@toasdm
ダイエットを促すようにぐしゃっと潰れて、見るも無残になってしまった踏み台をすぐに買いなおさなかったことを後悔しながら、彼女はうんと手を伸ばしている。だから百均はダメなのよ、とひしゃげてしまった踏み台の最期の姿を思い出して八つ当たりをしてみたところで、彼女の指はあと一歩届かない。無駄に背の高い同居人をこんなことで呼ぶのも気が引けたし、どうせいつものように、お前さんは小さいな、とからかっておちょくってくるに違いないのだ。本さえ読めればそれでいい、お行儀悪く本棚によじ登ってやろうか、と半ば自棄気味になったところで、雨彦が気付いて彼女の後ろにスッと立つ。
「こいつでいいのかい?」
「う……」
そう、ですと言葉にやや詰まりながら言うのがおかしかったのか、雨彦はいつもよりもニヤニヤと笑い、彼女の頭上遥か高くで彼女の取ろうとしていた本を振る。
「雨彦さん、本……」
「へぇ……お前さん、こんなの読むのかい?」
「何読んだって私の勝手じゃないですか!」
返して、とぴょんぴょん飛びつこうとする彼女の跳躍に合わせて、雨彦はひょい、ひょい、と本を上へと逃げさせる。膨れ面が可愛い、とにまにま見つめながら、雨彦は本をパラパラとめくった。
「…………」
「あの、私の本……」
雨彦さんが読んだって面白くないですよ、と飛びつき疲れた彼女の頭を、雨彦の大きな手がぽんぽんと適当に叩く。確かにそれは、雨彦が普段読まないようなよくある恋愛小説のようだったが、導入部分になにかひっかかりがあったのか、雨彦は本を読みながらソファへと腰を据えてしまう。
「雨彦さん」
「後でな」
邪魔してくれるなよ、と言いたげな手は、次々とページをめくっていく。多少読み辛かったのかリーディンググラスをスッとかけ、開いた両足の腿の上に肘を置いて、これはもう完全に、雨彦は読書モードに入ってしまった。こうなっては仕方がない、と彼女は隣に腰掛ける。
集中というよりは熱中といった横顔は、ただでさえ端整な雨彦の雰囲気に知的な印象をプラスする。時折眼鏡をクイッと上げて、じっと活字を追う様は理知的で、ドキリ、と胸が高鳴った。
しかし。
その本は元々、彼女が読もうと思っていたものであるということと、本を読み始めた雨彦に全く相手にされなくなって、放置されているこの状況は、彼女にとっては面白いものではなかったのだ。むすっ、とした表情を隠そうともしていないにもかかわらず、雨彦は彼女の方をちらりとも見ない。
「雨彦さん……」
「読み終わるまで待ってくれよ」
そうじゃないのに、という不満が、彼女の頭を雨彦の肩にもたれさせる。そこで漸く雨彦も気が付いたのか、ちらりと彼女の表情を見て、なるほどな、と小さく呟いた。
「そんなに読みたいなら、一緒に読むかい?」
「ん、ぅあ、えっ!?」
彼女の肩を抱き寄せたかと思えば、本を持ったまま雨彦は彼女を膝へと抱き上げて乗せる。わたわたと落ち着かない彼女に、本が折れちまう、と苦笑しながらぎゅうっと腕の中に閉じ込めて、まるで子供に絵本の読み聞かせでもするかのように、あっという間に、一瞬で、彼女は雨彦の中にセットされてしまった。
「これじゃ途中から……」
「なら、最初から読み聞かせでもしてやろうか」
待ってこれ恋愛小説、と彼女が気付いたときには、既に遅かった。
「あなたを愛しいと思う気持ちが、縁となって紡がれていく――」
低く艶やかな、絹が滑るような優しい声が、これでもかと愛の言葉を紡ぎだす。次から次へと、情感たっぷりに読み上げていく雨彦の声に、先日のイベントでの朗読を思い出して、ああそういえばこの人こういうの全然得意だったんだ、と実感させられる。
「お前さん」
ページをめくって、雨彦は笑う。
「熱いな」
ぎゅっと抱きしめた彼女の体温は、確かに熱くなっていて、いったい誰のせいですか、と言うこともままならない彼女は、本の内容など全く頭に入ってこない。
黙読する雨彦に抱きしめられたまま、彼女は自分がまたいつものように、まんまとからかわれてしまったことに喜びを感じながらも膝の上でむくれていた。