@toasdm
アイドルたるもの、常に身奇麗にするように心がけるのは当然だと道夫は思っていた。元々清潔感がないわけではなかったにしろ、それにプラスアルファとして、例えば爪を丁寧に手入れするようになったりだとか、スキンケアだったりだとか、身につける衣服も自分の趣味とトレンドとの折り合いをうまくつけたものを選ぶようになっていた。
当然、香水にも気を使うようになっていた。自分の年齢や印象などをしっかりと分析して、店頭で試香紙(ムエット、という名前らしいこともつい最近知った)をもらって時間の経過による香りの変化を楽しんだりするようになっていた。
そんな風に計画的に買い物をする日常の中で、道夫は今日初めて衝動買いをした。これは買ってしまうな、と苦笑しながら開けた香水の箱には、円周率を示すギリシャ文字が記されていた。
「……ふむ」
金色に輝くゴージャスなボトルは煌びやかで、試しにテーブルにコトリと置いてみたが、派手さはさほど感じられず、大人らしくシックな印象もあった。アイドルらしいといえるだろうか、としげしげとそれを眺め、道夫はキャップを外した。
「む」
二度三度、空押しの後に噴霧された香りの霧が空間にふわりと広がっていく。パウダリーな香りはハーブのようなシトラスのような、フレッシュな第一印象だった。
「これは、私が使うには若すぎるだろうか……?」
香りの正体を確かめもせず衝動的に買ってしまった弊害、自分に似合わないかもしれないという失敗感に道夫は眉をしかめたが。
「……うん?」
確か、つけたての香水の第一印象をトップノートといっただろうか、と道夫は知識の書架を漁る。トップノートはフレッシュな印象だったが、それが落ち着いた後の香水の本体、ミドルノートはウッディで落ち着いた、ちょうど道夫くらいの男性がつけていてもおかしくないような繊細な香りが漂った。ハーブらしい印象はまだ少し残っていたが、フレッシュというよりは広がりのある香りで、広がりか、と道夫は再びボトルを眺める。
「…………円周率、か」
割り切れない無理数、循環しない、終わりのない超越数。無限に広がる香水の印象と、その名前との一致に道夫はフッと笑いを漏らした。
元数学教師としてこの香水は、いい買い物だったと言えるかもしれない。そんな風に思うと衝動買いの罪悪感も少しは薄れてくるというもので、ついでに一緒に買ってきた文庫本を片手に、道夫は手首に少しつけた香水と共にしばし読書の時間を過ごした。
「……ほぅ?」
読み終えた文庫本をパタンと閉じた瞬間に起こった小さな風が、道夫の手首から円周率の香りを当たりに広げる。一般的に残り香と呼ばれるラストノートは、フレッシュで繊細な印象だったトップやミドルノートよりももっと濃厚で、嫌味のない、甘いバニラのような香りがした。
「こんなに変わるものなのだな……」
人懐こい、誰からも好かれるような雰囲気の影に隠れていて、馴染んだ頃にそっと顔を出したのは、大人びた甘く官能的な香りだった。
まるで誰かさんのようだな、と彼女の顔を思い出して、道夫は文庫本の代わりにまたその、円周率のボトルを手に取った。
明日はこれをつけて、君に会いに行こう。
いい買い物をしたものだ、と満足そうに笑って、道夫はボトルを丁寧に箱にしまった。