@ayame0601s
その場所へ、足を踏み入れた瞬間だった。
辺りを照らしていたはずの夕陽は光を失い、視界が急に暗くなる。
突然の事だった。橋を渡ろうと、一歩足を踏み入れたその瞬間。周りは夕暮れ時から一変して、夜の支配へと変わっていた。
何処からともなく、明かりが灯る。ぽつりぽつりと、朱色の明かりが暗闇に浮かび、目の前の橋をぼんやりと照らしあげている。
肌を刺す空気は冷たい。それなのに、風に乗って漂うのは、桜の花びらだった。
こんな、真冬に。違和感を覚えつつ、漂う先へと視線を向ければ、そこには。
一体いつから居たのか、橋の手摺に腰かけている一人の男性が、じっとこちらを眺めていた。
つくもの社
元より、器用であったり要領がいいわけではなかった。
何か、秀でている、というものを持っているわけでもない。
成績も、可もなく不可もなく。誰かと同じレベルへ行くには、その人以上に努力をしなければならなかった。
社会人になれば、その能力の差というのは顕著に表れ、それがダイレクトに評価へと繋がる。
自分では頑張っているつもりなのだ。けれどそれがなかなか実を結ばなければ、疲労ばかりが積もり積もっていく。
京の地へ来たのは、そんな疲れきった心を癒すためだった。
有給休暇を申請した時の、上司の渋面が忘れられない。それでも、なんと思われようがどうでも良いと、どこか自暴自棄になりつつ無理やり取った休暇。
日常から逃げたい──その気持ちが強かったのは否めない。
京都を選んだのは、ただ何となくだった。
本当はどこでも良かったのだ。北から南、日常から離れられるのであれば、どこだって良かった。
古の町並み残るその地に、心のどこかで惹かれ、癒しを求めていたのかもしれない。
「お客さん、ご旅行ですか?」
コトリ、と目の前に珈琲が置かれるのと同時に、話しかけられた。視線を携帯から上げれば、カウンター越しにマスターらしき人と目が合う。
店内は、落ち着いたクラシックが流れている。耳当たりの良い旋律と、珈琲の芳醇な香りに包まれた空間。昼間はカフェと機能しているここは、夜になるとバーへと変わるのだろう。マスターの奥にある棚には、色々な種類の酒瓶が品良く並べられていた。
「あ、はい。有給休暇が取れたので」
椅子の近くに置いたキャリーケースを、彼は見たのかもしれない。マスターの問いに答えれば、「それはいいですね」と、愛想の良い笑顔と共に返ってきた。口元に貯えた髭は白髪が混ざり、上品に揃えられたそれは、彼にとてもよく似合っている。
「京都は癒されるでしょう」
「ええ、素敵なところですね」
「お一人で?」
「はい。自分探し、といったところです」
冗談めかして言えば、「僕も若い頃したものです」とマスターは言う。
カウンターに座る一人客のために、世間話を振ってくれているのだろう。彼は空いたグラスを片付けながら、言葉を続ける。
「あの頃とは違って、最近はこの辺りも物騒でしてね」
そうなんですか、と相槌を打ちながら、出された珈琲に口をつけた。
香りが鼻に抜け、深く滑らかな味が舌に広がる。コクのある、美味しい珈琲だった。
「最近、行方不明になる人が多いんですよ」
カウンターの裏でシンクに水が流れ始める音と共に、声が耳に届く。物騒な話題に、思わずカップから口を離した。
「行方不明、ですか」
「ニュースでも取り上げられてますが、あまり見ませんか?」
「あ、はい……。仕事が、忙しくて……」
朝早く出かけ、夜も遅い。ニュースを見る暇がないのは本当だけれど、世の中の流れを知らないということは、恥ずかしいものがあった。どこか言い訳のようになってしまい、語尾は弱まってしまう。
マスターはそんな私を気遣ってか、「大変ですね」と苦笑した。
「目撃情報もないもので、神隠しとまで呼ばれるようになってしまって」
「神隠し……」
「京都、というこの地が、また話題に輪をかけているようでして」
京都で神隠し。
確かに、話題を呼びそうな内容だった。神社が多く、神々の力が宿るこの地では、つい信じてしまいそうにもなる。
「まあ神隠しはさておき、あまり治安が良くない現状なので」
グラスを洗いながら、マスターは続けた。
「一人旅も素晴らしいですが、十分気をつけてくださいね」
恐らく、この言葉が言いたかったのだと察した。女性の一人旅という事で、気にかけてくれたらしい。
夜は、どこかへ飲みに行こうと思っていたけれど。助言にお礼を言い、夜は出歩かないようにしようと思いながら、再び珈琲を口に含んだ。
カフェでランチを終えた後も、予定はきっちり詰まっていた。せっかくなのだから、出来る限り多く回りたい。行きたい神社や寺院は予め調べ、バスの経路も押さえているつもりだった。けれど京都は予想以上に路線網が複雑で、迷うことも多く、当初の計画よりも大分時間は押していた。
最後に訪れた神社は、参拝時間も終わりに近づく時間帯。参拝が終わる頃には日が傾き、辺りは夕陽で染まっていた。
今夜泊まる宿は、ここから徒歩で行ける距離だ。キャリーケースを引き摺り、ガラガラとキャスターと地面の擦れる音を耳にしながら、重い足を動かす。
京都駅を出発し、なるべく遠い場所から宿へ近づくようにと、今日一日のスケジュールを組んでいた。そのため一日中キャリーケースを運ぶ羽目となり、本日何度目かの後悔がここでも襲ってくる。
先に、宿へ荷物だけでも預けるべきだったのだ。
旅支度はできる限り軽量化を計ったものの、数日泊まる量はどうしても重みが出る。それを一日中引き摺って歩けば、疲労は溜まりに溜まっていた。
ここでも要領の悪さが出てしまった、と溜め息を溢すも、今さら後悔したってどうしようもない。
端末の地図と実際の道を確認しながら、歩みを進めていく。日が落ち始めると、冬のこの季節は寒さが更に厳しくなる。
首を縮みこませて歩きながら、ふと昼間の会話を思い出した。
(最近、行方不明になる人が多いんですよ)
(神隠しとまで呼ばれるようになってしまって)
神隠し……と、脳内の会話に内心で呟く。
確かに、随分と物騒な話だ。神隠し、とまで比喩されている事件だなんて。多いとは、一体どのくらいを指しているのだろうか。
思わず、辺りを見回した。夕暮れ時のこの時間、まだ人は疎らに歩いているし、車も通っている。
その事に安堵しつつも、得たいの知れない不安が背筋を駆け抜け、それを振り払うように歩調を速めた。日が完全に落ちる前に、宿へ着きたい気持ちが強くなる。
そんな事件があると知っていたら、京都を選ばなかったのにな──日中は楽しめたものの、暗くなり始めて寒さも一層増してくると、心細さから若干の後悔が顔を覗かせた。
そんなことを考えているうちに、橋に差し掛かったため、ふと思考が引き戻される。端末の地図とその橋を交互に見やり、進むべき方向を確認した。宿へ行くにはどうやら、この橋を渡らなくてはいけないらしい。
コンクリートで出来た、普通の橋だった。
橋のたもとに、大きな柳の木が佇んでいる。その柳の葉が覆うようにして、一つの立て札がぽつりと立っていた。
風で、柳の葉が揺れている。さわさわと、葉の擦れる音が風と共に耳へ届く。夕方の薄暗さは、垂れた柳の木と、その葉がかかる立て札をどこか物寂しげに見せた。
立て札があるということは、何か由縁があるのかもしれない。
それはどこか奇妙にも思えた。一見するとどこにでもあるような普通の橋に、わざわざ看板が設けられているのだから。
そのため、ほんの少し興味がわき始める。通るついでに、と、何気なくその立て札へと近づいた。
大分古いのか、木製の立て札は所々剥げ、染みも出来ている。
戻橋。
見出しに、大きなその二文字。
おそらく、この橋の名前なのだろう。
その名前に続いて、由来であろう文章が細やかに綴られている。
その由来を読もうとした時、強い北風が頬を打った。びゅうっと風の音が耳を掠め、柳の葉はざわめく。あまりの寒さに、身体が縮み上がった。
「さむ……っ」
思わず独り言が溢れるほどの寒さ。身体が震えてじっと立っていられない。由来を読もうとした気持ちも、風にさらわれたようにどこかへ行ってしまった。
早く暖かい場所へ行きたい。とりあえず、先を急ごう。
これ以上読むことを諦め、キャリーケースの取っ手を持ち直し、再び歩き出す。
地図によれば、この戻橋を渡れば後少しで着くらしい。気が急くまま、歩みを進めた。冷たい風が髪を後ろへさらっていき、背後では柳の葉の揺れる音がしている。
──戻橋……。
もどりばし。それは、どこかで聞いた事があるようにも感じた。けれどどこで聞いたかも思い出せず、悶々としながら、その橋を渡るべく入り口へ足を踏み入れる。
と、その時だった。
橋へと入った、まさにその瞬間。
いきなりフッと、目の前が暗くなった。
「……、……え?」
突然の事だった。何の、前触れもなく。
目に見えていた明かりがストンと落ち、目の前に、突如として夜の世界が広がった。
「なっ……え?」
いきなり、暗転した世界。橋へ足を踏み入れた瞬間、まるで部屋の電気がパチンと消えたかのように、野外の明かりが一気に落ちた。
代わりに、暗闇で滲むのは柔らかい朱色の光──灯籠の明かりだった。橋の両脇に、一定間隔で灯籠が置かれている。向こう岸まで続くその灯籠から発する光が、橋全体をぼんやりと照らしあげていた。
朱色の明かりに染まるそこは、夕陽の照らしていた先ほどまでとは、全くの別世界。
夕暮れ時は、一瞬にして夜の支配へと変わっていた。
「な……んで、夜……?」
思わず独り言が溢れる。一体、何が。何が、起こったというのか。
頭は、理解が追い付いていなかった。何が起こったのか、全く分からない。
橋を境に、世界が変わってしまった。そうとしか表現できなかった。たった一歩踏み入れただけで、目に写る光景ががらりと変わってしまった。
異様に胸がざわつき、どっと不安が押し寄せる。
何が起こったのか理解できなくても、異常なことは察知していた。
辺りはどこも、灯籠の明かりで滲んでいる。耳には静寂が訪れ、街のざわめきも消え去っていた。
思わず後ろを振り向く。そこに、人も車も疎らに通っていた世界が存在することを、願う気持ちが強かった。
しかし、すぐ背後には真っ暗な闇が静かに佇み、その不気味さに息を呑む。
闇から発する冷たい空気が頬を撫で、逃げるように橋へと後退りした。
灯籠の明かりも届かないそこは、明らかに私の居た世界とは違っている。
入ったら呑み込まれてしまいそうなほど深い闇は、確かに私が来た方向なのに、私が来た場所とは全く別の所だった。
肺が震え、白い吐息がその暗闇に吸い込まれるようにして溶け込む。
嫌な汗が、背中を伝った。理解の追い付かない状況に、手元が震え始める。周りが、突然変わったのだろうか。それとも私の感覚がおかしくなってしまったのだろうか──。
頭はひどく混乱していた。しかしそんな中、不意に視界へ入ってきたものに、ふと意識がそちらへ向いた。
私の背後から、何かがひらひらと舞い落ちてくる。
視線を橋へと戻せば、灯籠の明かりで照らされたそこは、先程とは違い、無数の花びらが風に乗って漂っていた。
桜の花びらだった。
桜の花びらが、舞い散っている。
こんな、真冬に。
こくりと唾を飲み込む。口の中は乾燥し、喉はカラカラだった。
何が、どうなっているというのか。
訳が分からずも、どこからそれが舞っているのか見回そうとし──どきりと心臓が大きく跳ねた。
目と目が、かち合う。
私以外に、もう一人。
一体いつから居たのか、橋の手摺に腰かけている一人の男性が、じっとこちらを眺めていた。