@toasdm
「おい、オマエ」
ぐ、と手首を掴まれ引き寄せられて、彼女は思わずバランスを崩す。チッ、と舌打ちをして、ダッセェ、と意地悪く吐き捨てるように笑いながら、しかし漣の腕と胸板は優しく彼女を抱きとめた。
「な、んですか」
スン、と彼女の髪の毛に鼻先を埋めて匂いを嗅いで、漣は怯える彼女の瞳を覗き込む。
「う……」
「どこ行ってきたんだよ」
「え、ど、どこ、って……」
煙草くせーんだよ、と言われて彼女は、ああ、と思い出す。仕事の打ち合わせで閉じ込められていた会議室で、確か恰幅のいいディレクターがチェインスモーカーよろしくずっと煙草を吸い続けていたのだ。
「ちょっと、会議で」
「フン」
困惑する彼女の、今度は肩口に鼻先を埋めて、漣はいっそう眉間のしわを深くした。
「……お仕事の会議のクセに、知らねー男の匂いくっつけてくんのかよ」
「っ!」
全身でおもしろくねー、と体現するような漣の態度に、彼女はできれば忘れてしまいたかった記憶を呼び起こされた。会議の終わりに、期待してるよ、と下卑た視線で舐め回すように値踏みされて、この後どう?と全身をべたべたと触られた記憶だ。
「んだよ、その顔……」
「や……い、犬みたいだな、って」
「はぁ?」
誰が犬だよ、と掴んだ手首を壁に押し付けて、漣は苛立たしげに彼女を見下ろす。
「犬だの下僕だの、そーゆーのはオマエの方だろ」
「ぅ……」
強い視線に思わず目を逸らした彼女の顎をぐっと掴んで自分の方を向かせて、漣は彼女の唇に噛み付くようなキスをする。
「んんっ……!!」
「……ハッ」
ふざけんなよ、と怒られて思わず反射的にごめんなさいと謝ったが、漣は視線の鋭さもそのままに、首筋、腕、手首へと、次々と浅く噛み付く。歯を立てられる度にびくびくと体を震わせる彼女を一瞥すると、漣は忌々しげに吐き捨てた。
「ンな泣きそうな顔するくらい嫌だったんなら、最初からオレ様に言えよ!」
「う、うぅ……」
思い出さないように、忘れてしまえるように、自分さえ我慢すれば彼らに仕事のチャンスがやってくる、とうまく折り合いをつけようとしていた彼女の心の一番奥、すごく嫌だった、という素直な気持ちが、まるで漣のつけた噛み痕からあふれ出すようにじわじわともれてくる。嗚咽混じりにまたごめんなさいと謝る彼女の頭をわしわしと撫でて、漣はニッと歯を見せて笑った。
「バァーカ」
「うぇぇぇ……」
「どこのどいつだよ、オレ様の下僕にベタベタ勝手に触りやがったのは」
ブン殴ってくる、と血の気の多いことを言う漣をぎゅっと抱きしめて引き止めて、彼女はすりすりと、甘えるように頬を擦り付ける。
「ありがとう……」
「……フン」
わかりゃいんだよ、とまた雑に彼女を撫でて、うぜーから泣くな、と突き放すように口ばかりは文句を垂れるが、彼女を抱きしめて離さないのは漣の方だ。突き放すのは言葉だけで、その実、漣は彼女を手放さない。嫌悪感を払拭するようにあちこちに噛み付いて、漣は自分を上書きしていく。
「今度自分だけが我慢すりゃ丸く収まるなんてクソみてーこと考えやがったら」
ひとしきり噛み付いて満足したのか、漣は彼女を力強く、潰してしまいそうなほどに腕に抱きしめて言う。
「……ぜーってぇ許さねーからな」
下僕は大人しく最強大天才のオレ様にびーびー泣きついてろよ、の語調も口調も荒っぽかったが、何も言わずとも要らぬ我慢を背負い込んでいた彼女の気持ちを理解できる程度には、漣は彼女に愛着を持っていた。それがわかる幸せに安堵して、彼女は子供のようにわんわんと泣き、気持ちと涙が落ち着くまでずっと、漣に抱きついていた。
肌に刻まれた牙の痕跡が消える頃には、彼女はすっかり嫌悪感を忘れていた。