@niziirononanika
聖智学園日誌
■/■■ (■) 晴れ
日直:栗見 手句涅
今日は学園の正門横の花壇でノマドさんを見ました。日向ぼっこをしていたみたいで、気持ち良さそうに寝ていました。
警備員さんが、勝手に出入りするから防犯にならないと困っていました。でもノマドさんは、僕たちが、ノマドさんはなにもしないって思っていたら何もしないままでいてくれるので大丈夫だと思います。
取り調べ記録
■■/■/■■ ■■:■■頃 ■■市■■町■■■■内で女性が暴行を受けているとの通報があった。
被害者は■■大学の■■■で、■■に当たる■■氏と、その知人■人を暴行の現行犯で逮捕。同じく現場にいた哲学人を事件に関与している可能性があるとして連行した。
哲学人名「ノマド」
20代男性の外見。哲学人。他者に影響を与える能力なし。当事件の通報者であり、現場の室内にあった固定電話からの通報であった。
※これらは全て彼自身の供述であり、真実でない可能性に注意。
捜査官「同行ありがとうございます。それで、現場の状況と、あのとき貴方が何をしていたのかを教えてくれませんか」
ノマド「何をって言われてもね……ええと、見ての通り一応私は哲学人でね。各地を旅して、その土地の価値観を集めているんだ。あそこにいたのはその一貫だよ」
捜査官「価値観、ですか」
ノマド「うん。彼らは女性を劣ったものとして見ていた。だから実行した。暴行を忌むべき犯罪だと認識していた。だから隠蔽した。バレなければいいと思っていた。だからバラした。倫理観はあったからね」
捜査官「貴方は初めからあの部屋に居たんですか?」
ノマド「全ての場所に紛れることができるんだ。人数が多いほど、そして顔見知りが少ないほど。あの時初めて顔を合わせたみたいだよ、■■さんを除いて」
捜査官「■■■さんも一緒に?」
ノマド「ううん。彼女は後から呼び出されたんだよ。その後何をされたかはもう知ってるよね?」
捜査官「ええ。それで、貴方は……彼らを止められなかったんですね?」
ノマド「できない。その時の彼らには罪悪感も何もなかったし、したくないとは感じていないようだったから。だから私も、したくないとは感じない」
捜査官「……そうですか」
ノマド「不満かい? でも今回はまだいいよ。一番悲惨だと言うのは、それを犯罪だと誰も認識していないときなんだ。その時、何も妨害されることはない。だってそれは、悪ではないんだから」
捜査官「質問なのですが、彼らは貴方のことも共犯であると言っています。貴方は通報するまでの間、どのように行動していたんですか?」
ノマド「あぁ……うん。何してたっけ。まあ、犯してはないよ。手伝ったのは事実だから、共犯なのも正解」
捜査官「……失礼ですが、哲学人ですよね? 性別は?」
ノマド「なにも失礼じゃない。ええと、私は男だよ、今はね。一応それらしく作ってる。君の価値観において、私は男であるべきだ」
捜査官「そんなことはありません」
ノマド「そんなことあるじゃないか。植物は女性的なものだから、植物であるあの哲学人は女性である。哲学は男性が論じるものだから、哲学人もまた男性である。研究所において私は女性だった」
捜査官「……ええと。研究所に所属していたことが?」
ノマド「うん。■■大学の。あそこは大きなところだね」
捜査官「後で記録を取り寄せます。それで貴方の性質がわかれば対応も決まるでしょう。今日の外出や、事件のことを研究所に連絡は……」
ノマド「してないよ。だって私は脱走してきたんだから!」
捜査官「なるほど?」
ノマド「ああ、待って待って! うん……哲学人は研究所か刑務所で保管されるべきだ。わかる。そうだね。私もここよりは研究所の方がいい」
捜査官「助かります」
ノマド「それにね、あまり、男としては存在したくないんだよ」
捜査官「それは……」
ノマド「だって私は根だよ? 男根になるじゃないか!」
捜査官「……研究所の者に迎えを頼みますね。待っていてください」
当哲学人に他者を扇動する能力はないと判断され、研究所への返送が確定した。
■■/■/■■ ■:■■頃 ■■市■■町で発生した反哲学人組織による暴動鎮圧後、捕らえた構成員の一人が哲学人であった為事情聴取を行った。
哲学人名「ノマド」
床一面に広がる中心部不明の木の根(連行時は成人女性の姿であった)。対話可能。他者に影響を与える能力なし。
以前の婦女暴行事件の通報者と同一人物。
※これらは全て彼自身の供述であり、真実でない可能性に注意。
捜査官「応じてくれてありがとう。早速だけど、哲学人である貴方が何故反哲学人組織に居たのか教えてくれる?」
ノマド「うん、いいよー……ただちょっと疲れててね、こんな姿で申し訳ない。話しにくいだろう?」
捜査官「まあ、確かに。でも会話できるなら問題ないから」
ノマド「そんなこと言って、森の妖精みたいな美少女とかになってほしいだろ?」
捜査官「そう言われたら否定できないなぁ」
ノマド「あはは! 素直だね」
捜査官「どーも。その姿が本来のものなの?」
ノマド「そうそう。いつも以上に気合い入れて人の姿してたらさ、疲れちゃって。だって人の姿ってツリー的だから……」
捜査官「そこまでして、何で反哲学人組織に入ったの?」
ノマド「面白い価値観だったからさ! 哲学人信仰のところばかり見に行ってたからね、逆の土地も触れたくなるのさ」
捜査官「へぇ」
ノマド「彼らの考え方も面白い! 哲学人の存在理由など、私達でさえ見付けていないというのに!」
捜査官「君は哲学人を一人攻撃したね?」
ノマド「生きてるかい?」
捜査官「あの哲学人のこと? 生きてるよ」
ノマド「それは残念。でも喜ばしい。あとで謝りに行くとしよう」
捜査官「……君自身の意見としては、どっち?」
ノマド「私の意見? 明確なものは無いよ」
捜査官「無いの?」
ノマド「んー……あらゆるところに行って、色んな価値を知り、回りに流したい。そんな意思はあるかな。そしてどの意見も価値観も素晴らしいものだ。どちらにも染まる」
捜査官「取締課に居るときは?」
ノマド「大人しいだろう?」
捜査官「研究所での君は?」
ノマド「比較的従順な筈だ」
研究所へ返送した。
現在行方不明。事件に関与している可能性は低いが、不審な点も多い。注意するように。
実践される誘智教団
名称:ノマド
概要:植物性哲学人。体重60kg前後(水分量により大きく変動する。また、意図的に根を切ることにより小型化することも可能)。木の根が複雑に絡まりあった形状をしており、中心部は不明。
他者の思想複写、その応用による思考と記憶の入手を能力とする。
人間へ影響のある能力は持たないか、使用を拒んでいるかのどちらかである。おそらく前者。
細胞の構造上、生体移植には不向き。生殖能力なし。
評価:毒にも薬にもならない。
記録
調理法:採取した根一本を輪切りにし、圧力鍋で20分五時間煮込む。
結果:噛みきれない。
コメント:どうしてチャレンジしたのかな?―■■■■■
調理法:乾燥させ、粉末状にした根に醤油をかけて白米に乗せる。
結果:そもそも木は食べられない。
コメント:
日本人はごぼうを食べるじゃないか!―■■
ごぼうは木の根ではないよ。―■■■■■
ちょっとおかかみたいで美味しそうなのがむかつく―■■
調理法:髪、眼球、舌等の比較的柔らかいと推測される部位を模倣している組織を摘出し、柔らかく煮込む。
結果:太さの違いはあるが、どの部位も固さはほぼ同じである。
コメント:
諦めたらどうかな?―■■■■■
せめて芽が出れば……―■■
芽が出たらツリーになるじゃないか!―■■■
■■■■/■■/■ 逃亡。
追う必要はないが、再出現した場合は■■氏へ連絡すること。
呈する恵智の会 哲学資料
ノマド様
■■年■月■■日 集会に集まった信者の一人として参加していたところを■■■様が発見、壇上へ迎えました。
特筆すべきは、注視すれば哲学人とわかる容姿であるというのに誰一人気付かず、集会での立ち振舞いを一つの間違いなく遂行し、解散直前まで部外者であると思われなかったことです。
その後、自身の身分を明かされたノマド様は、一時的なものと予め断られた上で、呈する恵智の会への滞在を申請されました。
ログ:多種多様な土地から得た智を我々にもたらしてくださいます。―■■■■/■/■
ノマド様のお話により、我々はより多角的な視点を持つことができました。心のどこかにあった、智の恩恵を拒む者達への諦めが消え、彼らもまた我々と同じく恩恵を得る資格を持つ人間であると再確認し、彼らに智を恵む強い意志が開花しました。―■■■■/■/■
人間から思想を得ることはあっても、人間へ思想を植え付ける能力はないらしい。使い道は少ない。―■■■■/■/■
一時的に組織内の士気は上がるが、他への興味を持たれても困る。他の価値観に触れさせるのはいかがなものか。―■■■■/■/■
密偵としてはこれ以上ない体質だが、心変わりすると決まりきっているのではな。―■■■■/■/■
奴は内部まで入り込みすぎる。下手に手を出さない方が無難では。―■■■■/■/■
ちくわ大明神―■■■■/■/■
こちらの思想に染まっている今のうちならば、好きなようにできるだろう。―■■■■/■/■
誰だ今の。―■■■■/■/■
■■■■/■/■より行方不定。
私たちの哲学人様を取り戻せ!!!
求叡智派 ■■宗■■■社 来門記録
■■年■月■■日
・ノマド
自由と多様性を尊ぶ哲学。
此の方は知らぬ間に庭に埋まっていたとの報告により発見される。少なくとも半日は気付かれずにいたようだ。
大層な話好きの性分であるらしく、掘り起こす前よりこちらとの対話を望まれ、土で汚れた身を洗い流す間も口が休まることはなかった。
此の方が語る内容は今までの旅の物語であり、他の国、宗派、教え等多岐に渡り、到底受け入れられるものではない風習にまで及んでいた。我々がそれについて苦言を呈すると、此の方は困惑したようにはにかむのであった。
此の方は自ら進んで我々の仕事の手伝いを行った。客人の手を煩わせる訳にはいかないと一度は断ったが、此の方は引かず、瞬く間に我々に馴染んでみせた。
多様な思想を語った此の方がまだ若い者達と交流することに、情けないことに私は不安を懐いていたのだが、此の方は始めに語ったような旅の物語以外で我々の思想を歪めることも染めることもせず、むしろ自らが染まることで尊重を示して見せたのだ。此の方は我々とは相反する思想すら嬉々として語れるというのに。
その懐の広さに我々は感服し、我々の導である哲学その奥深さに更なる畏敬を懐いた。
此の方から学ぶこと。
・他の理を知るべし
・視野を広く持つべし
・未知を受け入れるべし
・探求心を持つべし
・己と異なる者へ敬意を忘れず、尊重すべし
流浪の哲学人様の来訪に立ち会えたことを我々は誇りに思う。
真愛智教 ■■■教会 宣哲典―許容の章
『ノマド』
分類
D-12/No.4&Me← 人型 無性
Class-Arkhe
発見者―ジル・ドゥルーズ様
御言葉
「私の旅の話を聞いてくれないかい? 地面あるところならばどこにでも行けるのさ、私には足があるのだから!」
「私達を愛し、受け入れる。君達の存在はとてもありがたいよ。人間の智を越えた哲学人は危険な存在であるから、排除しようという動きもある。そこでの話をしようか」
「君の価値観も興味深い。良いことを学ばせてもらったよ、ありがとう」
「私はこうして言葉として君達に色々話すだろう? そしてその言葉を文字に起こす。哲学人の言葉は人間へ施される知の恵みであるため何より尊い、だとしてもね? では模造品は尊くないのだろうか? 価値に上下があると思うかい? ……私の言葉が、他者の言葉の模造であればどうだろうか?」
解釈
・我々には生まれつき様々な機能が備わっています。それを使う意思があってこそ、それらは力を発揮するのです。
・意思、そして想像に制限はありません。すなわち、それらにより動く我々の機能にも制限はありません。
・世の中には智を拒む者もいます。けれど、智は彼らを拒みません。
・智は我々に恵みを与えると同時に、我々からも僅かながら学を与える光栄を許してくださります。
・物事には全て価値があります。世に広げなければならない大きな価値を持つ智も、我々が持つ小さな学も、どちらも尊いものです。智もまた学ぶことを尊ばれます。我々は、自身の学もまた尊び、慮るべきです。
■■年■■月、ノマド様は再びお隠れになりました。
自由を愛する心は、留まることを望みません。全ての出会いは奇跡であるのですから、礼儀をもってその幸運に応えましょう。もう一度ノマド様と出会える時を心より願います。
■■大学附置哲学人研究所作成資料
名称:ノマド
能力:認識範囲内の人間が持つ思想、価値観の取り込み。
株分けによる意識と記憶をコピーした増殖。(緊急時のみ発動し、増殖後片方は枯れる)
形態変化。
解説:彼女は絡まり合い人型となった植物の根です。未知の手段により外見の色素を変化させ、人間の皮膚、髪、衣装等に見せています。
好奇心旺盛な性格であり、様々なものに興味を持ち接触しては瞬時に文化・風習に馴染みます。そして様々な国、土地、組織に所属し、人間、哲学人問わず友好的に話しかけ、その場にいる者に対話による価値観の譲渡を好みます。これは特殊な能力を用いるのではなく、彼女の旅の道中の思い出話として一般的な会話で行われます。
また、同時にその場の価値観の取り込みも行います。これは相手の話を聞くことで行いますが、価値観の入手に言葉は必要ないようで、認識範囲内に居るならば自動的に思想やそれに伴う価値観を知るようです。
傾向として、自由間接話法を多用し、自分の意見と他者の見解を分けずに話します。また、今までの旅で得た知識から多角的な意見を口にしますが、結論を出すことを苦手としています。
寛容のパラドックスの話題は好みません。
拗ねた時、機嫌を損ねた時、疲労時には体を構成する根を解し、地面に大きく広がります。
食事の消化はできませんが、地中の水分と栄養によって生命維持をしています。光合成は不可能です。栄養剤を食す(体のどこかに挿す)ことは彼女にとって報酬になります。
※長時間の拘束は強いストレスを与え、いくつかの精神衛生上の問題を浮上させます。特に、24時間以上同じ室内に留めることは彼女の攻撃性を誘発させる為推奨されません。
閉じ込めの結果、自壊により活動を停止した場合、以前彼女が活動していた土地に、当時までの記憶を保持した個体が出現します。
対応:主に亜熱帯植物用収容室で生活。研究所内での行動制限なし。彼女の話は他の哲学人の興味を引き、外への好奇心と脱走への意欲を呼び起こす可能性があるため、行動制限のある人物との雑談は推奨されません。
発見経緯: ■■■■/■/■ 早朝、当研究所玄関前の地面に首から下が埋まっていた状態で警備員に発見される。
■■■■/■/■の脱走事件より所在不明。性質上拘束は不可能だが、発見次第報告し、探査機の設置を促すこと!
「ここで動きが一つ――背景に甘んじていた者が身を起こした。体につく土を払い、暖かな日差しに目を細め、眠気を飛ばすため伸びをする。さて――登場人物となった者の目的はなんだろうか?」
「ふむ……様々な土地を見て回った。他方から見れば幸福で、他方から見れば凄惨な、様々な土地を。全ての土地は等しく尊く、同時に愚かだ。上下がないのだから当然だね」
「そして?」
「まだ満足していない。まだ全ての土地を見ていない。今は哲学人の作る土地、そこに住む人々の価値観により定義された、幸福そのものに興味がある。眺めるのではなく、混じって感じてきてもいいかい?」
「あの都市の中の価値観は――幸福についての価値観は、私は関与しない。なので、何もいうことはないが――聞きたいのはそういうことだろうか? 違うだろうか。」
「間違いない。許可だけ欲しかったんだ。君は一次元ずれた視点でここにいるから、君の価値観は見えにくいものでね。外から幸福を持ち込む乱入者を嫌悪しているならば、私は遠慮しておこうかと思ったが……」
「様々な価値観を集め、噛み砕き、教えてくれる――その力はとても『作家』として欲しいと思うものだ。」
「はは、正反対は一周回って似た者同士なのさ。特性上、ここの役者には成れないのだからね」
「しかし立ち上がり、あの人々と交わると言う。」
「エキストラ――君の場合はモブと言うべきかな。梢の一つと思ってくれ。私は根だが」
「もう一人の観測者、ではどうだろうか。」
「ああそれかっこいい! そうしておこう。君があれに手をつけないでいてくれたことを感謝するよ。そして、君の書く物語に参加する機会を与えてくれたことを」
「幸せを一つにまとめるなど、無理なことだ。――そして、そんなことをしては、私がここにいる意味もない。できるだけ自然な形で、『哲学』を現実にあらわす。それが役目なのだから。」
「やはり君は素晴らしい人だ。せめてもの礼として、物語を加速させよう! 事態を進展させるのはいつだって追い風だ!」
「加速?」
「私は私の価値観を持たない故に誰も裁けない――決めるのは人間達だからさ。だから、私に決定の意志はなく、エンディングは書けない。故に、加速」
「ふむ。」
「罪悪と幸福の天秤がどちらに傾くかじっと待っている人達へ、天秤の錆び取りをしに行くとも言える」
「なるほど、これまでさまざまな哲学人たちが物語を手伝ってきたが、それは初めてのことだ。――その加速した先を記してみたい。」
「そう言ってもらえるだろうと思っていたんだ。君は誇り高き哲学人だからね!」
オメラスから歩み去る人々 ■■章■■■■話
(前略)
――先に言った通りの条件が、この■■■■■園にも当てはまる。
園内は幸せに満ちている。朝が来れば目覚ましの音と小鳥のさえずりが寝室に響き、暖かな眠りについていた子供達は、柔らかく自身を包む毛布から自らの意志で這い出すだろう。年少の少年は眠たい目を擦りながら廊下を歩き、途中で出会った血の繋がらない兄に笑顔で挨拶を送る。優しく寝癖を整えてもらい、二人で並んで顔を洗いにいく。
食堂には朝食のパンとベーコンが焼ける香りが広がっている。早起きをした年長の子供達が、母と慕う職員の手伝いとして皿を運び、時折つまみ食いをしては叱られ、笑い合うのだ。
食後には外に出てボール遊びを始める子達がいる。いつしかボールの投げ合いは追いかけっこに変わり、離れたところでままごと等をしていた兄弟を巻き込んでいく。つい最近入ったばかりの新人の手を引っ張り、楽しさを惜しみ無く共有する。
暖かな陽射しと満腹感から、窓辺で眠る子もいる。騒いでいた子らが外から声をかけようとするも、心地よく微笑む寝顔を見ると口を閉ざし、その眠りを快く見守るのだ。
将来の夢を追いかけ、部屋で勉強を始める子もいる。知らぬものを理解し、出来ぬことが可能になっていく快感に彼らは没頭していた。当然、その喜びを邪魔する者はいない。
彼らを守る職員達もまた、誰一人問題のない、変わらない日々を微笑みと共に日誌に綴る。
信じがたいかもしれないがこの場所に住む子供達は皆、一度は帰る場所を失った者だ。しかしかつての出来事を記憶の奥底に仕舞い込み新しい大勢の家族と笑いあっている。いやむしろ、この幸福を得るためにかつての住み処を出たのだとすら思っている。
喜ばしいことだと思うだろうか。このまま平穏が続くべきだと思うだろうか。辛く悲しい現実から目を背けているだけと叱責するだろうか。信じられないだろうか。
忘れないでいただきたい。ここはオメラスである。
■■■■■園の片隅には物置がある。グラウンドの整備に使う草刈り機や、白線を引く石灰などがぎゅうぎゅうに押し込まれている。これらは今は使われていなかった。汚れていて使えないのだ。
物置には痩せ細った子供がいた。身に付ける衣服は数年前にこの物置に連れてこられた時のもので、酷く擦りきれ、代謝物により汚れている。当然その汚れに長期間触れている肌も赤く爛れ、膿と汁を垂らして布を湿らせては皮膚と密着させていた。床を埋める汚物と触れている足や臀部はより顕著に、深い傷となっていた。
体勢を変えようにも、空間を埋めるように積まれた荷物が邪魔で子供は満足に動けない。隙間に滑り込み上手く体を動かせたとしても、僅かでも振動を与えてしまえば、子供の遥か頭上に積まれているなにやら重そうな機材が不安定に揺らぐ。それは今にもこの子を頭から潰してしまいそうに見えた。少なくともこの子はそう思っている。この子供の左目は、一度落ちてきた荷物に強く打ち付けられ失明しているのだ。
痛みや痒みから逃れようと体重を移動させるだけでも、怯えながら頭上を凝視している。恐怖から来る震えすらも振動として伝わるため、子供は必死に息を殺していた。
この子供の食事は日に二度、側にある窓から投げ入れられる。それは皆の父である園長の役割であった。
窓が開き、光が射す度にこの子供は声をあげる。食事が投げ入れられるほんの数秒の間だけ、この子は頭上の恐怖を忘れ喉が裂けるほどに叫ぶ。
「ここから出して!」と。
そしてそれは毎日、多種多様な嫌悪に満ちた眼差しにより拒絶される。
この事実を知っているのは、職員の全てと、年長の子供たちだけである。
繰り返すことになるが、この子供の存在、処遇、苦痛によって、オメラスの幸福は約束されている。
ほんの二、三日前、施設にやって来た新入りがいる。この子供は物置のことを伝えてもいい年齢で、職員達はその時がいつ来るのかと身構えていた。
少年が解放されればこの施設の幸福は消える。もし、多感な子供が拒絶し、少年を救い出すと決断したならばこの土地に住む他の子供達は死に等しい苦痛の日々に戻ることになる。この中には、まだこの事実を知らない幼子すら含まれているのだ。
そのようなことはあってはならない。職員達は皆こう考えている。「ここにいる子供達を健やかに育てるのが私達の仕事なのだ。これは何も知らない子供たちのためなのだ……」と。そしてそれは事実であった。
新入りは掴み所のない子であった。大人びた眼差しで職員らと対話したかと思えば、誰より無邪気に子供達とはしゃぎまわる。誰とでも対等で、誰とでも同じ目線で語る。賢い子であるように見えた。
ある日新入りは、とある職員に言った。
「子供には本当に判断能力がないのだろうか」
声をかけられた職員は、誠意に溢れた男であった。子供を弱者と見下さず、対等に生きる命として扱う者だった。
彼は常々考えていた。なにも知らない子供がなにも知らないままに不幸の報復を受けるのは、理不尽である。ではなにも知らない子供でなければいいのか? しかしあれを知ったその上で自分のすべき行いを選べる年齢というものは存在し、それ以下の者は正しい判断を下せないだろうと、周りは言う。だが正しい判断とはなんだ? それは周りに被害を加えない、都合のよい判断をしてくれる子供にしか教えたくないだけでは?
新入りの言葉を聞いた時、彼は目が覚める思いだった。心の中に渦巻く葛藤が消え、己の答えを導き出せたのだ。
彼はその場にいる年長の子供たちに声をかけると、一度立ち去り、外で遊ぶ年少の子らへと言葉をかける。「今から大切なことを教えよう。とても苦しく、悲しいことかもしれないけど、皆は賢いから、きっとわかってくれると思う」と。
彼は集めた子供達を引き連れ、物置小屋へと向かった。その途中で呟く。「これが何も知らない子供たちのためなのならば、彼らを無理矢理に【何も知らない子供】にしているのは誰だろうか……」
新入りの子供は、部屋に残された子供の一人に声をかけた。
「無知なままでいいのだろうか。平等に、公平に、妹たちにも真実を知らせるべきなんじゃないか?」
声をかけられた子供は、年の離れた実の妹と共に■■■■■園に入園している経歴を持っている。彼女は、何もかもを分かち合い、理解しあってきた自分の半身とも言える妹に、唯一隠さなければならないと言われたことがある。物置小屋のことだ。彼女はずっとそのことを悩んでいた。自分の心と、親代わりの人々からの言い付けとの間で板挟みになっていたのだ。それが今、揺らぐ。
子供は思い立ち、部屋を飛び出した。
新入りはまた別の子供達一人一人へ、次々に話しかける。
「彼らはきっと、忌々しいあの存在を皆に伝えようとするだろう。止めるべきだ。私達は二度とあの家に戻りたくはないのだから」
聞いた子らの何名かは弾かれたように飛び出し、先程の二人を追いかける。それを止めるために、更に数人が駆け出す。
不振に思ってやってきた、また別の職員へ、新入りは言った。
「大人は子供を守るべきだろう?」
ああ、ここは注釈が必要となるだろう。この声に責める意図はない。そして、この言葉を聞いた彼女ですら、そのように思っていない。新入りの子供は事実を述べただけであり、彼女もただ常識を改めて言われただけと認識している。そこに何の齟齬はなく、また、一欠片のやましさもない。
空が青いだろう。風は心地良いだろう。ここは幸福であるだろう。大人は子供を守るべきである。
「そうね」と、彼女は微笑んだ。
新入りの子供は満足げに笑い返し、足を進めた。
新入りの子供は施設内を歩きながら、出会う人々に声をかける。
庭で生まれた騒ぎに気付いて駆ける職員へ。
「最大多数の最大幸福を得るには、今の状況が最善だ。変化など害悪でしかない」
泣き出した年長者へ。
「もしも君が何かしらの行動を起こせば、それは、君が他者を不幸にした、ということになる。そんなつもりはないのに」
眠りから覚めた年少者へ。
「君はなにも悪くない。気に病む必要はない」
職員へ。
「貴方達は何も知らずにやって来た一般人じゃないか。こんな責任を負えるものか! 責められる謂われもない」
子供へ。
「わからないままでいることが一番幸せなんだ。なにも知らないでいればなにも責められないで済む。馬鹿なままなら怒られるだけで済む。悩まないで済むなら痛みは感じないで済む」
子供へ。
「本当は知りたいんだ。知らないことがあるというのなら知らずには居たくないんだ何故ならばこの世にある全ては私が知る前に何らかの形で他の誰かが知っているのだからそんなのずるいじゃないか」
子供へ。
「衝動のままに進めばいい。自分の意思で。自分だけの思いで」
子供へ。
「皆がしていることだから、やらなければならない。周りに合わせることこそが美徳だ」
人へ。
「幸福を享受するために人は生まれたのだ。人は幸福でならなければならない。人は幸福でいなければならない。しかし、あれも人であるならば」
人へ。
「平等など無いのだ」
新入りの足は園長室へ向かっていた。ノックをして、扉を開け、そこで待つ皆の父が俯く姿に、子供はここに来るまでに行ったように声をかける。
「こんなことになるだなんて思っていなかったんだ。こんなことなら、わかっていたなら――」
「君も、哲学人か」
父は言う。新入りは少し困ったように笑い、はにかみ、そして頷いた。
朝になった。
園内にはただ二人を除いて、誰も残っていなかった。それぞれが、かつて他のオメラスでもそうであったように、それぞれの思いにより、それぞれの考えにより、立ち去ることを選んだ故だ。決して共謀したわけもなく、偶然にも同時に、その選択をする時を昨日の夜としただけだった。
昼間に起きた騒ぎは細やかなものであったし、その後の夕食は穏やかなものであったし、夜中にひっそりと■■■■■園を抜け出した人々の大半は自分一人だけが逃げているのだと思っていた程だ。
残ったのは新入りである子供と、物置小屋にてオメラスを維持し続ける子供だけであった。
新入りの子供は、オメラスを作り上げている子供の前に立っていた。
当然、声をかける。
「君は苦痛に飽きているね」
全身を絶え間なく襲う疼痛、悪臭、寒気、空腹、恐怖、それらの中にありながら、子供は新入りの声を静かに聞いている。言葉を理解できるほどにまともな意識を持てていなかった筈ではあるその子だったが、今この瞬間だけは別である。
今、子供は救われようとしている。
「痛くないように。苦しくないように。怖くないように。寒くないように。乾かないように……なにも求めないから、ただ、今ある全てを拒絶し消し去りたい。幸福など一欠片も求めない」
新入りの子供は言いながら、溜まった汚物と腐敗した食物、埃、虫の死骸で埋まった床の上に跪く。汚れなど何一つ気にならなかった。目の前にいる始まりの一人は、この環境で育ち、嫌悪などとうに忘れているのだから。オメラス最後の一人はそれに合わせ、目線の高さも合わせ、手を差し伸べる。
「その価値観を尊重しよう」
こうして、不幸な一人は救われた。
それでは、終わりの話をしよう。
不幸な一人が救われたその時点において、この地におり、その幸福の恩恵を得ていたのはたった一人だった。当然、契約を破った反動は、その一人へ降りかかることになる。
頭上から降ってきた積み荷により新入りは潰され息絶えた。それが、このオメラスの終わりであった。
――さて。立ち去ることが正解であっただろうか。幸福を維持し続けることが正解であっただろうか。この結末こそが正解であっただろうか。答えは本当にあるのだろうか?
それらの回答が見付かるのは、まだまだ先の話となるのだろう。物語は更に続く――
オメラスから歩み去る人々 ■■章■■■■話 完