色眼鏡だろうと自嘲しながら、雨彦はお疲れさん、と返事をする。
「あの……つかぬことをお伺いしますが」
もじもじと、視線が定まらないのは学生のそれで、期待するな、と自身を宥める雨彦も、人生を半分ほど遡ったような感覚で背筋を伸ばして言葉を待つ。
「…………葛之葉さんは、手作りは苦手でしょうか?」
待ってくれ、お前さん、今そういうのはちとマズい。
正直な気持ちはそれだったが、もう何も、雨彦の期待を邪魔することはできなくなっていたし、恐らくは、それはただの自意識過剰な期待ではないだろうという確信があった。その確信を礎に、雨彦は、彼女が用意しているであろう「一番のとびきり特別」をいただくために、返事をした。
「そうさな……好いた女の手作りなら、大歓迎さ」