@ayame0601s
灯籠の明かりと、桜の花びらで包まれるその空間は、幻想的にも見えた。冷たい風は弱まり、花びらは静かに空中を漂っている。
神秘的とも呼べるそんな橋の上で、一体いつから居たのか、その人はじっとこちらを見ていた。
柔らかそうな髪が、風でふわりと揺れる。橋の手摺に片膝を立てて腰掛け、まるで観察するかのように、その人は顔をこちらへ向けていた。
心臓が胸の内を強く叩く。ただでさえ現状に戸惑っていたなか、まさか誰か居るとは思ってもいなかったのだ。
そもそも、最初に見回した時、その人は居なかったように感じる。
突如、現れた人影。この奇怪な状況下で誰かいるということは、安心感というより不審に思う気持ちが大部分を占めていた。
もしかしたら、怪しい人かもしれない。
そう思ってしまうのは、その人が目を離さず、ずっとこちらを見ているからでもあった。見知らぬ人に注視されるのは、あまり心地のよいものでもない。
後ろを振り向けば、相変わらず暗闇が広がっている。それならば、前へ進まなければいけないわけで。
宿の位置を確認するために端末を開くと、圏外を示していた。おまけに画面はエラーが表示されている。
やっぱり、おかしい。得たいの知れない恐怖に呑み込まれて、パニックを起こしそうだった。
目をギュッと強く瞑る。夢ならどうか、どうか早く覚めて──。
必死に心の中で呟き、再び目を開けて、肩を落とした。
目の前は何も変わっていない。それならどうするべきかと、必死に考える。
橋の手摺には、相変わらず男性の姿がある。その人と再び視線が合えば、ほんの僅かに小首を傾げる姿が映った。
……話しかけてみる、べきなのだろうか。
意を決し、キャリーケースの取っ手を強く握りしめると、手摺に腰掛けるその人へと近づいた。ガラガラとしたキャリーケースの音が、やけに響いて聞こえる。
「あ、あの……」
念のため、距離を十分取った場所から声をかけた。緊張からか恐怖からか、声は若干震えたものとなってしまう。
近づいて見てみると、その人は随分と端整な顔の持ち主だった。その、美しいという表現の似合う顔立ちに、思わず息を呑む。
それと同時に、胸の奥が微かにざわついたのを感じた。
「……なんだい?」
柔らかく聞こえる声色。一拍分開けたその言葉は、こちらの様子を窺っているようなものだった。
整った顔に、感情は表れていない。そのため、どこか作り物のような無機質さを感じ、つい目線を外したくなってしまう。
「あ、あの、道を聞きたいんですけど……」
彼の持つ雰囲気に臆してしまい、どもりながら今晩泊まる宿の名前を伝える。地図を見せることが出来たら良かったものの、相変わらず端末は圏外のままだった。
宿の名前を伝えると、彼はそれをポツリと復唱する。その後、うーんと唸った。
「その宿は知らないけど、此処からそこには行けないよ」
返ってきた答えに、理解が遅れた。遅れた、と言っても、十分に理解する事が出来なかった。
宿の事は知らないのに、そこへは行けないと彼は言う。
なぜ、行けない、と言えるのだろうか。
きっと、場所は関係ないからだ。それはまるで、この空間が別世界だという事を暗に言われているようだった。
信じたくない気持ちから、離れるようにして一歩後退る。
「ねえ、君さ……」
彼は目元を細めて私を見る。言葉はそれ以上続けず、思案するかのようなその表情に、身体は自然と身構えてしまう。
その、視線が。彼のその瞳が、心をどうしようもなくざわつかせた。
この異様な場所における、緊張や不安からだけではない。また別の何かに対して心が乱れ、どこか落ち着かない気持ちにさせられるのだ。
その視線に絡み取られると、なぜか胸が締め付けられ、彼から無性に逃げたくなった。
「あ……ありがとう、ございました。もう少し探してみます」
得体が知れない。その表現がしっくりくるからかもしれない。逃げたい気持ちに急かされるまま頭を下げて、そそくさとその場を離れる。
後ろから、引き止める声はない。キャリーケースの音がやたら響くなか、早歩きでその場を立ち去った。
橋の先は、明かりが見えない。先ほど見た背後と同じように、深い闇に覆われている。
けれどきっと、そこへ入ってしまえば暗闇に目が慣れ、何かしら見えるだろう。そもそも、宿はそちらの方向なのだから。やっぱりおかしいと思えば、引き返せばいいだけの話だ。
そう思いながら、半ば言い聞かせるようにして足を運んだ。端末が圏外になる前まで見ていた地図を、必死に思い起こす。
頭の中で再現したその道を辿るように、橋から出ようと、歩みを進めた。
一歩、橋から出た途端。
目に写っていた景色が、再びガラリと変わる。
それは、戻っている、と言った方が正しかった。暗闇に足を踏み入れると思っていた脳内とは別に、目に入ってきたのは、灯籠に照らされた橋の上だった。
「な……っ」
なんで? という疑問は音を成さず、そのまま呑み込む。
視界の先に、一人の男性。橋の手摺に腰掛けるその人は先ほどと同じ位置に居て、顔は橋の向こう側を見ている。
おそらく、私がさっきまで居た場所を見ているのだろう。そう思ってしまうのは、この光景が橋の入り口に立った時のものと、全く同じものだからだった。
その人はこちらに気づいたように、ゆっくりと振り向く。
ここからは少し距離があるため、細かい表情は読み取れない。私が目を凝らすより先に、その人は手摺から離れると、静かな足取りでこちらへと近づいてきた。
思わず、体に緊張が走る。その人の肩にかけたジャケットは揺れ、コツ、コツ、と靴の音が辺りに響く。
足は地に根を張ったように、その場から動けなかった。ただ、その人の近づく様子を目で追う事しかできない。しかし胸の奥底から沸き上がってくるのは、「逃げたい」という衝動だった。
この衝動がなぜ沸き起こるのか、分からない。結局体は動かないままで、その人は私のすぐ側まで来ていた。
「ね、言ったでしょ。此処からは行けないよって」
ただ、そう言っただけだった。通り様に横目で言った後、彼はそのまま私を通りすぎていく。
視界から彼の姿が消えた途端、強張っていた肩の力がフッと抜けた。何も怖がる必要はなく、拍子抜けしたのかもしれない。
振り返れば、こちらに目もくれず歩いていく後ろ姿が、少しずつ離れていく。
「あ、あの!」
思わず、声をかけていた。さっきまでの逃げたい衝動と矛盾して、今はその姿を引き止めたくなっていた。危害を加えられないと思った瞬間、この異様な空間で一人取り残されることに、急激に心細くなったのだ。
彼は私の呼びかけに足を止めると、顔だけこちらを振り返る。
「なに?」
その声に、感情は乗っていない。淡々とした答え方は、引き止められて迷惑がっているようにも感じる。
「あ……の、ここは、どこなんでしょうか」
けれど迷惑がられようが、そんな事を気にしている場合ではなかった。とにかく、現状を把握しなければいけない。彼は、ここがどこか知っているようなのだから。
私の続けた質問に、彼はやっと、ちゃんとこちらに向き合った。
そして静かに口を開く。
「戻橋」
短く発した、その言葉が耳に届く。
もどりばし──それは、橋を渡る前に看板で確認した名称だった。
「此処は、この世とあの世の境目だよ」
簡潔にそれだけ言うと、彼は踵を返す。
──この世と、あの世の、境目。
彼の言った事を、全く呑み込めなかった。
言葉自体の意味は分かるのに、言っている事をすんなりと受け入れられない。
唖然とし、ただ立ち尽くす事しか出来ずにいれば、彼は「あ、」と思い出したように呟き、再び振り返った。
「その橋、鬼も出るから。気を付けてね」
そう言って、今度こそこの場を立ち去るべく、私に背を向けて歩いていく。
暗闇に溶け込むようにだんだんと遠くなっていく彼の後ろ姿を見て、心臓が忙しなく焦り出した。
ここは、この世とあの世の境目で。しかも鬼が……鬼が、出るらしい。橋から宿の方向へは進めない。そんな場所に、このままだと一人になってしまう──。
頭は混乱していた。訳の分からないことばかりで、整理なんて出来ていない。
けれど単純に考えられるのは、このままこの場に留まるか、彼について行くか、という事で。
彼の姿が見えなくなっていく。悩んでなんていられず、ほとんど直感の領域だった。
キャリーケースの取っ手を、強く握り直す。
「あの……! 待って、待ってください」
走り出せば、それと一緒にキャリーケースは大きな音を出した。彼の姿を見失う前に、声を張る。
彼の表情にも声にも感情は感じられなかったけれど、無情ではないらしい。
私のけたたましい音に足を止めると、ゆっくりこちらを見やる。
「……なに」
私が近づいたところで、彼は抑揚のない声で言った。暗くて見えにくいけれど、私を見下ろすその瞳はやっぱりどこか無機質で、温かみが感じられない。
「すみません……行くところが、ないんです。ついて行っても、いいですか?」
上がる息に、言葉は途切れ途切れになってしまった。
見知らぬ人に、しかも男の人について行くなんて、どうかしている。頭の中で、冷静な部分がそう呟く。
けれどきっと、あの橋から出られない。橋を出ようとした瞬間、入り口へと戻ったあの感覚は説明できないものだけれど、「此処からは行けない」という彼の言葉を裏付けるには十分だった。
彼の背が遠退く姿を見て、ついて行った方がいい、と、心の奥底から急き立てられたのだ。
目の前の彼は、黙って私を見下ろしている。断られるかもしれない──そう考えていれば、彼はスッと目を細めた。
「別にいいけど、僕は責任持てないよ。どうするかは全部自分で決めてね」
事務的に、平坦な声でそう言うと、私の返事を待たずに歩き出した。
そんな彼の言葉の意図を、考えさせてくれる時間はくれないらしい。
ただ、どうやら決して歓迎はされていなく、何かしら困難が待ち受けているような言い方に、怖じ気づき始める。
どうするべきかなんて、もう分からなかった。
彼について行った方がいいのか、いまだに悩みはあるものの、これ以外の選択肢も見当たらない。
不安が胸に居座るまま、大丈夫だと自身に言い聞かせて、彼の背を追い足を進めた。